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2026年3月8日日曜日

トランプの「無条件降伏」発言

イラン攻撃についてトランプは、攻撃の収束はイランの「無条件降伏」によってしかありえないと発言した。

イランのペゼシュキアン大統領は「『無条件降伏』はアメリカが墓場まで持ってゆく夢だ」と応酬した。


まず、「『無条件降伏』はアメリカが墓場まで持ってゆく夢」だというペゼシュキアン大統領の表現。強がりだと受け流す人が多いんじゃないかと思いますが、わたしはこの表現にイランの詩文化の伝統を見ます。

日本ではあまり認識されていませんが、イラン (ペルシア) はルネッサンスまでは中国とならぶ世界文化の最先端の地域でした。それまでのヨーロッパはペルシアや中国とくらべればド田舎に過ぎません。世界で最初の大学はオックスフォードでもケンブリッジでもなくペルシアにありました。

当然文化のレベルも高い。ハーフェズ、フェルドウシ、ウマル・ハイヤームなど文学史に燦然と輝く詩人を排出しています。

そしてとりわけ日本では理解しにくいことだと思うのですが、その立派な詩の伝統が現代のイランの日常にも浸透しています。(実はこれはイランに限らず欧米文化にも見られることなんですが。みなさんはなんでもいい、詩を暗唱できますか? 管見の限りでは欧米の教養ある人たちはけっこう詩を読んでいて詩を暗唱できる。だから偉いという話をしてるんじゃありません。社会の中での詩の重要性の違いを言ってるんです。その違いを知っておくことは大事なことですよね。)

「『無条件降伏』はアメリカが墓場まで持ってゆく夢だ」にわたしはそういう体に染みついた詩的な感覚を感じます。(ちょっと違う意味で、わたしは北朝鮮や中国が他国を罵倒する際のレトリックにもそれぞれの文学的伝統を感じます。笑っちゃうくらい見事ですよね)

これ、意外に大事なことだと思います。とりわけ外交において。

イランと外交するならば詩を引用することから始めるべきだと思います。そう助言できる外務省の人間はいるのでしょうか? (実はいるんじゃないかと思ってます。ただそういう人を政治家が気にもとめていないということでしょう。文学をあなどると外交という実利で気づかない失態を犯す。文学研究はそういう意味で「実学」なんですが)


「まず」と上に書いたので「次」を書かなくちゃいけないのですが、気が重い。

「無条件降伏」についてです。


「無条件降伏」は過去それほど使われたわけではありません。「無条件降伏」がそもそも何なのかについても論争があるようです。とりわけ第2次世界大戦で日本が連合国に対して受け入れた「無条件降伏」については(その諸問題については不十分ながらウィキペディアがとっかかりになります)。

日本に対する「無条件降伏」をもっとも強硬に推し進めたのはアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトであり、その基本方針によって戦後日本の方向は定められました(若い方々、第2次世界大戦後、日本が独立国ではなかったことをご存知でしょうか)。天皇制をどうすべきかも最終的にはアメリカによって決定されました(この辺の複雑な事情とその現代における意味については、白井聡国体論 菊と星条旗(集英社新書 2018)がとても示唆に富みます)。

勝ったアメリカは、見事に日本を自分に忠実な (親米的な) 国家に育て上げることに成功します。民主主義国家と化し、経済的にも成功させ、その首脳たち (自民党) をアメリカの犬にしました。その極限の姿がトランプの横でニコニコと嬉しそうに飛び跳ねる高市首相です。

アメリカはCIAの策謀などを用いて一旦はイランに親米国家をうちたてることに成功しましたが、それはイラン革命によって覆されて現在に至っています。

トランプの「無条件降伏」発言を聞いたとき、わたしがまず感じたのは、トランプが第2次世界大戦と現在に至る日本をイランのモデルケースにしているのではないかということです。

日本に対してはこれほどうまくやったではないか。高市は忠実にしっぽを振っている。イランにもこれが応用できるはずだ、と。

もしそうだとすると、わたしがもっとも恐れることは、

トランプが、かつてアメリカが広島と長崎に対して行ったように、イランに核兵器を使うことです。大いに可能性があるとわたしは思う。

アメリカのイラン攻撃はだからわたしたち日本人にとって他人事ではない。被爆国日本が、戦後の今までの対米のあり方がほんとうに問われている。

高市首相、イラン攻撃に態度表明をまったくしていない。一国の首相として考えられないのらくらだ。

どうする、高市?

そしてわたしたちはどうする?

 

2026年3月3日火曜日

Operation Epic Fury は「壮絶な怒り」作戦か?

