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2015年12月23日水曜日

花沢健吾『アイアムアヒーロー』——倫理をめぐる粘り強い思索 その1

(ネタバレあり。注意)


1. さえない英雄(ヒーロー=ひでお)


勤務先の近くのラーメン屋によく行きます。


壁に漫画がぎっしり。『美味しんぼ』とかは置いてなくて、昼食時にはふさわしからぬ森恒二『自殺島』だとか岩明均『寄生獣』だとかのグロなシーン満載の漫画がけっこう多い。店主のこだわりが感じられるコレクションです。


そこで花沢健吾『アイアムアヒーロー』に出会いました。
(小学館から単行本18巻まで刊行)

第1巻
最初の巻を読んだ感想は、
「うーん、画力はあるがどちらかというと苦手な漫画だな」というもの。
おそらく多くの人が同じような感想を持つんじゃないだろうか。



主人公「鈴木英雄(ひでお)」は35歳の売れない漫画家。
かつて単行本を出したことはあるものの、現在は他の漫画家のアシスタントで生計を立てている。醜男ではないが、眼鏡に無精ひげのパッとしない容姿

自意識とプライドは強い。
エロ漫画のアシスタント作業中に漫画論をぶつぶつ呟いていて、
先輩アシスタントの三谷から「英雄君そろそろ、ひとり言やめて」と注意される。
(この三谷が三谷幸喜にそっくりなのには笑える。それくらい画力があります)

いつかビッグになってやる、俺には才能がある、
という自信とともに、

  「俺は英雄(ヒーロー)じゃなくていいんだ。

  せめて自分の人生ぐらい主役になりたいんだよ」

と酒に酔って弱音を吐く。




ときおり、でぶの後輩矢島が英雄の前にあらわれては消える。
最初のうちは、彼がどういう存在なのかはっきりわからないのですが、
この矢島がトイレの便器に顔をのぞかせるあたりから、
実在の人物ではなく、英雄(ひでお)の鬱屈した自我のドッペルゲンガー(分身)であることがわかってきます。

要するに1巻は
「オタクの肥大した自我から見た、現実と妄想がないまぜになった世界」
をひたすら描いているように見える。

それが「わたしの苦手な世界だな」という感想の理由です。

タクシーにはねられた女性が、首が折れたままの姿で歩き去るのを英雄が目撃するシーンも、英雄の肥大した自我が見た妄想のように思えます(読み進むと妄想ではなく現実だということがわかるのですが)。




しかし。
2巻で、それまでは見えにくかったこの漫画の大きな枠組みがはっきりしてきます。

ゾンビーものです。(この漫画では「ゾンビー」ではなく「ZQN」と呼ばれる)

謎の感染症が猛威をふるいはじめている。
ゾンビーと化した人間は、怪力を得て周りの人間に襲いかかり噛みつく。
噛みつかれた人間もやがてゾンビー化する。

秩序は崩壊し、
英雄(ひでお)は趣味のクレー射撃の銃を手に、混乱の中を生き延びようとする。


とりあえず『アイアムアヒーロー』のストーリーはそうまとめられます。



しかしさらに。
3巻あたりから、この漫画は、「ゾンビーもの」あるいは「極限状況を生き抜くパニックもの」という枠におさまりきらない広がりと深さを見せ始めます。


ラーメン屋に通って読み進みながら、
わたしは「正しさ」や「倫理」の一筋縄ではいかない複雑さについて考え込んでいきました。

そして8巻にいたって
「『アイアムアヒーロー』は倫理をめぐる粘り強い思索の書だ」
と確信して自分で購入しました。


(というわけで、今くだんのラーメン屋では、『アイアムアヒーロー』ではなく、板垣恵介『グラップラー刃牙』を読んでいます)。


2. ZQN は怪物か人間か?


最初の3巻までは東京郊外が舞台です。


警察も自衛隊もテレビ局も、内部にゾンビー(以下、『アイアムアヒーロー』での呼び名に従って「ZQN」とします)が増えるに従って機能しなくなる。
法秩序が崩壊しはじめる。

