古屋兎丸論「その1」 「その2」 の続きです。完結編。ネタバレ注意!
1 「真実の弾丸」タミヤ
光クラブを最初に抜けるのはタミヤです。
タミヤは、「忠誠の騎士」ニコの目の前で囚われの少女たちに給食を与えることで、ゼラの命令への最初の違反をおこないます。彼はニコに言います。
「ニコ、こんなの間違ってる」
「こんなの光クラブじゃない・・・」
タミヤは、小学生時代にダフ、カネダと三人でひかりクラブを作りました。「ひかり」クラブの名は、三人の名前(本名)から一文字ずつとったものです。転校生ゼラが加入したことで光クラブは前回書いたようなものに変質しました。
タミヤはダフに、カノン以外の少女たちを逃がす決意を明かします。
「俺たちと同じ歳の子が目の前で死んでいくのかと思ったら
俺なんか目が覚めたんだ。
あの女教師の時は何も感じなかったのにな・・・
俺の光クラブだ。もうゼラやジャイボ、ニコの好きなようにはさせねえ」
タミヤはゼラと同じように、大人の世界を否定し、「少年の自我」の世界を貫こうとしています。しかし同時に、自我の世界の「外側」に通じる回路を失っていない。
どうやらその回路は「仲良しの世界」とでも呼ぶべきもののようです。小学生時代の「仲良し三人組」がその原点。それが「俺たちと同じ歳の子が目の前で死んでいくのかと思ったら」目が覚めた、という感覚につながっています。
自分は自我の世界の「主人公」でありたい。でも「主人公」になりきれない。タミヤはそういう矛盾を抱えた人物です。
しかし、ダフとの会話が立ち聞きされたことで、真の「裏切り者ユダ」の策略が動き出してしまいます(ユダが誰なのかはもちろんまだ読者には明かされません)。
カノンに触り、自慰行為に及んだダフの処刑を、タミヤはゼラに命令されます。
ライチにさらわれてきた妹タマコの姿を見て、タミヤは命令に従わざるを得ません。
引き絞られたパチンコの前でダフは言います。
「僕・・・何も思い残すことないから。
だって女の子の体触ることが出来たんだもん。すごく柔らかくて温かかったよ。
僕にとってのリーダーはタミヤ君だけだから。君にやられるなら僕いいんだ」
タミヤは自分の手で「仲良しの世界」を壊さなければならなかった。ダフの処刑後、妹タマコがパイプで陵辱された姿を見たタミヤはゼラへの復讐に動き始めます。(タマコの陵辱は実はゼラの仕業ではなくて「裏切り者ユダ」の策略なのですが、タミヤはそのことを知りません)
ユダの策略は加速します。
「不変不動の論理」の証(あかし)、チェスの駒が何者かに壊されたことで、ゼラは猜疑心をつのらせ、次々に光クラブのメンバーを処刑していきます。
仲良し三人組のカネダはライチに体をまっぷたつに折られて死ぬ。
それを目撃したカノンは、その夜ライチの前でオルガンを弾きながら鎮魂歌を歌います。
(「怒りの日」Dies Irae と題されたレクイエムの終わりの2節をカノンは歌っています)
「これは鎮魂歌と言って死者の魂を慰める歌よ。
この曲が悲しいのは、死んだ人が殺されてとても悲しんでいるからなの」
そう言った後で、カノンはライチに「本物の人間になりたいのなら人を殺してはいけないわ」というただひとつの「命令」を告げるのです。(この「命令」については前回書きました)。
命令を告げるカノンは、涙を浮かべてカネダの死を悼む慈愛の「観音(かんのん)」であるとともに
(元来は男性であったらしいが中国で変容を遂げた慈母観音、あるいは日本のキリシタンによってさらに変容を重ねた「マリア観音」に近いのではないでしょうか)
人間が人間であるためのただひとつの基準=カノン (canon) を告げる厳かな「女神」でもあります。
(「あとがき」p.326 で古屋兎丸は、東京グランギニョルの舞台では「マリン」だった
少女の名を変えた理由を書いていますが、なぜ「カノン」に変えたかは書いていません。
「カノン」という名前にはきっと古屋兎丸なりの意味づけがあるんだと想像しました。
それが上に書いたことです。それからもちろんゼラにとっては「美の基準(カノン)」
です。あながち外れではないと思ってるんですが。
もうひとつ。
「カノン」への改名によってもとの「マリン」(「海子」みたいな意味)が消え去っ
たわけではなく、下に書く「薔薇の処刑」の伏流水として活かされているとも思いま
す。「水の少女カノン」として。それは、古屋兎丸の東京グランギニョルへの敬意を
こめた挨拶なのでしょう)
ライチはカノンのこの命令を無条件に受け入れます。
ライチの燃料であるライチ畑が焼き払われ、炎の中から全身にやけどを負ったタミヤとニコがあらわれる。ゼラは放火犯人として二人の処刑をライチに命じます。
「忠誠の騎士」にして「1番(アインツ)」ニコさえ処刑される!!
