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2018年1月31日水曜日

いわんや悪人をや——『相棒』Season16

(ネタバレあり。注意)


仮出所した瀬戸内米蔵の寺から白骨死体が発見される。
その謎を巡る前後編にわたる長い作品で、瀬戸内米蔵、社美彌子、片山雛子、蓮妙その他くせのある脇役たちのそろい踏み。

の割にいまいち。
テンポが遅い。

それは置いておくとしてもストーリーに難がある。

犯人はロシアからの指令で社美彌子 (やしろみやこ) の元恋人ヤロポロクを殺害した。
その部屋に置かれていた社美彌子と娘の写真を見て、美彌子の美しさに惹かれる。
その思いから美彌子を監視していた男を殺害して瀬戸内米蔵の寺の境内に埋める。

そういうストーリーなのですが。

犯人が社美彌子がどういう人物なのかをどのように特定したかが不明。
犯人が彼女を追尾しているときに監視している男に気づく、そういう場面が出てきます。
しかし。
そもそも
社美彌子が何者なのかを知らなければ追尾は不可能です。
(そして彼女に偽の手紙を送ることも不可能です)
その情報を犯人はどのように得たのか?

もちろんロシアやアメリカが犯人に情報を渡した可能性がないわけではない。
でもそういうことはいっさい触れられないし、
もしそうだとしてもいったい何のためにロシアやアメリカがそうするのか?
それももちろん説明されません。

犯人は「自分は監視している男を(命令に従ってではなく)はじめて自分の意志で殺した」と言っています。
このことばは、監視の男の殺害に関する限り、ロシアのかかわりはなかったことを意味します。

これは致命的な穴だと思います。
期待外れでした。



だけど。

久しぶりに『相棒』について書いたので、ぜひともついでに書いておきたいのは、
正月の『サクラ』

これは今までのところ Season 16 で出色の作品だと思います。

まず脚本が緻密で隙がない。
2時間スペシャルだけれど、5分間テレビの前から離れたら展開がわからなくなるくらいの緻密さとスピード。

そして何よりも、右京という人物の謎を解き明かす重要なエピソードだったと思います。

以前、Season 13 『鮎川教授最後の授業』 (名作でした)についてわたしは次のように書きました。

  《鮎川教授の
  「人間はなぜ殺人を犯してはならないのか。その理由を述べよ」
   という問題への右京の答案はなんだったのかです。

   鮎川教授は右京の答案を「みごとな答案だ。力作だ」と言いました。
   社美彌子の答案も「力作だ」だが「及第点は与えられない」とも。

   しかし、
   右京の答案に「及第点を与えられない」とは言っていません。
   及第点だったのではないでしょうか。

   右京は「人間がなぜ殺人を犯してはならないのか」に正しい解答を出していたので
   はないでしょうか。

   ああ。
   右京の答案の上半分が画面に一瞬映っていた。

   そこに何が書いてあったのかを知りたい。
   でもその答えを右京は言わないし、視聴者にも伝えられない。

   これこそカタルシスのないオープンエンドです。
   いつか明かされるかもしれないその答案を見たくてわたしは『相棒』を見続ける
   ことでしょう。》

『サクラ』はその答案が何だったのかを暗示していると思いました。

「人を殺してはならない」は「正義」です。
右京はつねに正義を全うしようとする人間です。

しかし人はなぜ「正義」を守らなければならないのか?

正義はフィクションでしかない。
普遍的に正しいと証明されたものではない。
しかしそのフィクションを信じることをやめたとき、人間は人間でなくなる。

それは盲信や独善と紙一重のあやういものです。
だけれども、これを信じなければわたしはわたしでなくなってしまう、
そういう重大なフィクションが存在するのではないか。

右京の「正義」とはそういうものではないだろうか。

『サクラ』の最後はそれを暗示しているとわたしには思えました。



2018年1月29日月曜日

西部邁を追悼する——文体の悲劇


西部邁(にしべすすむ 1939-2018)が亡くなりました。元経済学者・元東大教養学部教授で保守派の評論家。ウィキペディアをはじめとする彼の紹介はだいたいそうなってます。

「元」というレッテルがいかにも西部邁という人間にふさわしい。東大生のときに共産主義者同盟(ブント)の一員として全学連の中央執行委員を勤め、60年安保闘争に参加。既存の大学制度を否定する尖兵でした。