ともかく生きのびなければなりません。そのためには既存の正義や規則に違反しなければならないこともある。人々は、ZQN 化した知人を包丁で刺し、バットで殴る。


一般に、極限状況ものはそういう「生きのびるスリル」を描く傾向があります。

花沢健吾も迫力ある絵と、手に汗握るストーリー展開で「生きのびるスリル」を描いている。

しかし『アイアムアヒーロー』にはゾンビー物にありがちな


 「うおおーーっ、ゾンビーどもっ、かかってこい !!」

  ズキューン、バキューン。
 「ざまあ見やがれっ」

というようなカタルシスがない



そういう脳天気なカタルシスが成り立つためには、ZQN が疑問の余地ない「怪物」「敵」でなければなりません。


『アイアムアヒーロー』はそうなっていません。

ZQNたちは、ZQNになる前の自分をいくばくか引きずっていて、残っている「自分」がいろんなあらわれ方をする。たとえば、アパートの大家が下宿人に「家賃! 家賃!」と言いながら襲いかかるように。



英雄が最初に直面するZQNはガールフレンドのてつこ。

てつこは、アパートを訪れた英雄にドア越しに襲いかかる。

体が膨れあがり血管が浮き出たおぞましい姿です。

しかし、
てつこは別のZQNが英雄に襲いかかってくると、英雄を放してそのZQNと戦う。
英雄に料理を作るために、包丁をつかんで台所で小松菜を切ろうとする。
英雄はてつこに噛まれたのだけれど、てつこには歯がなかったから血が出ていない(だから英雄はZQN化しない)。

 《てつこはZQNと化す途中で、英雄を噛まないように自分で歯を抜いたのではないか。

  てつこはZQNと化しても自分を愛していたのかもしれない。》

英雄はそう考えます。


この体験は英雄のZQN観に決定的な影響を与えます。


生きのびるためにZQNを倒さなければならないのだけれど、何の容赦も疑問もなく殲滅(せんめつ)してよい「怪物」であるのかどうかが確かではない。戦いが正義かどうか 100% の確信が持てない。




てつこにとどめを刺すために首を切り離したとき、

ドッペルゲンガーの矢島は姿を消します。

英雄はてつこの「殺人」の重荷を負いながら、肥大した自我の世界に別れを告げ、

秩序を失いつつある人間の社会とZQNの脅威の渦中に乗り出し、
どのようにすれば自分は「正しく」生きのびられるのか、その道を模索し始めます。



とはいえ、英雄はさっそうとしていません。
「英雄(ひでお)」という自分の名前にかけて「アイアムアヒーロー!」と言ったりするけれど、それは空元気。根は小心者です。

しかし、小心者なのだけれど「正しくないことをしたくない」という態度は一貫しています。


住人がZQN化した街は無秩序状態なのだから、持っている銃をぶっ放し、修羅場をくぐり抜けたってしかたがないとも言えます(そして極限状況ものの主人公たちはそうすることが多い)。でも英雄は簡単にそうしない。


英雄は、ZQN化し始めたタクシー運転手にもお金を払う。

無人の店で飲料水を手に入れたときにレジに小銭を置く。

生きのびるために銃を使おうとするのだけれど、銃刀法に照らし合わせて使うべきか否か迷う。


威嚇射撃はするが、なんと、ZQNに本気で直接発砲するのはようやく8巻になってから!8巻の腰巻きに「英雄、遂に発砲!」と大書されるほど読者を待たせる。



途中で出会ったカメラマンの荒木は言います。


 「英雄君は考えすぎなんだよ!

