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2013年9月16日月曜日

『風立ちぬ』

宮崎駿の長編引退宣言があったので、
ひさしぶりに更新します。



8月の暑い日に『風立ちぬ』を見ました。

日本酒の冷やおろしが出始める季節でした。
春の新酒が夏を越して落ち着いた頃に一度だけ火入れした初秋の日本酒が「冷やおろし」です。
わたしは新酒は飲みませんが、冷やおろしは楽しみにしていて飲みます。

冷やおろしの第一号が届いたので、寝酒に開ける予定でいたのですが、
『風立ちぬ』を見て、急遽、イタリアの赤ワインを開けることにしました。 

シチリアの「エローロ・パキーノ2010」。 




シチリア島の「ネロ・ダーヴォラ」という独特のブドウを使っています。 
「ネロ(黒)」という名前の通り、黒々とした赤ワインです。 
野趣あふれる「地酒」という感じのワインになることが多い(わたしは好きです)。 

「エローロ・パキーノ」はネロ・ダーヴォラ100%ですが、もう少しやわらかで上品。 



なぜ、『風立ちぬ』を見たら赤ワインを飲みたくなるのか? 
見た人はおわかりでしょう。(以下、『風立ちぬ』の一部ネタバレがあります。いやな人は読まないよーに) 





わたしは宮崎駿の作品と同時代に生きていることを神に感謝しています。



わたしなりに宮崎駿の優れている点を言うとすると、

「人間と文化に対する複眼的な見方」ということではないかと思います。
『風立ちぬ』はその集大成だという気がします。



ふり返れば。



『風の谷のナウシカ』はもちろん傑作ですが、

漫画版のごく一部でしかないから
なんか「自然とともに生きましょう」みたいな楽天的エコロジーがあった。 
もちろん宮崎駿だから、薄っぺらじゃなくて、ものすごい説得力はあったわけだけれど。

漫画版はそんなエコロジーを突きぬけている。 
「あるがままの自然なんてそもそも存在するのか?」 
という恐ろしいクエスチョンをつきつけて、その上で人間に可能性があるとすると何なんだ? という身もすくむような問題に体当たりしています。 

宮崎駿にそれをアニメ化するパワーは残っていないと思ってました。 
もののけ姫は、アニメ版で描ききれなかった負債を返そうとした作品だと思います。



ものすごい気迫。
でも余裕がない。息苦しい。

思想の表現でありながら
なおかつアニメの楽しさと広がりがある作品を作ってくれないだろうか

と思いながらも、宮崎駿自身にそのパワーはもう残ってないんだろうな、
と感じていました。



『ナウシカ』の続編をやれるとすれば、庵野秀明なんだろうな。
やって欲しい。

周知のように、『エヴァンゲリオン』の庵野秀明は「ナウシカ」の巨神兵をデザインした人物。 
宮崎駿が「庵野秀明が『ナウシカ』の続編を作るんならいいよ」とお墨付きを与えた人物です。 (そして『風立ちぬ』の二郎の声をやっている人物です)




一方で、宮崎駿には
人間のくだらなさを見すえた上で人間の生を肯定したい
という過剰な欲望に満ちた作品もあります。

『千と千尋の神隠し』。

最初の方の、お父さんとお母さんが無人の屋台でガツガツとむさぼり食って豚になっていく場面は、 

ある年代の子供にとって「親はガツガツ食べてる豚に見える」という深い真実が描かれているんだと思います。 
お父さんが乗っている車がアウディだというのが象徴的です。
社会的にある程度成功した「きちんとした」人間が乗る「きちんとした」車。


でも千尋は、きちんとした親に「豚」を見てしまう。
「純粋なわたし」に対する「汚い親」という図式なわけです。 


しかし主人公はそういう「子供」から大人に成長してゆく。 
「豚みたいな親」のなかに「人間」があることを認識する力を獲得していく。 
あちら側の世界での労働と冒険を通じて。 

ビルドゥングスロマン(成長小説)です。そしてビルドゥングスロマンはニヒリズムの対極にある。 


千と千尋の神隠し』では宮崎駿はこの世の現実にしっかり貼りついていた。 





崖の上のポニョ』の宮崎駿は疲弊していたんだと思う。


すでに2チャンネルかなんかである慧眼の士ががみごとな分析をしていたのですが

(大慌てで調べてみたのですが、見つかりません)

