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2016年3月9日水曜日

まっとうなことば

まっとうなことばというものがマスコミに大々的に伝えられるのを久しぶりに経験した気がします。

「保育園落ちた日本死ね!!!」と
ジャイアンツ高木京介選手の野球賭博謝罪会見。



言語は不自由で厄介なものです。
わたしたちは、もうすでに存在してしまっている「日本語」ということばの世界にあとから参加するかたちで生まれます。
自分で選んだわけじゃない。
日本語に限らず、どんな言語だって、「わたしの思い」を表現しきれない。
言語とは本質的にそういうものです。
だから、ある言語を「自由自在に使いこなす」ということはあり得ません。

だけれども、フェルディナン・ド・ソシュールが言うように、言語なしにわたしたちは「考える」ことすらできません。
「こんな思い、ことばになんかできない」
と紋切り型のロックは歌いますが、
「こんな思い、ことばになんかできない」って、ことばじゃないですか。

ことばの不自由さや厄介さは承知の上で、
なんとかして「こんな思い」を表現し、伝え、
逆に人の(不十分な)ことばの向こうに「あんな思い」を読み取ろうとする。

それがまっとうなことばのやりとりだと思います。
そういうまっとうなことばのやりとりを実践して見せること。
それが大人の大事な役割のひとつです。


安倍首相をはじめとする自民党の政治家たちはそういう役割をはたしていない。
彼らの発言内容はとりあえず置いておきます。
内容よりももっと深刻なのは、彼らの話しぶりが
「ことばは空疎で無力な使い方をするべきなのだ」
ということを若者たちに教育している点だと思います。

質問にまともに答えない。
まっとうなことばの「やりとり」をしない。
「そっか、それがことばの使い方なんだ」と若い人は思うと思う。



「保育園落ちた日本死ね!!!」は、
伝えようとし、相手にことばを受け取ることを要求するストレートなことばでした。
それを「まっとうなことば」だと感じる感受性を阿倍は失っていた。
いや、「まっとうなことば」が存在するのだ、という感受性すらなくしていた。
(まっとうなことばをひたすら避けてきたのだから感受性がなくなるのは当たり前、とも言えるでしょうが)
誰が書いたかわからない、相手にするべきではないことば。
そう受け取り、そう公言した。

「保育園落ちた日本死ね!!!」を誰が書いたっていいと思います。
あれは多くの母親たちが政治家に受け取って欲しいと思っていたことばだから。
幼子を抱える母親たちと会見せざるを得なくなった大臣のことばのなんと貧相でみじめなこと。そして母親たちのことばが、それとは対照的になんと知性的で強い力を持っていたこと。


そして高木京介選手の謝罪会見。
まともな「謝罪」を聞くのは何年ぶりでしょうか。

事件が起きると会社や関係機関のお偉方が頭を下げる。
判を押したように「ご迷惑をおかけして」申し訳ありませんでした、と言う。

問題は「迷惑をかけた」ことじゃないでしょ。
「悪を行った」ことが問題でしょ。

高木京介選手は、何も背負わず、「自分ひとり」で立って、正面を向いて、自分なりのせいいっぱいのことばを使ってしゃべっていた。
裸一貫のことばです。

「迷惑をかけて」と言わなかった。
多くの人を「裏切って」すみませんでした。
「野球賭博をしてすみませんでした」。
そう言った。
「わたしは悪をしました」という、当たり前だけど昨今なかなか聞けないまっとうな謝罪でした。

自分のことばで責任を取る。
そういう覚悟に満ちあふれていました。
同時に、ことばだけで責任を取れない、その重さを感じていることもひしひしと伝わってきました。
それでも社会に対しては「ことば」で伝えるのだ、
高木京介はそういう「ことばへの覚悟」を体中で表現していました。

おそらくひたすら野球だけをやってきたであろう26歳の若者の
乏しい語彙と何のレトリックもないことばが、
高等教育を受けて「効果的な話し方」の訓練などを受けてきたであろう会社や役所のお偉方の形だけの謝罪をはるかに超える力を持っていました。

伝えようとすることば。
そういうことばを苦労しながら使い続けることによってしかことばの希望はないと思います。


「保育園落ちた日本死ね!!!」と高木京介選手の謝罪会見は、
多くの人にそういう希望を与えてくれたと思います。



2 件のコメント:

  1. 先生のご出身校の卒業生で、
    何年も前に先生のギリシア古典の講座を受講いたしました。
    こちらのブログを最近たまたま見つけてからは、
    仕事がひと段落するたびに閲覧・拝読しております。


    いま私は小さな出版社に勤めておりますが、
    「ことば」を生業としているはずのこの業界でも、
    それをおろそかにする=「まっとうなことばをひたすら避けて」いる人
    が少なくありません。
    (もちろん、そうでない人のほうが大半だと信じていますが。)

    まっとうなことばを避けている人が組織やチーム内にいたとしても、
    「オトナの対応」とやらのおかげで、
    なんとか仕事を進めることができています。
    しかし、ことばを大切にしない人は終始、
    災いの小さな種を口からまき散らしているようで、
    必ず大きな諍いに発展してしまうことを目の当たりにしてきました。

    まっとうにことばを発しない人は、そもそもことばを信じていないので、
    他者のことばにも耳を傾けないのですね。
    だから、有意義な論争ではなく、不毛な諍いにしかならない。
    まっとうなことばを投げかけようとする人が
    落胆する場面は何度もありますし、
    それをただ見ているだけの自分にも苛立ちを覚えつつある昨今です。


    細部までを正確に憶えていないのがお恥ずかしいのですが、
    先生の授業で、アテネの民主政における「ことばの重要性」を
    学んだことが強く印象に残っています。
    当時(今もですが)ものすごく腑に落ちて、それ以来、仕事においても、
    友人関係でも、夫婦喧嘩のさいも、
    正直に誠実にことばを交わすように努めています。
    達成できているかどうかは別として。

    すると、問題はどんどんクリアになって視界が開け、
    「あのときどうすべきだったか、今後どうすべきか」という
    建設的な考え方ができるようになると実感しました。
    まっとうな討論が成り立たなかったり、
    討論だけですべてが解決できなかったり、といったこともありますが、
    少なくとも自分はどんな環境においても「ことば」を尊ぶ姿勢を
    持ちつづけられればいいなと思っています。

    個人的に強く関心を持っている話題であり、
    しかもつい最近、ことばをおろそかにしたことが原因の大喧嘩を
    目の前で目撃したため、
    思い切ってコメントを投稿させていただきました。
    長文失礼いたしました。

    返信削除
  2. >柊さん
    まっとうなコメントをありがとうございます。ことばを蔑ろにする人間の末路は哀れです。そうは言っても、まっとうなことばがなかなか流通しない現実を嘆いていてもしょうがない。「喜劇のことば」を身につけて(要するに笑いをかまして)言いたいことを言い続けるのがひとつの方策だと思っています。意外に相手に受け止めてもらえることが多いです。
    しかし「喜劇のことば」には修練が必要です。
    わたしもまだ非力。でも鍛え続けようとは思ってます。
    ことばにかかわるお仕事、めげずに前に進んでゆくことをお祈りしています。

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