 わかりきったことを変になやんでループして、
 答えはとっくに出てるのに、
 一つ一つの行動を起こすのに時間がかかりすぎるんだよ」


荒木の言うとおりです。

ですが英雄は自分のやり方を変えません。

時間をかけて悩んで考える。

「何を、どうすべきなのか」という問いに簡単に答えを出さない。


一応の結論を出すとちゃんと行動します。
だから「考えるだけで行動しない人間」ではない。
しかし、出した結論にも「本当に正しいのだろうか」と迷い続ける。
別のことばで言うと 英雄は思考停止をしません
それが英雄のすばらしいところです。



3. 道徳と倫理


一方で、「生きのびること」を至上価値にして思考停止してしまう人たちもいます。


英雄が合流することになる御殿場のアウトレットモール基地のリーダーたちがそれ。

「生きのびる」ための秩序を作るために、役に立たない者や不満分子を、ZQNが徘徊する街路に屋上から落とす。女性を性の道具にする。
彼らにとってZQNは殲滅すべき怪物でしかありません。

あるいは、10巻から登場する謎の少年クルスたちのグループもそうです。

ZQNの生態を観察し、ZQNを殺す技術を磨き、仲間が感染すると発症する前に躊躇せず殺す。「生きのびる」という至上目的に向けて行動を集中させている点で、彼らはアウトレットモールの指導者たちより徹底している。


政府や警察や自衛隊が崩壊し、これまでの「正しさ」が通用しなくなったとき、
彼らにとって「生きのびる」ことそのものが「正しさ」になります。
その「正しさ」は決定済みでそれ以上考えない。
自分たちが生きのびる障害になるものは、ZQNだろうと人間だろうと疑問を抱かず排除する。ある意味ではたいへん「合理的」な態度だと言えるかもしれません。




英雄は違います。

生きのびなければならないけれど、
やはり「正しく」生きのびなければならない
これまでの「正しさ」が通用しなくなっているのだから、新しい「正しさ」を手探りで探さなければならない。
英雄はそう考えているように思えます。


そういう点で、英雄の探求は「倫理」の探求です。

「道徳」の探求ではない。


「倫理」も「道徳」も「正しさ」に関係しています。

だから共通する点も当然あって、「これは倫理、あれは道徳」という風にくっきり区別するのは簡単ではない。
永井均
『倫理とは何か』



永井均『倫理とは何か——猫のアインジヒトの挑戦』(ちくま学芸文庫 2011)は、

2人の学生と猫の対話を通して、「倫理」がはらむいろいろな問題点を緻密に、かつ楽しく考察するすてきな本なのですが、そこでもときおり「道徳」ということばが紛れ込んでくる。それほど「倫理」と「道徳」は重なる点が多い。

手近にある『スーパー大辞林』で「倫理」を引いても、

「人として守る道。道徳。モラル。」となっています。


しかし「倫理」と「道徳」は同義語ではない。
違いがあります。

上の『スーパー大辞林』の「道徳」を見ると。


  「ある社会で、人々がそれによって善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範

  の総体。法律と違い外的強制力としてではなく、個々人の内面的原理として働くもの
  を言い、宗教と異なって超越者との関係ではなく人間相互の関係を規定するもの」

堅苦しいですが、「倫理」より気合いの入った説明をしています。

そして「倫理」との違いも浮かび上がってくる。
「ある社会で」というのがポイントですね。

どんな人間でも守るべき正しさが「倫理」であるのに対して、 

道徳は、価値観が共有されている共同体を前提にしています。

たとえば「先生に敬意をはらいなさい」というのは道徳です。倫理ではない。

「学校教育は生徒にとって意味があるものだ」という価値観が共有されているかぎりにおいて「正しい」。しかし「学校教育はそれほど意味がない」と人々が考えるような社会では「正しい」行いにはなり得ません。
だから、警察も自衛隊も機能せず、価値観を共有する共同体が崩壊した状況では、道徳は意味をなさなくなる。