あれ全部死後の世界なんですね。 


老人ホームの人たちが最後に自分の足で歩いているのは死者だから。 
お父さんが海で巨大な観音(?)と遭遇するのもお父さんがすでに死んでいるから。 

「もう生者の世界には疲れた。死者の世界に行きたい」 

という作品が『ポニョ』でした。 




問題は宮崎駿がニヒリズムから回復するかどうかだ。
そう思っていました。 


風立ちぬ』はそういう意味では期待薄。 
だって堀辰雄の原作はまさに死の世界だから。 
死に取り巻かれた結核の世界を描いているんだから。 

でも題材がそのまま作品になるわけではない。 
宮崎駿は意外に、堀辰雄の「死の世界」をひっくり返して 
「生の肯定」をやるのかもしれない。 

そこがスリル満点だよねーーー、と思っていました。 



『風立ちぬ』には賛否分かれてるようですが、 
わたしは断然好きです。 
ひょっとしたら『ラピュタ』に匹敵するくらい。 

生の肯定があります。 
でもそれは
「疲れて行ってしまった死の世界(『ポニョ』)から、元気になって生者の世界に戻ってきた」 
ということじゃない。 

「死」というものが前よりくっきり見えてきて、「死」が厳然とあるからこそ「生」のすべて(善悪ふくめて)がかろうじて肯定されるのだ。 
そういうパラドックスとしての「生の肯定」があります。 

これ自体は宮崎駿の新しい要素ではなくて、すでに『紅の豚』にもあったと思います。 
死の臭いの中からかろうじて立ち上る人間の肯定。 


『風立ちぬ』はそういう種類の人間の肯定が、いっそうくっきりと祈りのように表現されていると思います。 



おそらく『ポニョ』以後、宮崎駿の死の見方を変えた(深化させた)ものは 
3.11の大震災です。 


パンフレットによると、

関東大震災の場面は、3.11以前に構想されていたようですが、

制作途中であの大地震が起きたことは決定的だったと想像します。


二郎と菜穂子が出会うのは列車のデッキ。 
まさに恋愛ものの紋切り型のような(でも紋切り型であるからこそ美しい)出会い。 


その列車が大震災に出くわす。 

崩れゆく家並み。やがて起こる火災。 
逃げ惑う人々。 



伝聞ですが、『風立ちぬ』は音響効果を使わずに、

すべて人の声で音を作っているらしい。

地震の地鳴りはものすごい迫力の音でした。
まさに「死」がうなりを上げているような音。


「機関車が爆発するぞーーー!」 
と乗客はなだれを打って逃げ出す。 

混乱の中で二郎は、菜穂子と女中を助けます。 
「機関車は爆発しません」 
と落ち着いて言いながら。 


二郎は美しい飛行機の設計を夢見る大学生。 
技術と科学の人です。 
二郎と同じようにそういう美しい夢を見た技術者・科学者が 
「原発は爆発しません」 
と言ってきたのです。 


科学は美しい夢。 

同時に悪を背負っている。 

パンフレットに立花隆が書いている言葉を借りると

「空を飛ぶという夢の技術が本質的にはらんでいる『美しさと呪わしさ』」

ということでしょう。


のちに三菱に就職した二郎たち若い技術者が 
当時最先端の技術の産物であったジュラルミンの美しさに感動する場面。 

世界に誇る戦闘機、ゼロ戦を作り上げた技術者たちはまさにそういうジュラルミンという「美しい夢」を、純粋に美しい気持ちで追い求めていたのです。 
原子力という「美しい夢」を追い求めた科学者たちと同じように。 



宮崎駿はその「美しい夢」がはらむ罪を決して断罪しない。 
罪は罪として認めつつ、 
「美しい夢」(文化・文明)の「美しさ」を認めなければ 
人間は人間たり得ないではないか、その「美しさ」だけが 
「野蛮」に対抗できる人間の証(あかし)ではないか。 

