(一部ネタバレあり)
正月休みにツタヤで『麗しのサブリナ』を借りてきて見ました。ご存じの方も多いでしょうが、オードリー・ヘップバーンとハンフリー・ボガート主演、ビリー・ワイルダー監督のロマンティック・コメディーです。
わたしが生まれた年にアメリカで公開された映画です。
わたしは高校生の時に日曜洋画劇場で見ました。
サブリナパンツとサブリナシューズの元祖だとか言われても、その当時はファッションに関心がなかったので「オードリー・ヘップバーンきれいだなー」くらいの印象しか残っていません。あ、マーティーニというカクテルがあることをはじめて知ったのはこの映画です。
こういうお話。
アメリカの大富豪の家のお抱え運転手(ロールスロイスといっしょにイギリスから連れられてきた)の娘サブリナ(オードリー・ヘップバーン)が、パリで洗練された女性に成長して、富豪の兄弟の元にもどってくる。
サブリナはチャラ男の弟デイヴィッドにずっと憧れていたんだけど、運転手の娘にとって彼への恋は「月を願うようなもの」。
でもパリから戻ってきた美しいサブリナにデイヴィッドは夢中になって、婚約者を放り出しそうになってしまう。
やったー! 月の方が手を伸ばしてきた。
ところが、
仕事一筋のガチガチの実業家である兄ライナス(ハンフリー・ボガート)と、ひょんなことなら親しくなって、愛し合うようになってしまう。
富豪の家にとって邪魔者となったサブリナは、手切れ金とともにパリ行きの船に乗せられます。失意のサブリナの前に・・・
あらためて見ると、よくできた映画です。
半世紀以上前の白黒映画ですが、ちっとも色あせていません。
なんで『サブリナ』を借りてきたかというと、
とある知人の女性が
「歩きのオスさん、帽子をかぶっているんだったら『サブリナ』をちゃんと見ないとだめよ」
と説教(?)してくださったから。
「え、帽子?」
まったく記憶にありませんでした。
でも、帽子がキーになってる映画でした。
対照的な兄弟の生き方が帽子でみごとに表現されています。
チャラ男の弟の方はおしゃれな白い帽子を、いかにも遊び人風にあみだにかぶっている。(最近の若い人々のあみだかぶりに対して、わたしは言いたいことがあるのですが別の機会にまわします)
仕事一筋の実業家の(そして合理的な戦略家でもある)兄は黒っぽいホンブルグ(中折れハット)をかっちりとかぶっている。
兄ライナスがサブリナにグラッときちゃうきっかけのひとつが、帽子なんです。
「パリはすてきなところよ。あなたも行ったら人生が変わるわ」というようなことをサブリナは言いながら、「でもそのかぶり方じゃだめよ」と、ライナスのホンブルグをとり、つばの折り返しを片方だけパキッと下にまげて、斜めに(あみだじゃないですぞ!)かぶせてあげます。
その瞬間、ライナスがくそまじめな実業家から、色っぽい男に変身する。ほんとに画面上でそうなるんです。
それはサブリナにとってライナスが恋の対象になる決定的な瞬間でもあります。
ラストの決定的シーンでもこのホンブルグがふたたび登場します。
「すごい」と思いました。
たしかに帽子をかぶる男は必見の映画でした。
この映画、帽子以外にも見どころはいっぱいあります。
帽子とか、靴とか、マーティーニとか、車とか、ドレスとか、要するに文化の産物ですね。
それが、人間関係や恋をいかに陰影深く、豊かにするのか実感できます。
そういうのって、要するに「都市の人間関係」なんですね。
家族や恋愛というのは、そのままむき出しではドロドロのもんです。
「むき出し、ドロドロこそ真実」と考える人もいるでしょうが、わたしはご免こうむります。
「モノや文化を介在させて、むき出しドロドロを回避しようとするのが、都市の人間関係の本質ではないか」という最近考えていることを、あらためて確信しました。