倫理は、価値観を共有する共同体が存在しなくなるときに、
あるいは、その存在が危うくなるときに本当の姿をあらわします。




道徳と倫理を別のことばで較べてみると。

道徳が求める「正しさ」は、内容がはっきりしています。

倫理が求める「正しさ」は、実はほんとうに正しいのかどうかはっきりしない。
「ほんとうに正しい」と言うためには理屈を考えなければならない。

(「人を殺してはならない」は正しそうに見える。でも、戦時の軍隊では敵兵を殺すことが正しく、殺さないことは命令違反の「正しくない」行為になります。平和な市民社会の共同体と軍隊という共同体の「正しさ」は違う。この矛盾を超える理屈を考えないと、「人を殺してはならない」という正しさは「倫理」にはなりません)

倫理的な「正しさ」が何なのかは思索の結果として確認されるもので、

はじめっから自明のものなんかじゃない、ということです。
「正しさ」は「とりあえずの」正しさとしておいて、それを点検しいろいろ考えながら「ほんとうの正しさ」に近づいていくしかないのでしょう。

そしてたぶん倫理の「正しさ」の数は、道徳のそれよりうんと少ない。

(どんな状況下でもどんな共同体に属す人間でも守るべきことですから多いはずがない)




道徳と倫理のそういう違いが『アイアムアヒーロー』を読むとはっきりしてきます。



倫理は、どんな状況でも、自分とどんな価値観を異なる相手に対しても、守らなければならない「正しさ」です。
「そんなものはない」と考えるのはひとつの立場。
英雄は「それでもあるはずだ」と考え続けます。
荒木がみごとに言い当てたように、
英雄は、何が正しいのかを「わかりきったこと」だとは考えず、思考停止せずに「変になやんでループして」ほんとうの「正しさ」を模索する。


「『アイアムアヒーロー』は倫理をめぐる粘り強い思索の書だ」

と書いたことを説明すると以上のようなことでしょうか。



4. 他者たち


これまでの秩序が崩壊しつつある世界でも通用するような「正しさ」とは何か。
それはよくわからないし、ゼロから考えていくことは哲学者でもないかぎり大変です。

とりあえず英雄は、壊れてしまった社会の正しさ(道徳や規則)を守ろうとします。

上にも書いたように、ZQN化しつつあるタクシー運転手にお金を払う。
そうやって具体的に行動しながら本当の正しさを考えます。

英雄は決して「りっぱな人間」ではありません。
臆病で、屈折していて、モテたいと思っている。

だけれど英雄のすごい点は、

「いつも人にきちんと向き合う」ことです。
自分と価値観が違う人間にも正面から向き合う。

そうやって他者と向き合い、行動しながら

英雄は「正しさ」が何なのかを探っていく。
「正しさ」の探求は、英雄の閉じられた頭の中で進行する思索ではありません。
他者との具体的なことばのやりとりと行動の中で探求が進む。
自分と他者との「あいだ」で倫理が少しずつ明らかになっていく、と言えばいいのでしょうか。



英雄の前にあらわれる他者たちを紹介しておくと。




ZQNになったてつこは英雄にとって怪物ではなく「てつこ」です。
だから英雄は、「怪物を倒した」のではなく「殺人を犯した」と思っている。


富士の樹海で出会った女子高生、比呂美(ひろみ)にもきちんと向き合う。
年齢が違うから価値観も違う。男としてちらほらと欲望も感じる。
しかし、英雄は極限状況の中でも比呂美への礼節をくずしません。

第2巻
表紙は比呂美
比呂美は『アイアムアヒーロー』の重要人物です。

いじめられっ子。
林間学校で、いじめっ子たちに追いやられるように夜の樹海に入り込んで英雄と出会う。
それが結果的に彼女を感染から救うことになります。
クラスメートたちは皆感染してZQNになってしまう。

(樹海は『アイアムアヒーロー』の最初の山場だと思います。

林の中を疾走してくるZQNはほんとうに恐ろしい)