冷徹な歴史認識とともに、宮崎駿は祈りのように「文化」の意味を伝えているように思います。 



それは「死」という、もう絶対に「人間の力を超えるもの」の視点が導入されてはじめて見えてくる「人間の価値」というものではないかと思います。 



「人間を超えるもの」を具現するのが、二郎があこがれるイタリア人飛行機設計士カプローニ。


この人は二郎の夢の中にしかあらわれない人物。 
人間を超える「神の視点」を二郎に垣間見させてくれる。 

地獄と夢は紙一重。 

カプローニは陽気にそれを二郎に伝えます。 

わたしはホメーロスが描く「浜辺で砂のお城を作ってはこわす無邪気な子供のような」 
神アポロンを思い起こしました。 



そして神の世界と人間の「醜く美しい世界」をつなぐ存在=天使が 
軽井沢のホテルに滞在するドイツ人カストルプ。 
堕天使ルシフェールかもしれない。 

宮崎駿はカプローニをメフィストフェレスだと言っていたようですが、
でもわたしは境界を自由に行き来する神ヘルメースを思いました。 

カストルプは言います。


軽井沢は美しい。 
ドイツは壊れようとしている。日本も壊れようとしている。 
軽井沢ではそういうことを「忘れられます」。 


品の良い高原のホテル。 
欧米人と混じり合う上流日本人たち。 

それを「逃避」と言っていいかもしれない。 
あるいは、 
金持ちだからそういう生活が可能だったんじゃないの? 
と突っ込むこともできるかも知れない。 


でも、第二次世界大戦と3.11を経験したわたしたちは 
それを「逃避」と呼ぶことができるでしょうか? 

歴史を「神のように」振り返ったとき、 
大正後期から第2次大戦までの日本の「正常」「人間らしさ」はどこに認めることができるか? 
軍靴の音が響く時代の中で、日本が「美しい夢」の価値を認めていたこと、 
それが虚構ではなくて、「美しい夢」にあずかれない庶民にも共有されていたこと。 
それがあの時代の価値だったのではないか、それがなければ現代の私たちは救われないのではないか。 

戦前までの日本のひとつの「美しさ」。 
それに宮崎駿はオマージュを捧げています。 
わたしはもちろん実見していません。 


でも、たとえば澁澤龍彦が回想する戦前。 
軍国主義に国民が「だまされた」時代だと思ってる人が多い。 


ちがう。 


片方で豊かで美しい夢を肯定していた。 
そういう美しい生活の中で野蛮への道が着々と整えられていた、そういう時代なのです。 

野坂昭如『一九四五年・夏・神戸』を読むといい。 
神戸大空襲の直前まで、市民たちはおいしい料理のことを考え、子どもたちの進学のことになやんでいた。 

「暗い時代」なんかじゃなかったのです。 
そこが恐ろしいところ。 



それからもうひとつ思ったのは
文化の力ということ。

二郎と菜穂子の出会いは、列車のデッキで風に飛ばされた中学生(?)の菜穂子の帽子を二郎が拾ってあげたこと。 

おしゃまな菜穂子は「風立ちぬ」というポール・ヴァレリーの詩の一節をフランス語で引用する。 
大学生の二郎は「いざ生きめやも」という続きをフランス語で引用する。 


夢物語だと思いますか? 


この時代の上流階級では当たり前のことだったんです。 
リアルなシチュエーションなんです。 



一昔前、白洲次郎
がやけに評価されたことがありました。 
戦後すぐにGHQに乗り込んで 
「お前らの英語はなっとらん!」 
と叱ったのがすごい! 
とか、一部の親爺たちがカリスマ化しました。 


わたしは白洲次郎は過大評価されていると思ってます。 


アメリカ人の英語がなってない、と言えるエリートは掃いて捨てるほどいた。 
当時の東大卒はほとんど全員それくらいの英語力はありました。 

ヴァレリーの詩をフランス語で言えるなんて、 
当時のたとえば白百合女子の中学生ならできたと思います。 
小学校からフランス語を習ってたんですから。 

軽井沢で油絵を描く菜穂子は現実離れした存在ではないのです。 
ドイツ語でユンカース社の人間と渡り合う二郎と同じように。 

学生だとかエリートだとかは 
当時そういう存在だった。 


そしてそういう存在が社会にとってなんだか大事なんだなーー 
ということを庶民の一部もわかっていた。 
だから「学生さん」を大事にした。 

『風立ちぬ』にはそういう場面がいくつか出てきます。 


現代のように、低所得層が「あいつらは勝ち組じゃねーーか」 と嫉み、 
上流階級は「ああいう人たちと同じ学校に娘を通わせたくない」 などとさげすむ 
いやしい心ばえが薄かった(少なくともそういうことをあからさまに言う人は軽蔑された) 時代です。 