そういう人間関係は、決して冷たい嘘の関係ではないと思います。相手への敬意を持った距離と、恥じらいながらの親愛の表現を礼節とする関係です。
そもそもなぜそういう人間関係の作り方が必要だったのかというと、都市というのは、価値観が違う何を考えてるかわからん人間が共存しなければいけない空間だからですね。
価値観が割に共有されている地方では、そういう努力はまあ必要ないと言っていい。裏を返せば、そういう地方の価値観を共有していない人間は、地方では排斥される。地方出身のわたしが田舎が苦手な理由はそこです。
テレビでやってる
「田舎はあったかくて人情深くて、隣の人が野菜持ってきてくれたりしていいですね」 (それはそのとおりです)
みたいな番組の嘘くささは、地方のそういう闇を見ていないところにあると思います。
わたしたち人間はみな生まれた地域や家の環境に規定されていて、その価値観に規定されている。都市はいろんな地方から人が集まる場所だから、たがいにローカルな価値観を持ち出したらたちゆかない。程度の差はあれ、それぞれが地方の価値観を超えなければならない。
で、自分が生まれた環境の規定から自由になるバネみたいなものが何かを考えるとですね、
それは文化以外にはありえない。「教育」と言ってもいいです。
わたしが文化を職業にしようと思った理由はそれしかありません。
過激な言い方をするなら、文化のない人間は都市に住んではいけない。
大学が都市にあるのは当然なのです(地方にあったっていいけど)。
だから、帽子や服やお酒などの
「自分とまったく価値観の違う赤の他人が、遠慮深くお近づきになっていくための文化の産物」
を大事だと思っています。
人間は長い年月苦労して、そういう文化とその産物を作り上げてきました。
帽子や靴はただの商品ではないんだと思います。
『サブリナ』はそんなことを、おしゃれに、軽やかに伝えてくれる映画でした。
そうは言ってもむずかしいのはね、
文化の産物はそれ自体でとても魅力的なものだから、ほんとは赤の他人と親しい友人になっていくためのものであるはずなのに、それを忘れちゃって「モノさえあれば友人になれる」と思わせてしまうことなんだと思います。
いちばん大事なのは「この人に近づきたい」という気持ちですよね。そのために努力して、苦労して、誤解されたりしてもめげずに近づこうとする。
帽子やお酒や靴や絵や映画をとおして相手との距離を測りながら。
電車の中なんかで、殺伐とした会話を耳にすることが結構ある。
仲良しそうなんだけどモノの話しかしていない。服だとか、ゲームだとか。
いや、話題自体が悪いんじゃなくて、話題になっている「モノ」に対する理解がえらく紋切り型で、紋切り型のモノの呪文みたいなことばで会話が進んでいってる。
微妙な感覚なんで伝わりにくいと思いますが、
口調ができあいのものをなぞっている感じ、そういうものに何の違和感も感じていない感じ、とでも言うんでしょうか。
そういう会話は両者ともかならず口調も声もずーっと単調で同じです。それがよどみなく続いていく。
ほんとに仲良しなんかい、と突っ込みたくなります。
同じモノを好きでも、共有するものと同時に、違和感や、ためらいや、ゆらぎがあるでしょうに。
そういう感覚をずばりと言い当てられなくても相手に示すことで、「わたしってこういう感覚なんだけど。つまり、あなたと共通するところもあるが、ずれてるところもあって、でもあなたともっと仲良くなりたいから、そういうずれみたいなのをあなただけに言ってるんだけど」という、そういう気配がまったくない。
たぶん、相手を好きだ、という自分の気持ちをそれ自体では肯定できない。
モノを媒介にすることによってかろうじて肯定するしかない。
(悪い意味での)オタクって、そういう肯定が脆弱な人なんだろうな、と思います。