のちに比呂美自身も、赤ん坊のZQNに噛まれて感染してしまうのですが、

なぜか症状が激しくなく、同行者の英雄やカメラマン荒木を襲わない。
人間とZQNの仲介者的存在です。


しかし、感染する以前から、
比呂美は他者に近づいてなにかを共有する資質を備えているように思えます。
いじめられっ子だからこそ、そういう感受性が豊かなのかもしれません。
彼女がときどき見る妄想の世界の中では、
他者は巨大なぬいぐるみになってゆっくりと襲ってくる。
そういう恐怖の中で比呂美は生きてきたのでしょう。

富士の樹海で、首吊りをしながらまだ生きているZQNに出会ったとき、

英雄は逃げだそうとするのですが、
比呂美はZQNが何かをさがそうとしていると察知して、
家族の写真を荷物の中に見つけ、ZQNに手渡してやる。

ZQN化した、いじめっ子の同級生紗衣(さえ)を、

英雄から銃の撃ち方の指導を受けて射殺するとき、
「紗衣ちゃん。私もそっちにいったら・・・またいじめていいから」
と声をかける。


看護師の小田つぐみはとりあえず「現実的な行動の人間」です。
御殿場アウトレットモールの屋上に立てこもるグループの性の道具にされながら、
その過酷な状況を冷静に把握し、生きのびるために行動している。
蛮勇をふるわない。

だけれども「正しさ」の感覚も持ち合わせている。

というよりも。
英雄と出会ったことで「正しさ」の感覚を呼び覚まされた、と言う方が正確でしょう。

銃という「力」を手にやって来た英雄を懐柔するために、
小田はアウトレットモールのリーダーから性の道具として送り込まれる。

英雄は小田を性の道具として用いない。

けれども小田はリーダーたちから「用いた証拠」を持ち帰ることを要求されている。
それを知った英雄の行動はみごとです。「なやんでループする」男であると同時に、その都度「正しい」と思ったことは毅然と実行する。

たぶん、この時から小田は、さえない中年男の英雄に自分では気づかずに惹かれはじめる。「英雄」が「ヒーロー」になり始める。


小田は、英雄に不足している「現状把握の力」と「決断力」を補う同志になっていきます。

看護師である彼女は、感染しながら凶暴化しない比呂美がZQNの謎を解く鍵になりうる存在だと見抜きます。なんとしても比呂美を死なせてはならない。



比呂美と小田の二人の女性と英雄の関係の描き方がとてもよい。


英雄には男としての欲望は当然ある。

だけれど二人に礼節をつくす。

生理が来た比呂美(ZQN化しているから意識がないに等しい)に、コンビニで手に入れた紙オムツを履かせる場面。

そして失禁してしまった小田への対応。
おどおどした紳士ぶりが秀逸です。


比呂美と小田は、基本的には英雄に「男」としては接しない。
若い女性が冴えない中年男にとるであろうそっけない態度で接する。
だけれども二人とも英雄に少しずつ惹かれてゆく。

三人のそういう複雑なエロースがきちんと描かれる。


これは「倫理」を考える上でとても重要です。

なぜならエロースは善悪・正邪を超えるものだから。

考えてもみてください。


「容姿で人を差別してはならない」はとりあえず倫理的な正しさだと思われます。

でも(好みはひとそれぞれですが)自分にとって「ブス」と思われる人に恋はしません。
エロースは「容姿で人を差別する」のです。

「倫理」は善悪・正邪の問題。

「エロース」は美醜・好悪の感覚の問題。
根源的な対立です。

「これは嫌いなことだけれど、正しいことだからやるべきだ」

これは倫理でエロースを押さえつける態度です。
そういう選択をする人もいるでしょう。

でもそれでは倫理の「正しさ」はほんとうの強さを持つことはできない(と思う)。


「好き・嫌い」(エロース)と「正しい・正しくない」(倫理)の関係をどう考えるのか。

正解はないのかもしれませんが
両者の関係をきちんと考え抜いたときにはじめて倫理のほんとうの「正しさ」にたどり着ける。「好き・嫌い」をきちんと納得した上で、躊躇なく「正しさ」を力強く確信できる。
そういう「正しさ」がほんとうの正しさというものではないでしょうか。
倫理はエロースにこそきちんと向き合わなければなりません。


