『悪童日記』が映画化されました。
政治と経済が混乱を極めるハンガリーの地獄絵図を、冷徹な知恵を使って生きのびる少年たちの物語です。
手に汗握るエンターテインメントを期待したら裏切られます。
「生きのびる」ことだけを迫られた孤立無援の主人公たちがごくあたりまえのように嘘・策略を用いて行動していく、その肝の太さの前には、情緒だとか優しさだとかはかすみのように意味をなくしてしまう。ものすごい「悪童」ぶりです。
『プチ・ニコラ』みたいな、大人の手のひらの中での「お茶目な」悪童ではない(『プチ・ニコラ』大好きなんだが)。
生き方として「悪童」であることを選ばざるを得なかった、冷たい悪童ぶりです。
いっさいの虚飾をはぎとられたときにあらわれてくる「生きる」ということのすさまじさが、少年の「日記」という素朴な文体によっていっそう生々しく伝わってきます。
「倫理」や「正義」を語るなら、この小説を読んでからにしてくれ、
と言いたくなるくらいの衝撃があります。
多くの映画監督が映画化に挑戦したらしいがみんな挫折したらしい。
さもありなん。
今回公開される映画はアゴタ・クリストフの世界をみごとに映画化したとの評判。
わくわくします。
ところで原作はフランス語です。
地獄を生き抜く10代の少年の日記という形をとっていますから、文体は洗練とはほど遠く荒々しい。翻訳でもそれは伝わります。
わたしは2001年に(3番目の)姉から教えられて邦訳でこの小説を読みました。
おもしろかったのは、
姉は大学でフランス文学をやっていたので、卒業後も主婦業のかたわら、フランス語教室に通っていて、
そこのフランス人の先生に
「アゴタ・クリストフの『悪童日記』はものすごい。先生はどう思うか?」
と質問したところ、
「アゴラ・クリストフ? それは誰だ。わたしは知らない」
と答えたそうです。
姉曰く、
「あんなベストセラーを知らないはずはない。ハンガリー人の荒削りな文体で書かれた作品をフランスのエリートは絶対に認めたくないから知らないふりをしたんだ」と。
当たっているとわたしは思います。
移民や亡命者を受け入れてきた歴史がある一方で、
フランスの知識人には「フランスは世界の思想の最先端だ」という中華思想があります。
その「最先端の思想」は「洗練された美しいフランス語」で書かれなければならない。
そこがアメリカなんかとまったく違う点です。
ヴォルテール、ベルグソン、レヴィ=ストロース、リクール、J.-P.ヴェルナン、フーコー、
(そして異論はあるかもしれませんがデリダも)
みなみごとな文体です。
外国から移住してきた知識人(当然全員めちゃめちゃに頭が切れる人たちです)は、
必死になって「みごとな」フランス語で書こうとする。
そうじゃないと認められないからです。
ブルガリア出身のすぐれた記号論者ジュリア・クリステヴァなんか読んでると、
言ってることはおもしろいと思うのですが、文体に「移住者の悲哀」を感じます。
もう、一生懸命、こむずかしく、複雑な文体を駆使しようとしている。
フランス文学をやってる優秀な友人は
「要するにクリステヴァは田舎者の文体なんですよ。必死に背伸びをしている」
と評していました。
アゴタ・クリストフはジュリア・クリステヴァが考えもしなかったやり方をしました。
「みごとなフランス語」なんかに目もくれない。
「田舎者でどこが悪い。パリの洒落者にわたしみたいな世界が書けるのか」
と洗練されてないフランス語で書いた。
そして大ベストセラーになった。
痛快です。
フランスの知識人(の一部)にとって苦々しい作家だと言えます。
『悪童日記』すごいですよ。
小説読んでから映画見るといいかも。