「笑ってコラえて」でダーツの旅総集編を見る。田舎の愛すべき人々の言動を所ジョージとさんまが茶化しながらコメントしていくんだけど、東北の元ドラマーのおっさん(爺さん)が写ったときの所ジョージのコメントにはドキリとした。
ひとしきり茶化したあとで所ジョージはさんまに「でも俺らも気を抜くとあの人とたいして変わらないかもしんないよ」と言った。
おそろしい自己批評力です。
わたしは所ジョージやさんまとほぼ同世代だから、その感覚はものすごくわかる。
迫り来る老いと格闘している世代です。まだ老いをほんとうには受け入れられない。
人によっていろんな格闘の仕方があると思う。
所ジョージは「遊び」という文化の虚構を武器に「楽しげなわたし」を演出し続けることで、老いと格闘している(あるいは老いを無視しようとしている)人だとわたしは思っていた。それはそれで大変なエネルギーがいるし、ほんとうの意味での教養と知性が要求される。もちろん所ジョージはそれだけの力量を備えた人だ。
でも、所ジョージはそういう自己像の構築の努力が、老いを前にした「勝ち目のない戦い」であることをちゃんと自覚している。そのことが今日のコメントではじめてわかった。わたしが思っていた以上にしなやかで強靱な知性の人なんだな、と感服しました。
うふふ、今日の話は若い人にはわからないよ。
「気を抜くと」というひとことが重い。所ジョージは気を抜いていない。現役の芸人だから。自分と同じすぐれた芸人のさんまも気を抜いていないことを所ジョージは承知していて、その上で自分たちが老いの崖っぷちに立って格闘していることを確認したかったんだと思う。とっさに出た戦友への連帯のことばだ。
でも、さんまは所ジョージほどすなおじゃないし、自分の芸風に会わないと判断したのか、「そーよなー」と同意したりせず、所ジョージのコメントを無視した。さんまはしかし内心ドキっとしたと思う。所ジョージが指摘した内容そのものと、それを平気で口にする所ジョージの懐の深さに。
郷ひろみも崖っぷちで戦っている人だ。あの鍛え上げた体と声には、老いの崖を背にした人間のすごみがある。若いときの郷ひろみにはあんなすごみはなかった。
今日も8km走ってトレーニングをしました。郷ひろみの足もとにもおよびませんが。気を抜くと坂道を転がり落ちるように体の線が崩れていく。
老い(の第一歩)とはそういうものです。
最終的には老いを受け入れざるを得ないのでしょうが、勝ち目のない戦いを続けていく力はどこにあるのだろうか。
そういうことをよく考えます。
わたしより下の世代の、でも中年のある女性と最近飲んだおりに、彼女がしみじみと
「この年になると悪徳ってとてもだいじなことですよね」
と言った。
彼女は尊敬すべき人格の持ち主で、結婚していて夫を愛している。
でもね、夫ではない男にエロい気持ちになることをとてもいいことだと考えるようになった。
そう彼女は言いました。
あー、誤解のないように言っておきますが、二人きりで飲んでいたのではなくて、私を含めたジジイ、ババアの集まりの席での話です。彼女はわたしを口説いていたわけではありません。人生哲学を語っておったのです。
老いが迫る中で、エロい気持ちは純粋に自分が生きているという感覚を与えてくれる。若いときはいけないこと、してはならないこととして否定したきたそういう意味での「悪徳」が、今ではとてもすなおに肯定できる。
彼女のお話しは、一同の深い賛同を得ました。
「でもねー、それで家庭を壊しちゃったらだめだしねー。そのバランスがほんとにむずかしいよねー」
というまっとうなコメントは当然出ましたが。
考えてみれば「エロい気持ち」って、すなおな子供になることなんではないか。「あのアイスクリーム欲しいよー」みたいに。
子供は老いの対極にあるものです。
自分の中に子供の気持ちがわきおこるとほっとします。
みんな老いと格闘しているんだなー、としみじみ感じた飲み会でありました。