『アイアムアヒーロー』は「エロース」と「正しさ」をガチンコでぶつけてこの難問に挑む。


銃を手にした(意識が戻った)比呂美と小田が向かい合う場面。
それから、ネタバレになるからくわしくは書きませんが、
決定的な「正しい選択」をした比呂美が、でも、自分はエロースに動かされてその行動を選択したのかもしれない、と思い惑う場面。

主人公の英雄だけでなく、

物語全体が、答えが見えない難問に「変になやんでループし」ながらたじろがずに向き合っている。

その覚悟とエネルギーに圧倒されます。



5. 不意にあらわれる倫理の顔


『アイアムアヒーロー』の前半最大の山場は、
6巻~8巻の、御殿場アウトレットモールの攻防戦でしょう。


アウトレットモール屋上に立てこもる人々は、周囲を徘徊するZQNの脅威の中で生きのびるために手段を選びません。

強い者のリーダーシップに絶対服従する「鉄の規律」の世界。
もはやここには「道徳」や「倫理」はない。
以前の常識・良識を捨てなければ生きられない状況の辛さに耐えるためなのでしょう、
ここの人々の多くは本名を捨ててニックネームで呼ばれる存在となっています。


英雄と荒木は、比呂美がZQN化していることを隠してこの共同体に参加します。

英雄が所持する銃は圧倒的な力ですから、
彼らの参入は、グループ支配者たちどおしの力関係に複雑な波紋を広げます。


  (ところで。
  ZQNが、以前の人格をなんらかの形で引きずっていることは上で触れました。
  アウトレットモール周囲のZQNの中に、運動着姿の元陸上選手がいます。
  立てこもった人間を襲おうとして、
  彼は何度も通りから背面跳びでジャンプするのですが届かない。
  そのたびに人間たちから嘲笑されるのですが、
  このZQNが、アウトレットモールの運命を左右することになります。)


ストーリーに戻ると。


英雄とリーダーたちとの緊迫したせめぎ合いのプロセスは漫画を読んでいただくとして、

結果として英雄は銃を奪われ、
屋上を降りて食料調達をする決死隊の一員にさせられる。

真空パックのベーコンを手に入れたものの、

決死隊は、暗がりの地下倉庫でZQNに次々と殺されていく。

最後に残ったのは英雄と「ブライ」と呼ばれる男。


「無頼」を連想させるブライは、そのニックネームどおり肝の据わった男です。

状況が絶望的ななかで生きのびる道は、
すでに死んだ仲間が手にしている英雄の銃と、銃を扱える英雄しかないと判断して、
エアガンで援護して英雄に銃を回収させる。
ブライは英雄に本名が「村井」であることを明かします。
二人に生まれる連帯。
第8巻
「英雄、遂に発砲」

襲いかかってくるZQNについに英雄は発砲する!!

ZQNの群れに、英雄は、頼りないエアガンを持つ村井とともに歩道橋で立ち向かいます。

銃の弾が切れるのが先か、次々にあらわれるZQNすべてを殲滅するのが先か。希望のない戦いです。

英雄は、銃を構えるたびに「ハーーーイ」とかけ声をあげて撃つ。
射撃する機械のような無表情。

しかし「ハーーーイ」の声と無表情は、射撃の練習を積み上げてきたなかで身につけた技術的なものです。五郎丸歩のポーズみたいな、平常心を保つためのルーティーン。


でも英雄の心はかき乱されている。


スーパーのレジ袋を抱えて襲ってくるおばさんZQNに一瞬躊躇する。

それでも生きのびるために撃つ。
装填する手が疲労で震えはじめる。
だがひたすら撃ち続けるしかない。

「もうダメだっ、これ以上ムリ!!
弾切れになる前に俺を撃ってくれっ!!」と叫ぶブライに、
英雄は「まっ、まだだっ!!!」と励ましながらひたすら撃つ。

『リヴィエラを撃て』
新潮文庫版(上下2巻)