しかしライチは、ゼラの処刑命令と「人を殺してはいけない」命令に引き裂かれて動けなくなる。処刑は延期されます。
その夜、重傷のカネダ、ニコ、カノン、ライチは秘密基地からの脱出を試みます。
だが、パイプが折れてライチは取り残される。
「ライチはもう上がってこれねえ。しょうがねぇ、行くぞカノン」
という呼びかけに答えず、カノンは下にいるライチに向かって飛び降ります。
カノンの「愛の跳躍」!
カネダは最後に残ったライチの実をカノンに投げ与えて立ち去ります。
ゼラは、カノンを機械に変えるために処刑しようとします。
「我々に必要なのは時の移ろいですぐ萎えてします花のような美しさではない!!
そうだ 我々に必要なのは決して成長することのない鉄の少女」
繰り返しになりますが、ゼラにとって「美」は生身の美しさではなく、不変の「美の基準(カノン)」なのです。鉄ならば美しさは変わらない。
しかし、その美の基準(カノン)から浴びせられた第一声が「あなた最低ね!」だとは!
そして光クラブの夢を叶える「力」ライチとカノンが愛し合っているとは!
鉄の冠をかぶせられ、自動制御を失ってコントローラー(電卓)の指令でしか動けなくなったライチに、ゼラはカノンの処刑を命じます。水を満たした棺桶に薔薇の花を浮かべ、沈めて溺死させる「薔薇の処刑」です。
「薔薇の処刑」は、ゼラが自分をなぞらえるローマ皇帝ヘリオガバルス(エラガバルス)が行ったとされるもの。天蓋に満載した薔薇の花を落として窒息させる(それを描いたアルマ・タデマの絵を「その2」に載せてあります)。
古屋兎丸は「薔薇の処刑」に大きな改変を加えているわけです。
2 水の妖精カノン、そしてタミヤの跳躍
『新約聖書』の「裏切り者ユダ」そして「人間が制御できなくなった人造人間」という既存の物語を下敷きにして『ライチ光クラブ』のストーリーは展開される。そういう自在な引用がこの漫画に奥行きと広がりを与えています。「その1」「その2」で書いた、バロックの「批評的引用」です。
他にも使われている物語の系譜があります。「美女と野獣」(でも小規模な引用です)。
「薔薇の処刑」からもうひとつの物語の系譜が、大規模に参照され始めます。
「水の妖精ウンディーネ」の物語。
(使用言語によって「オンディーヌ」「アンダイン」などと呼ばれます)。
水の妖精ウンディーネと人間の騎士の恋物語。そういう点では「人魚姫」と姉妹みたいな関係にあります。
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フーケー(柴田治三郎訳)
『水妖記——ウンディーネ』岩波文庫 |
ジャン・ジロドーやフリードリヒ・フーケーなどが作品化していますが、『ライチ光クラブ』に関係が深そうなのはフーケーの『ウンディーネ』(1811) です。
途中のややこしい経緯を省いたポイントだけ書くと。
騎士が「水の上でウンディーネをののしってはいけない」という禁忌を破ることで、ウンディーネは水の世界に帰ってしまう。
さらに、騎士が人間の女性と結婚するという掟破りをしたために、ウンディーネは騎士を殺さなければならなくなる。騎士はウンディーネと口づけをしながら息絶える。
というものです。
カノンが水の精であることがはっきりするのは終幕近くなのですが、すでに「薔薇の処刑」の場面から水が存在感を増しはじめます。
ライチはゼラの命令に従ってカノンを水に沈めて「処刑」する。カノンへの加害によって二人に別れが訪れる。ウンディーネに対する騎士の「加害」のモチーフの引用です。
このような『ウンディーネ』への参照の中で、ある重要な逆転が加えられています。すなわち、
ウンディーネは人間ではない世界の存在で、騎士は人間。
でも、カノンは人間で、ライチは人間になろうとする機械。
この逆転によって『ライチ光クラブ』は「人間とは何か?」という大きな問いの物語となるのです。
駆け足で『ライチ光クラブ』の終わりまでストーリーを追ったあとで、この壮絶な物語の意味と、「人間とは何か?」への答えを考えてみたいと思います。