だけれども、アカデミズムに戻り経済学を追究する。東大教授になる。しかしそこにも安住せず、最終的には保守派の評論家として発言し続けました。

それまでの自分から抜けだし、その都度より正しいと思える道を選び取る。
それが西部邁でした。「元」が彼にふさわしいレッテルだ、と言ったのはそういう意味です。時代錯誤を顧みずに言い直すと、全学連の「自己批判」の精神を貫き通したとも言えるのですが。



西部邁はどちらかというと苦手なタイプ。
しかしずっと気になる存在だったから著作は読んできました。

なぜ気になっていたかというと。

二世代近く違うので、経験の激烈さはわたしの比ではないと想像するのですが、わたしもまた大学に入学しながら、大学という制度に疑問を抱き、大学闘争の最後の余波に参加しました。

その後アカデミズムに戻る道を選択し、大学教授になり、そして西部邁と同じように「文化的保守主義」とでも言うべき立ち位置にいる気がします。

「立場は違うけれど、ひとごとではない」
それが西部邁を読むたびに感じていたことです。



大学紛争から文化的保守主義への道とはどういうことか。
わたしなりに乱暴にまとめるとこういうことなんじゃないかと思う。

大学紛争のポイントは三つ。

ひとつ。大学が権威の場であることへの批判。
若い方々にわかりやすいように言えば。
『ドクターX』が戯画化して描いたような、権威のパイを奪い合う場としての大学ということです。国立大学はとりわけその傾向が強かったのではないかと思いますが、『ドクターX』はあくまで誇張されたフィクション。しかし現実にそういう側面はあった。

ふたつ。「権威」とはとりあえず無関係に、職人としてひたすら学問を追究する学者たちの場としての大学への批判。

これは難しい問題です。
だってそういう無垢な学者たちによって学問が支えられているのは事実ですから。
これまたテレビドラマを引けば、そういう魅力的な学者教授もときどき描かれますよね。
加藤一二三さんみたいに無垢な姿勢で学問を極めようとする人が。
だけれども、そういう無垢な学者が
「主観的には善意で、しかし客観的に悪に荷担する」ことはいくらでもあり得る。
ナチスの時代はその典型です。
アーリア人(白人)が優秀な民族であることを「科学的に」証明することによって、劣悪な民族ユダヤ人を駆逐すべしというヒットラーの政策を学者たちが支えました。そういう研究をした学者たちの多くは善意の人たちだった(と思う)。

三つ目は。
大学紛争は1960年代からの「カウンターカルチャー」の流れのひとつだった。
「大人は信用できない」。文化は大人のものだ。
大学とか研究とかはそういう大人のものじゃないか。それをとりあえずぶっ壊してみようじゃないか。
紛争に参加した学生たちのある程度の部分は、「共産主義思想」とはそれほど関わりなく、そういうカウンターカルチャーの時代の雰囲気に乗っかっていたと思います。学生はピケットストライキを行って授業をつぶし、教授たちをつるし上げた。

そして挫折しました。

なぜか?

もちろん権力の力はありました。
大学に機動隊が導入され、運動の中核を担う人間たちが排除された。

しかしわたしから見ていちばん大きな理由は。
運動に参加した学生たちの中途半端さだったと思う。
わたしは彼らを責めません。わたし自身が彼らだったから。

時代の空気というものがあります。
参加した学生たちは、その時代の空気の中で、上に書いた大学が抱える第一と第二の問題点に気づきました。ことばを代えれば、自分の頭で気づいたわけではない。
そしてそれは責められることではないと思います。

ちょっと脇道ですが。
O君は、大学時代からの敬愛する、そしてわたしが畏怖する友人です。
最近話したとき話題が学生運動の思い出になりました。
O君は運動に参加しませんでした。
「だってさ、参加してる人たちって、ふだんろくに授業に出てないし勉強もしてない人たちが多かったんだよね。それが大学はこうあるべきだとか言ってるのっておかしいんじゃない? と思ってたから」
O君は勉強家でした。そして昔から上のようなことを言っていた。一貫している。耳が痛い。わたしはまさにそういう学生でしたから。