 アメリカがイランへの攻撃を開始した。

これが国際的な違法行為であることは言うまでもない。

イランの核兵器開発を擁護するつもりはさらさらないが、自分が核兵器を持っているのに他国がそれを持つのを許さないというのはそもそも理屈としてなりたたない(イランはテロ国家だから核を持たせるのは危険だと言うのなら、アメリカが昨今やっていることだってテロ行為そのものじゃないでしょうか)。「私たちも核兵器を放棄します」、そこまで行かずとも、「核兵器を縮小することを目指します」くらいの立場を表明してから交渉するのが筋だと思う。

アメリカは交渉の最中に敵国の首脳を殺害した。これは無法以外の何物でもない(トランプ自身は承知の上かもしれませんが)。


しかしアメリカが戦争を始めたことが、今日の話題ではありません。この戦争に付随する一つの、些細に見えるけれどもけっこう大事なことが話題です。

アメリカが今回のイラン攻撃の作戦をOperation Epic Furyと名づけた意味と、それを「壮絶な怒り」作戦だと報じている日本のマスコミの見識のなさはいかがなものか。

epic を「壮絶な」と訳すことは可能かもしれません。ただし、それはかなりの意訳であって、epic の派生的な意味にすぎない。

とりわけ epic が fury 「怒り」と組み合わされた場合、少なくとも高等教育を受けた欧米人なら epic の本来の意味である「叙事詩の」「叙事詩的な」を思い浮かべると思います。

「叙事詩の怒り」とは何か。

ヨーロッパ最古の叙事詩ホメロス『イーリアス』に描かれるギリシアの英雄アキレウスの怒りです。『イーリアス』の最大の主題がそれであり、数千行におよぶ『イーリアス』の冒頭の単語もアキレウスの「怒り」です。

『イーリアス』は伝説のトロイア戦争の最後の数十日間を描く英雄叙事詩。ギリシアNo.1の英雄アキレウスの怒りの展開が『イーリアス』の屋台骨です。

それを詳述することはしませんが、アキレウスの怒りが頂点に達するのは親友パトロクロスの死後。アキレウスは怒りを燃やしてトロイア軍をなぎ倒し、パトロクロスを殺したトロイア方の英雄ヘクトールと一騎打ちの末のヘクトールを殺します。

ヘクトールは死ぬ間際に命乞いをするのですが、アキレウスは容赦なく殺し、その亡骸を自分の戦車につないでずたずたになるまで引きずり回します。

欧米人の多くは、そしてアメリカ軍首脳部のエリートたちも、高校などの教材で『イーリアス』を読んでいる。epic furyという句はそれを背景にしている。

だからあくまで「叙事詩『イーリアス』の怒り作戦」、それが日本人に多くの説明を要することを考慮するなら、「英雄アキレウスの怒り作戦」と訳すべきだと思います。大手通信社だかAIだか知らないが「壮絶な怒り」という杜撰な訳を検討もせずに採用するのはいかがなものか。

「些細に見えるけれどもけっこう大事なこと」だと上に書いたのは、この作戦名にアメリカの(一部の)世界観が露骨にあらわれていると思われるからです。

彼らはイラン攻撃に「野蛮な異文化トロイア」と戦う「文明国ギリシア=アメリカ」を重ね合わせている。ひとことで言えばエドワード・サイードが主張した「オリエンタリズム」です。アキレウスがヘクトールにしたように、我々はイランの首脳を命乞いをしてもずたずたにしてやるぞ、という態度表明です。「壮絶な怒り」という訳ではそれが見えてこない。

重要な補足をすれば。

以上のオリエンタリズムを『イーリアス』に読み取るのは(往々にしてそう読まれがちなのですが)『イーリアス』の誤読です。

トロイアは現在のトルコ北部ですが、『イーリアス』はトロイアをアジアの異文化の国家だとは見ていない。自分たちギリシア人と同じ価値観・社会構造を持つ敵として描いています。

さらに。

『イーリアス』は最後の最後で「アキレウスの怒り」に大どんでん返しを与えています。

アキレウスは怒りをおさめたわけではない。しかし『イーリアス』の最終歌で、息子ヘクトールの亡骸を返還してもらうために決死の覚悟でギリシア軍のアキレウスのもとを訪れた老王プリアモスの悲しみに打たれたアキレウスは、敵の王プリアモスと食事をともにして、戦う者どおしの悲しみと苦しみを共有し、ヘクトールの亡骸返還を約束します。

epic fury と名づけたアメリカ首脳たちは『イーリアス』の最後まで視野に入っているとは思えない。敵に対して怒り狂うアキレウスだけです。

願わくは、アキレウスとプリアモスの食事まで視野に入れて欲しい。そしてその食事に向かうことを日本政府はアメリカに訴えるべきだと思う。それが外交というものでしょう。