終わりが見えないこの銃撃戦は、
高村薫『リヴィエラを撃て』(新潮社1989) のそれに匹敵する緊迫感があります。



同じ頃、小田も必死の戦いを続けています。
意識のない比呂美を背負い、アウトレットモールの屋上を抜け出して駐車場にある自分の車に向かいます。
車で脱出しようとする小田の耳に銃声が聞こえてくる。

「まだ、戦ってる・・・」

小田は方向転換して銃声の聞こえる方に車を走らせる。ZQNをはね飛ばしながら。


ブライは「もう終わりだっ!!」と歩道橋から飛び降りる。
「ベーコン置いていくわ」と、戦利品のベーコンを残して。

一人残された英雄の前に小田の車が突入してくる。
襲いかかるZQNをかいくぐり、英雄は車に乗り込むのですが、
「ちょっと待ってくれっ!!!」
と小田に声をかけ、なんと車から降りて
ZQNの群れの中からベーコンを回収してくるのです。

「村井君のベーコンっ!!!」

ベーコンを握りしめながら「む、村井君の・・・」と呟く英雄の歪んだ顔が胸を打ちます。

絶望的な闘いをともにしながら、ほんのわずかな時間の差で助かることができなかった村井君。
英雄の行動は、そんな村井君へのとっさに出た哀悼の行為だと思います。

時間を先取りして、
歩道橋の下で飛ぶ鳥を見上げる、ZQN化した村井君が俯瞰で描かれます。
悲しげな表情で彼が見上げる鳥は、果たせなかった脱出・自由なのでしょう。


アウトレットモール屋上にも破局が訪れます。

ZQNがついに屋上に侵入してくる。
あの元陸上選手も背面跳びで屋上に上がってくる。

カメラマンの荒木は終わりを覚悟します。
彼と擬似的な父子関係を築いていたローティーンの少年がいるのですが、
荒木はナイフを手に少年に近づきます。
苦しませずに殺すために。