O君は徹頭徹尾、自分の頭ひとつでものを考え抜く人物です。かなわない。わたしにはそういう強靱な精神はありません。

O君に答えるとすれば(情けないことに実はちゃんと答えたことがないんだけど)こうかな。

誰もが「自前で考え抜く」ことができるわけじゃない。

だけれども。
自前で考え抜くことはとても難しいけれど、時代のことばが自分の考えを助けてくれることはある。

「大人は信用できない」というカウンターカルチャーのことばもそうです。

時代を下って、たとえば「セクハラ」ということばが流通することで、
それまで「嫌だな」という感覚はあっても思考の対象ではなかったことがらが、
多くの人の思考の対象になった。
現在広がりつつある「ミー・トゥー」というハリウッド女優たちからはじまったことばもそうです。

こんなふうに、新しいことばができることは思考を広げてくれます。
思考とは煎じ詰めればことばの問題です。

自前ではないことばで自分の思考は広がる。
同時に、自前ではない時代のことばに自前のことばを付け加えることも大事です。
考えてるのは自分ですからね。
その点で学生運動に参加した学生たちの多くはことばに対して怠惰だったと思う。

思考はことばだ。
その自覚が薄かったから新しいことばをつくり出す努力を怠った。
そういうことなんじゃないかと思います。

もうちょっと説明を加えると。

言語学者のフェルディナン・ド・ソシュールは、人間は考えたことを「ことばで表現する」のではない、思考はことばそのものだ、というようなことを言っています。

「いや、心の中にはことばにならない渦巻きみたいなものがあって、それがわたしの頭の中の『本当のわたし』なんじゃない?」と思ったあなた。
ソシュールはことばにならない渦巻きみたいなものは否定していません。彼の「星雲」という比喩はそれです。でも彼に言わせるとそれは思考ではない。
紋切り型のロックの歌詞で
「こんな気持ち、ことばになんかできない」
ってありますでしょう?
でも
「こんな気持ち、ことばになんかできない」って、それ自体ことばじゃないですか。
ソシュールが言っているのはそういうことだと思います。

ことばはすでに存在している。そういう中にわたしたちは生まれてくる。
だからことばは本質的にわたしたちにとって心地よいものではない。
「こんな気持ち、ことばになんかできない」
にもかかわらず、わたしたちはことばでしか思考できない。

そこから自由になる術(すべ)はあるのでしょうか。

もちろんあります。

既存のことばでしかわたしたちは思考できないのだけれど、
既存のことばにちょっとだけ亀裂を入れる。ねじ曲げる。
そうすると新しいことばが生まれ、新しい思考が開ける。
ブルーハーツが「ドブネズミのように美しくなりたい」と歌ったとき、
「美しさ」ということばに亀裂が入りました。
「美しさ」の新しい思考が可能になった。
詩のことばとはそういうものです。

もうひとつの術は、
既存のことばのなり立ちをていねいにたどってことばを我が物にすることです。
紋切り型のことばに乗っかって(「ノリで」)ことばを使うのではなく、
ことばが背負っている歴史を知ることでことばをより本質的に、自由に使う。
西部邁が選び取ったのはこの道でした(回り道をしてようやく西部邁に戻りました)。

「お前ら、ノリでことば使ってるだけじゃねーか」

西部邁の文化的保守主義はそれだと思います。彼の「保守」は現状肯定では決してありません。数千年の歴史を背負ったことばの本質を確認することで、いい加減なことばで思考している現代を批判する。自分が考えていることばが実は文化そのものだ。それを自覚しないでどうして自由な思考があるうるのか? 大学紛争からアカデミズムへそして文化的保守主義の論客としてへの西部邁の道はそういうことだと思います。

蔵書の山に埋もれて西部邁の著作が見つけられない。
だから記憶で書いているのですが、典型的な例をひとつだけ挙げると。

「危機」ということばの使われ方への批判。

危機 crisis の語源は古代ギリシア語の「クリシス」です。
ヒポクラテス医師団のキーワードでもあって、患者が生きるか死ぬかが決まる決定的瞬間がある。その際に医師は何をするかの決断を迫られる。
マニュアルでは対処できない主体的な決断です。
「クリシス」のさらにもとになった語は「クリーノー」=「判断する」という動詞だからです。
だから「危険管理」はできるけれど(マニュアル化できる)「危機管理」はできない。
「管理」は想定内のできごとを前提にしているけれど、そもそも「危機」とは全力で判断することを迫られる想定外のできごとなんだから。
西部邁はそういうことを言っています。
ことばの歴史をたどることで、マニュアルで「危機」に対応できると高をくくり、自分の頭ひとつで判断し決定することを怠っている現代人への痛烈な批判です。