「友人や恋人というはつきつめれば裸一貫の勝負だ」という腹がくくれていない、と言えばいいんでしょうか。
文化的産物は、ときにそういう弱い自分を自分に対して隠してくれる隠れ蓑になってしまいますね。
そういう隠れ蓑を身にまとっている人を「文化的俗物」と言うんじゃないでしょうか。
一生懸命ワインを勉強して(それ自体はいいことです)、金がある場合はヴィンタージを買い集め(いいことか悪いことかわからないが羨ましいことです)、うんちくを語るが、ワインがほんとうは好きでない人。
あの画家の絵はすごいよ、と言うが、それは社会的にその画家が評価されているからで、自分ではすごいかどうかよくわからない人。
そういう人は、アニメやゲームに関する紋切り型の語りを通じて「しか」友人を作れないオタク(あ、もちろんすてきなオタクもいます)と変わりません。
『麗しのサブリナ』に戻ると
この映画にもそういう人がけっこう出てきます。俗物ですね。文化的産物に呪縛された人々です。なんてったって上流階級が舞台ですから。
でも、この映画がすばらしいのは、
文化的産物は、人を好きになるためのものになったときだけその真価を発揮する
というメッセージを送っていることです。
ライナスがかぶっているホンブルグ帽は上流階級のまじめな帽子です。でも、サブリナはそれをちょっと細工することでライナスを色っぽい男に変身させる。ホンブルグ帽がチャラ男デイヴィッドのいかしたおしゃれ帽子に勝利をおさめる。
パリでおしゃれな女性に変貌したサブリナが、いちばん魅力的なのは、パーティーで男性たちを惹きつけたジバンシーのドレス姿ではなく、簡素な「サブリナパンツ」と「サブリナシューズ」を悲しみの表情で身につけた姿です。
紋切り型がくずれるときに、モノを通して愛が不意にその姿をあらわします。
そしてスフレも忘れちゃいけない。
ライナスとの恋の終わりを思い知らされたそのときのサブリナは、スフレを作り始めます。
パリで通った一流料理学校で習ったとおり、ライナスの目の前で「手首のスナップがポイントなのよ」 と片手で卵を割って見せます。が、結局サブリナはスフレを作り終わらずにライナスに別れを告げます。
しかし、パリの料理学校でのエピソードを記憶している観客は、この別れがほんとうの別れでないことがわかります。
料理学校でスフレを作ったとき、サブリナは先生から「話にならん」と怒られます。
先生からスフレを絶賛された隣の生徒は、なんと男爵のお爺さん。
わかがわからないサブリナに「あなたはオーブンのスイッチを入れ忘れたんですよ」と教えてくれます。それから、
「あなたは恋をしているね。そして、その恋は失恋じゃない。なぜなら、失恋するとスフレを焦がす。スイッチを入れ忘れるのは失恋じゃない」
と言うんですね。
サブリナパンツをはいたサブリナはスフレを作り終えずに別れを告げます。
失恋じゃないんだよ、という男爵の声が聞こえるみたいです。
それがラストシーンの予告になっている。
「わたしが好きな人は手が届かない月みたいな人」とサブリナは男爵に言います。
男爵は「今は月にロケットが行く時代だよ」とサブリナを励ます。
社会階級の差を乗り越える力を持っているのは、皮肉なことに文化を愛してやまないかつての支配階級(男爵)の人物。ほんとうの文化は人を出自から自由にするんです。
そういう文化の複雑さが描かれています。
文化の虚実とでも言うんでしょうか。
そのバランスはほんとうにむずかしいですよね。
わたしは「実」に賭けています。
ビリー・ワイルダー監督にはもちろんおよびませんが、サブリナがホンブルグ帽をくずしたように、着ているモノを下品に崩して愛を伝えたい(おお恥ずかしい)と思っています。エウリピデスのとんでもない解釈をして愛を伝えたいと思っています。わたしにとってはどちらも同じことです。