しかしその前に荒木は少年に問います。

荒木「こわく、・・・ないか?」
少年「なれた」
荒木「ひとりでも、生きたいか?・・・それとも死にたいか?・・・どっちだ?」
少年「どっちかっていうと。生きたい」

静かな表情で答えた少年を見た荒木は、無言で、
襲い来る元陸上選手のZQNをふり返ります。

彼が取った行動は。

ガソリンをわが身に振りかけ、
ZQNに噛まれながら火をつけるのです。
かすかな希望しかないとしても、少年の「生きたい」という願いをかなえるために。

ZQNとともに燃え尽きる荒木の体から立ちのぼる煙。
それを見つめる少年。

セリフが一切ない、とても静かな第8巻の終わりです。



「村井君のベーコン」。荒木のガソリン。

説明としては、
「なんとしても死者を哀悼しなければならない」
「生きようとする人の意志はなんとしても守らなければならない」
ということだと思います。

しかし、
英雄も荒木も、理屈なんかなしに「これが正しい!」と直感して行動した

その直感は、それまで思考停止することなく「正しいこととは何か」を考え続けてきた二人の思索があってこそ出てきたものなのだと思います。

思索の果てに倫理は不意にその姿をあらわす。
「正しさ」の思索を重ねた人だけが、思索を超えるとっさの倫理的行動をとることができる。

ベーコンとガソリンはそれなんだと思いました。


これまであった共同体の存続があやうくなった時代。
わたしたちはそういう時代を生きています。
そういう状況での「正しさ」とは何なのだろう。

『アイアムアヒーロー』は、そういう困難な問いに全力でぶつかっている。

わたしは固唾を呑んで『アイアムアヒーロー』に注目しています。



2015年12月10日木曜日

野坂昭如追悼

小鷹信光に続いてたて続けに追悼文を書くことになってしまった。

野坂昭如の小説についてはいずれ書くつもりでいました。
でもその前に逝ってしまった。

あわただしく、三つのことだけ書いておきます。


『エロ事師たち』(1966)、『骨餓身峠死人葛』(1969)、『真夜中のマリア』(1969) などの初期の小説が好きです。

いかがわしい世界といかがわしくない世界を自在に行き来する戯作調の文体。
それが野坂の大きな魅力です。
小説が「情報」では決してないことを野坂の文体はみごとに具現しています。
どのようにストーリー(それは「情報」です)を要約したって、上に挙げた小説の正体を伝えたことにはならない。
ストーリーを知る楽しみをだいなしにするというのが「ネタバレ」の罪であるとしたら、野坂の小説に「ネタバレ」の心配をする必要はないのです。
文体こそが野坂昭如の小説の本質だから。
逆に言うと、
ストーリーのすばらしさが小説だと思っている人には野坂の小説はわからない。


二つめは、
人間と世界をただひたすら「焼け跡」という視点から見続けた強靱さです。

『平凡パンチ』『週刊プレイボーイ』のどっちだったかうろ覚えなのですが、
テレビに出はじめて有名になった野坂昭如がインタビューに答えて、

《娘に海外旅行をさせた。きれいな街だとか遺跡だとかを見せておくのはとても大事だと思う。いつか娘がわたしと同じように空襲に遭って焼け跡で死にかけたとき、「ああ、わたしはあんなきれいなところに行ったことがあるな」と思い出せることは救いになると思うから》

というような内容のことを語っていました。

きれいな街や遺跡を悲惨な死に際に思い浮かべる。
野坂は、そんなちっぽけだけれど祈りのような文化の力を述べているんだと思いました。
迫力に満ちた忘れられない発言です。

「いつかわたしは焼け跡に放り出される」
野坂昭如は最後までそういう視点から政治や経済を語り続けました。



野坂の「焼け跡」で大事なことは、
決して被害者の視点で焼け跡を見てはいなかったことだと思います。

『一九四五・夏・神戸』(1976)。
神戸大空襲にいたるまでの市民たちの生活を描いた名作です。

初期作品の戯作調はなりを潜めて、
子供の進学のことや、近所の噂話に明け暮れるごくふつうの市民たちがリアルに描かれます。

中公文庫版の歴史家・色川大吉の解説は、
《そういう無辜の市民たちが、最後の大空襲で猛火の中で死んでゆくのである》
という内容のことを書いていたと思います(今手元に本がないので記憶からですが)。

つまり色川大吉は、罪もない人々が爆撃された悲惨さを描く小説である、と受け取っているのですが。

わたしにはそうは思えない。

カタストロフィ(破滅)に向かって行進しながら、
そのことに気づかず、些細な日常のみにかかずらわっている善良な人々。
そういう人々のあり方こそがカタストロフィを生み出した原因なんじゃないか。
彼らは被害者であると同時に、無自覚な加害者でもある。
それが『一九四五・夏・神戸』にわたしが読み取ったものです。

悪意のない人々が生み出した悲惨。

野坂の「焼け跡」とはそういうものだったと思います。
だから野坂は野坂なりに焼け跡の責任をとろうとした。
政治を語り、原発を語り、農業を語り、経済を語った。
そして夢は語らなかった。

夢の意味など吹き飛ばしてしまう凄惨な焼け跡の光景だけが野坂昭如にとってリアルなものだったからだと思います。
そこから世界の全体像を構築していった。

知性のりっぱなあり方だと思います。


もう焼け跡の心配がない世界で安らかに眠ってください。