そういうことばの歴史の重みからの発言。そこにわたしは共感します。

だけれども。
それを語る西部邁の文体にわたしは危惧を感じていました。
絶滅を前にした恐竜の感覚、とでも言うのでしょうか。
「俺の言うことをお前らはわかんねーんだろうな。だけれども言っとくしかない」
という孤独感がただよう文体です。
「馬鹿は相手にしねーよ」という文体。

これは演出されたポーズだよなと思いもしましたが、
いや、これ肉声かもしれない、それがわたしの危惧していたことです。
同じ文化的保守主義の呉智英(くれともふさ)にある道化・笑いのスタイルがない。


西部邁の入水自殺の真相はもちろんわかりません。
単にうつ状態だったとも考えられます。

でもわたしにはそれだけだったとは思えない。
西部邁は絶望していたんじゃないか。

今日の毎日新聞夕刊に中島岳志が西部邁の追悼文を寄稿していて、
「死の約2週間前、ご自宅に招いていただき、約7時間、話をした。最後の面会になることはわかっていた」と書いています。
なぜ「最後の面会になることはわかっていた」のかを中島岳人は書いていません。
重篤だったのかもしれない(でも7時間の対話だぜ。すごい体力でしょ)。
思想的な自殺をほのめかしていたのではないかと想像します。

もしそうだとすると。

絶望しすぎだよと思います。
西部邁にならって歴史を振り返れば、
文化を背負ってきた先人たちは、程度の差はあれ、孤立感を抱いていた。
自分たちが絶滅する恐竜だという感覚におそわれていた。
でもそういう人たちがかすかな希望を手放さずに営々と続けてきたことで文化は維持されてきました。

西部邁さん、そういう文化の歴史をあなたは知っていたはずじゃないのですか。
あなたが想像するほどあなたは孤立していなかった。
同輩や後輩をもっと信じて欲しかった。
それが悲しい。

ご冥福を心から祈ります。

2018年1月21日日曜日

断捨離読書日記 その1——フリーマントル


 自宅と山小屋と研究室と貸倉庫に書物があふれています。20年以上前の引っ越しの際に数えたときに六千冊以上ありました。それ以後数えていないけど少なく見積もっても八千冊は超えていると思います。買っただけで読んでいないものがある。読んだけど内容をすっかり忘れてしまっているものもある。定年退職まであと1年ちょっと。
 もう潮時だと思います。捨てるものは捨てる。それしか蔵書地獄から逃れる道はありません。

 そうは言っても。
 どんな書物でも著者をはじめとする人々のエネルギーが注ぎ込まれた物質です。捨てるにしろそれなりの敬意を払いたい。黙って捨ててしまうのは失礼。とりあえず読む。あるいは再読する。そうやって、こちらもささやかなエネルギーを注いだ結果として捨てる決断をしたのだ、ということは最低限書いておきたい。そういうスタンスで「断捨離読書日記」を書くことにしました。



記念すべき第1回は

B・フリーマントル (中村能三訳)『別れを告げに来た男』(新潮文庫 1979)
(稲葉明雄訳)『消されかけた男』(新潮文庫 1979)
(稲葉明雄訳)『再び消されかけた男』(新潮文庫 1981)

ブライアン・フリーマントルは、イギリスのスパイ小説(エスピオナージュ)の名手。
3冊とも若い頃に買っただけで読んでなかった。
あるいは読んだけどすっかり忘れてしまっていた(年をとるというのはそういうもんです)。

20代のわたしは推理小説・SF・スパイやアクションもの(英語でいうthriller)を年間数百冊読んでいて、出版社のために未訳の英語原作のレビューを仕事にしていたこともある。現在の専門も文学テキストの解釈ですから判断力は素人ではないと思います(自慢ではなく単に事実として言っているだけです。仕事なんですから)。そういうわたしから見て3冊とも一級品だと思う。