自分の意思で動けないライチに、カノンは語りかけます。
「ライチ思い出して。ライチは人間でしょ」
薔薇と水の中に沈められていくカノン。
このときライチが壊れる。「私がカノンを殺した」と、とぎれとぎれに叫びながら。
ライチは少年たちを殺戮していきます。
ゼラを殺そうとする寸前で燃料が切れ、ライチの動きが止まる。
ゼラが助かったと思った矢先、一気呵成に秘密基地の破局(カタストロフ)が訪れます。
水に浮かぶ「死んだ」カノンの顔。その隣に突如ジャイボの顔が浮かび上がるアップシーン。同時に「ドドドド」という水しぶきの轟音。
戦慄の場面です。
秘密基地に流れ落ちる瀑布を背にあらわれたのはタミヤ。「ここは俺の"ひかりクラブ"だ!!」とゼラに叫んで、鉄パイプを振りかざして階段を跳躍するタミヤのストップモーション。
大人の世界を否定しつくそうとする「光クラブ」から、小学生の仲良し「ひかりクラブ」への跳躍です。少年の「自我の世界」から「外の世界」への跳躍です。
この跳躍はゼラにとっては「自我の王国」の崩壊を意味します。
タミヤに水に沈められながら、ゼラは言います。
「返せよ・・・僕のライチ返せよぉーー」
ここでついに陰謀の張本人「裏切り者ユダ」が正体を現します。美少年ジャイボ。
タミヤをパチンコで殺害し、薔薇の棺桶からカノンを引きずり上げて、ジャイボはゼラに訴えます。
「僕・・・もう声変わりが始まってきたよ。あとうっすら髭も生えてきたよ。
僕は大人になっていくよ・・・醜い大人に・・・」
「やだよ・・・ゼラ、僕だけを見てて欲しいんだ」
ジャイボはカノンの顔にガラスを突きつけています。ゼラの大切な「美」を破壊するつもりで。
しかしジャイボにライチが一撃を下します。カノンが最後のライチの実を与えていたので
す。カノンは死んでいなかった。
「初めて会ったとき私言ったわ。『水泳習ってる』って」
「誰よりも長く潜っていられる」カノン! 水の妖精ウンディーネです。
ゼラは、ライチに腕を引きちぎられ、瀕死のニコの最後の一撃、便器で腹を貫かれて死にます。
創造主ゼラに手をかけたライチは、プログラムされた自動発火装置で炎に包まれます。カノンの腕の中で口づけを受けながらライチは息絶える(これが『ウンディーネ』の終わりの引用であることは言うまでもありません)。
秘密基地は水に沈み、カノンは夜の街へ去って行って終幕。
3 「少年の世界」へのさよならと鎮魂
「人間とは何か?」から考えてみたいと思います。
「本物の人間になりたいのなら人を殺してはいけないわ」というカノンの命令は、
「殺せ!」という光クラブの命令と真っ向からぶつかります。ふたつの命令によってライチは引き裂かれてしまいます。
カノンの命令を至上の命令として受け取ったライチは、死ぬ間際に「わたし、殺した、沢山殺した、だからもう、人間には、なれない」とカノンに言います。
カノンは答えます。
「いいえ、違うわ。ライチは人間だわ。本物の人間だわ。」
「そうよライチは人間になったわ。素敵よ・・・とてもかっこいいわ」
すでに書いたように「人間なら人間を殺してはいけない」は、問うことを許されない、無条件に従わなければならない命令です。人間を超えるものの世界から下されたような命令です。人間が人間であるための永遠の基準=カノンです。ライチはそういうものとしてカノンの命令を受け取り、守ろうとしました。
その命令を破って殺してしまったライチにカノンは「本物の人間だわ」と伝えます。
これが単なるライチへの「慰め」であるとは思えません。ライチは心からそのことばに納得したからこそ、カノンから「そういうのは簡単に使っちゃいけない言葉なのよ」と諭された「キレイ」「ずっと一緒にいたい」ということばをもう一度、とぎれとぎれに言いながら死んでゆくのです。
であれば、カノンが言う「本物の人間」は、上に書いた「人間が人間であるための基準を守った人間」とは意味が違うはずです。ライチは本人が認めているように「沢山殺した」のですから。では、その「本物の人間」とは何でしょう?