そういう時代へのオマージュが『風立ちぬ』にはあります。 


そういう時代をかつて持ったことをわたしたちは誇りに思っていいんじゃないですか、と。 

振り返れば、がさつな軍靴の響きのなかでそういう美しいものを多くの人が肯定していたことは「逃避」なんかじゃなくてすばらしいことなんじゃないですか、と。 


二郎は三つ揃いのスーツをいつも着ている。 
言葉遣いもていねいだ。 

帽子。枕元の服のたたみ方。 
そういうものが人の品格を表現していた時代。 

別のことばで言うと 
「実用的なもの」「社会に有益なもの」 
ではないものの価値が片方で直感的に認められていた時代。 

そういう時代へのオマージュがあります。 



ぶちわって言ってしまえば、 
『風立ちぬ』のストーリーは 
結核で若死にする美しい女性との純愛物語 
というパターン に収まってしまうのかも知れない。 

でも『風立ちぬ』はそんな物語なんかじゃない。 

だって、菜穂子の死の場面はまったく描かれない。 
菜穂子の最後の姿は、療養所に向かう後ろ姿だけ。 


凡百のメロドラマであれば、

二人の最後の場面を執拗に描くと思います。


「死」という巨大な視点から二郎と菜穂子の愛、そしてそれを取り巻く人々の 
「美しさ」を肯定する。 

その肯定によって、3.11以後のわたしたちの生をなんとしてでも肯定したい。 
その祈りがわたしにはひしひしと伝わってきました。 



文化とは形です。 

軽井沢のホテルに集まる人々はそういう「形」を重んじる。 
でも形を超える「愛(エロース)」が目の前にあらわれたときには 
躊躇なくそれを肯定する。 



二郎の上司の黒川夫妻がすばらしい。 
現実に生きる企業人です。 

でも常識を越えて二郎のもとに駆けつけた菜穂子を全面肯定する。 
夫婦で祝言のことばを考え、ささやかな結婚式を自宅で行う。 
死を前にした菜穂子のエロースを謙虚に受け入れ祝福する。 

医学の人、二郎の妹も菜穂子の死への道行きを泣きながら肯定する。 


社会の規(のり)を超える(=人間の良識を超える)愛の存在意義を躊躇なく肯定する。 
それが彼らの人間としてのすばらしさです。 

そういうことができた時代。 
それを「夢」と片付けていいのでしょうか。 

それこそが人間が人間であるゆえんではないのでしょうか。 


「実用的」でないもの「文化的であるもの」。 
死を前にしたとき人間を肯定できるとすればそれしかないのではないか。 
それが『風立ちぬ』にわたしが読み取った宮崎駿のメッセージでした。 


「風立ちぬ。生きようとしなければならない」 

カプローニは夢の中で二郎に 

「風は吹いているか?」 

と何度か問いかけます。 

二郎が「ええ、吹いています」 と応えると、 
にっこりほほえんで「じゃあ、生きなければならない」 
と言います。 


「風」は「死」なんですね。 


「死」の風を感じるからこそ生きるんだ。 

逆説的だけれど、胸に響きました。 


最後の夢で、死んだ菜穂子が出てきます。 
泣けてくる場面なんだけど、宮崎駿はメロドラマを排します。 


菜穂子が去った後で、カプローニは陽気に二郎に言います。 


「帰る前に(=現実に戻る前に)ちょっと寄っていかないか。おいしい赤ワインがあるんだ」

イタリア人らしい、そして神アポロンらしい、 
距離を与えて人を救うすばらしい台詞です。 

これがこの作品の最後の台詞です。 



イタリアの赤を飲みたくなるのもわかるでしょう? 

カプローニがシチリア出身であるのかどうか知りませんが。