3冊ともたぶん日本人には書けない。
なぜか。
ほとんどの日本人は、政治家を含めて、「外交」ができないからです。
『別れを告げに来た男』を読むと、大英帝国の歴史で培ってきたイギリス人のしたたかな外交の力がわかります。
主人公のエイドリアンは外交官ではない。共産圏の亡命希望者が本当の亡命希望者であるかどうかを品定めするしがない国家公務員です。
しかしフリーマントルは「しがない国家公務員」の凄さを描く。

人間はそれぞれ自分にとっては大事な価値観を持って行動する。
当たり前ですが、自分とは異なる価値観を持って行動する人間はたくさんいる。
そういう人間に対して、
腹を立てることもなく、自分と彼・彼女との違いを当たり前のこととして受け入れた上で、
双方に共有できるものはなんなのか、
共有できないものはなんのかをきちんと認識し、
さらに自分に有利なものを可能な限り手に入れようと相手と折衝を重ねる。
外交とはそういうものだと思う。

自分とは異なる価値観を持って行動する人間に対して「腹を立てる」人間に外交はできない。そういう人間は一人前の大人ですらない。外交は大人の仕事です。

エイドリアンは、ソ連の亡命希望者ヴィクトル・パーヴェルとの面談を通じて、
相手を観察し、考察し、見定めようとする。
その複雑・冷徹な人間観察。ことばを通じての交渉力。
ヴィクトルもエイドリアンに劣らず大人。
2人の駆け引きの緊張感がただごとではない。

しかしこの小説は、大人の冷徹な外交力を描くだけに終わらない。
価値観は相容れないけれども、お互いが大人であることを認識したからこそ生じる相手への控えめな共感と敬意。
それをフリーマントルは描きます。
おそらく本当の外交を行う政治家同士にもこのような共感と敬意は生じうるのではないか。それこそが敵対しあう国家間にもかろうじて可能なつながりではないのか。
丁々発止の交渉の中にも人間は希望を見いだすことができるのではないのか。
そういう点でフリーマントルにニヒリズム(虚無主義)はありません。

もちろん、しょうもない政治家や官僚はいる。
フリーマントルはそういう連中を呵責なく描きます。

だけれども。
こんな小説がベストセラーになる。
エイドリアンを通じて描かれるような人間観が少なからずの人間に共有されている。
わたしはそこに外交国イギリスの底力を感じました。



『消されかけた男』『再び消されかけた男』はイギリスの諜報部員チャーリー・マフィンが主人公。
安物スーツとハッシュ・パピーのすり切れた靴を身につけるさえない見かけのチャーリー・マフィンもまた、エイドリアンと共通する人間観察力と、さらには生き延びるための冷徹な計算と行動力を持つ大人です。

イギリス・アメリカ両国の諜報局を手玉に取って生き延びる。
この2作でもソ連のベレンコフとの敬意のやりとりが控えめに描かれます。
『再び消されかけた男』のチャーリー・マフィンの米英諜報局へのしっぺ返しは痛快で、わたしは思わず声を上げて笑ってしまいました。


3作とも読んで絶対損はしない。サスペンスの連続でおもしろい。
おもしろいだけじゃなくて「大人であること」が何なのかをわからせてくれる。
そして大人であるエイドリアンもチャーリー・マフィンにも、愛すべきうかつさやみっともなさもあることも。
人間ってこれだけ深くて賢くて、同時に格好悪いものでもあることを教えてくれる。
特に若い人に読んで欲しいと思う。

それから。
『消されかけた男』のカバー表紙の靴はチャーリー・マフィンが履いているハッシュ・パピーなんじゃないだろうか。
そうだとすると気合いの入った表紙だと思う。
稲葉明雄の解説も良い。



ここまで書くと、捨てるのは断念したかと思うかもしれません。
実際、3冊読み終わったとき「これは捨てるわけにはいかないな」と思いました。


しかーーーーし!!

続けてグレアム・グリーンの『ヒューマン・ファクター』の41ページまで読んだところで、
思い直しました。

フリーマントルを「一級品」だと書いたのですが(そしてその評価は変わりませんが)、
グリーンは一級品どころか超弩級。
まだ先を読んでいないんだけど、41ページまででフリーマントルがかすんでしまった。

『ヒューマン・ファクター』についてはあらためて書きます。


結論。
フリーマントル、すばらしかったよ。
でもお別れだ。
3冊とも手放します。