「素敵よ・・・とてもかっこいいわ」がそれを解く鍵だと思います。
私たち読者の多くも、ライチの「かっこよさ」に納得するのではないでしょうか。
ライチは「殺してはいけない」という「人間の基準」を守れませんでした。「殺せ」という指令を受けたから。でも、矛盾する命令の中でライチはのたうちまわります。
そして「ライチ思い出して。ライチは人間でしょ」と微笑むカノンを水に沈めたあと、切れ切れに叫びながらもがき苦しみます。
ライチが苦しんだのは、愛するカノンを「いつまでも守りたい」から。
矛盾に引き裂かれたその苦しみを、カノンは「素敵よ・・・とてもかっこいいわ」と言っているのではないでしょうか。
「殺してはならない」というような、人間であるために無条件に従わなければならない命令がこの世にはあります(その数はとても少ないと思いますが)。でも、置かれた状況によってそれを守れないこともあります。どうしようもない矛盾です。その矛盾を引き受けて苦しみ続けること、それが「本物の人間」である証(あかし)だ。
カノンがライチに伝えたのはそういうことではないでしょうか。
自分が醜い大人に変わっていくことを拒絶し、ライチという力を使って大人の世界を壊そうとした光クラブの少年たちは、「主人公でありたい」という自我の世界の夢に生きようとしました。その夢は叶えられることなく、少年たちは死んでいきます。
彼らの夢をいちばんはっきりした形で示すゼラにとって、「純粋さ」「首尾一貫性」「変わらないこと」がもっとも価値あるものでした。大人の「醜さ」はその反対。「不純」で「矛盾して」「変わる」。
しかし、最後にライチが示した「かっこよさ」は、少年たちが唾棄すべきものと考えていた不純や矛盾や複雑さです。それに苦しむことです。「唾棄すべきもの」として否定することではなくて。言い換えると、「本物の人間」になるには「美しい自我の世界」の外に出なければならないのです。それが「大人になる」ということではないでしょうか。
(わたしは「それはルネサンスの『調和と均衡』からバロックの『不均衡と動き』への跳躍だ」とつけ加えたい誘惑に駆られます。ルネサンスの「調和と均衡」が少年の自我の世界だというのはさすがに強引なのでやめることにしますが)
闇の秘密基地に鳴り響く「ピー、ピー、ピー」という笛の音。詰め襟の学生服姿で侵入者を追う光クラブの少年たち。
冒頭からその魅力に引き込まれたわたしたち読者は、捕まえられた女教師を殺す側の少年たちに感情移入させられます。
縛めを受けて裸にされた女教師へのゼラの侮蔑の言葉
「諸君この体を見たまえ。なんて醜い・・・吐き気がする・・・
この大きく肥大した脂肪の塊、真っ赤に塗りたくられた唇!
欲情したメスブタの証だ。〈中略〉そう この女こそ怪物だ!」
に読者は思わず「そうだ!」と思ってしまいます(と思う)。
女教師が醜いと思ってしまう(と思う)。
何しろフィクションの世界だから。でもそれだけではない。
「その2」で書いたように、私たちの中にもかつてゼラがいたからです。
それが光クラブの魅力になっている。
でも距離を持って読み返すと、この女教師なかなかりっぱです。上の侮蔑の言葉に「あっ、あなたたちだってこうやって大人になっていくのよ!!」と答える。殺される間際まで「教育者」であることをやめていない。
最後に便器で内臓をえぐり出されたゼラはつぶやきます。
「これでは・・・あの女教師と同じじゃないか・・・」
美しい「少年の自我」は終わる運命にあります。人は大人にならなければなりません。
そしてそれは光クラブの少年たちが考えたように「醜くなること」とは限らない。ライチのように矛盾に引き裂かれた「かっこよさ」だってあり得るのです。
『ライチ光クラブ』は、「本物の人間」になるための「美しい自我の世界」へのさよならです。
しかし勘違いしてはいけないのは。
そのさよならが「少年たち、未熟だったね」という別れでは決してないことです。
『ライチ光クラブ』は、「少年の自我の世界」の狭さを断罪していません。
それが少年にとって、もっとも愛おしく美しい世界であることを徹底的に描いています。
だからそのお別れは、つらいお別れです。
秘密基地から去るカノンは再び「怒りの日」の鎮魂歌を歌います。
「伏して願い奉る
灰のごとく砕かれし心も わが終わりの時をはからい給え。
涙の日なりその日こそ灰からよみがえらん時。
人罪ありて暴れるべき者なれば
願わくば神よ それを哀れみ給え」
「願わくば神よ それを哀れみ給え」のリフレインとともに、水中で漂う光クラブの少年たちの屍が両開きのページで描かれます。
かつてカノンはライチに
「これは鎮魂歌と言って死者の魂を慰める歌よ。
この曲が悲しいのは、死んだ人が殺されてとても悲しんでいるからなの」
と言いました。
カノンの最後の鎮魂歌は、ライチの死だけではなく、少年たちの「美しい自我の世界」の死への鎮魂歌です。その死を「とても悲しんでいる」カノンの鎮魂の歌です。
それは同時に『ライチ光クラブ』全体の、「美しい少年の自我」への悲しい鎮魂歌、つらいお別れになっているのです。
「さようなら・・・ライチ、光クラブ」という、最後のページのカノンのお別れがそれを締めくくります。
(完)