1 老いと歌
つくづく年のとり方は難しいと思う。
わたしは10代の頃から自分がどういう老人になるかを想像していた変な子でした。
実際に年をとってみるとその時の想像は当たっているところもあるし、外れているところもある。
今のところ当たっていたなと思うのは、
「『若さとは年齢じゃない。心が若ければいつまでも青春だ』というよくある年寄りの言いぐさは絶対に嘘だ」
という若い頃の直感です。
そういうことを言う老人、けっこう多いが、そう言う時点でもうぼけてると思う。嘘に決まってるでしょ。
難しいのは、とりあえず「枯れていく体と心を受け入れて『老い』に自然にフワリと着地する」のがいいんだろうとは思う一方で、「不自然にそれに抵抗する」ことにもそれなりの意味があるんじゃないかと思ったりする、そのかねあいですね。晩年の吉本隆明がそういうことを言っていた気がする。
それを言い換えると、「身体の滅びという自然」と「自然に抵抗する文化」の関係をどう考えるかということです。その答えはほんとうに難しい。「老い」の問題の本質ってそれしかないと思います。
「うーむ、若いわたしには縁のない話だ」と思ったあなた、
いずれあなたも直面することですから、鼻歌でも歌って距離をとりながら話につきあって下さいな。
そんなに深刻に考えているわけじゃない。日々はけっこうゆかいに過ぎていきます。
こういうむずかしい問題は観念的に考えるとロクなことはない。できるだけ具体的に考える方が健康的です。
最近、若い頃に浴びるほど聞いていた音楽をもう一度聴きなおしています。
「懐かしくなった」と言えばそうなんですけど、それだけではない気がします。
仕事をしなくなった未来の自分を想像します。たぶん、仕事の思い出は愉快なものじゃないと思う。どんなに社会的に有意義な仕事でも。
仕事の思い出はたぶん爺さんのわたしを救ってくれないだろうと思います。
今はそれなりに楽しく仕事をしてますけど。
男の年寄りに不機嫌な人が多いのはそういうことが原因だと思う。
じゃあ、不機嫌から解放されるためには、つまり、陽気なばか爺さんになるには、なにが必要なんだろうか、と想像します。
歌える歌があるということはそのひとつだろうなと思います。
歌詞もメロディーもしっかり覚えていて歌えるような歌をいくつ持っているか。それだってうんと年をとれば忘れてしまうんでしょうが、やっぱり歌えた方が幸せに決まっている。
考えたら意外に少ない。若い頃はあんなに音楽を聴いていたのに。
自分が好きだった歌を今もほんとうに好きだろうか。暗記しようと思うくらい好きだろうか。
若い頃聴いていた音楽を聴きなおしているのは、そういうことを確かめようとしている気がします。
2 デヴィッド・ボウイ
絶対的に好きな歌は覚えているからいい。エルトン・ジョンとか。
今は2番目、3番目くらいに好きだった音楽を確かめるように聴いています。
最近ではデヴィッド・ボウイとブライアン・フェリー。
たぶん活躍したのは同時期だと思う。イギリスのグラム・ロック。
若いときにレコードをけっこう買ったけれど所在不明。第一、プレーヤーがなくて聴けない。で、CDのベスト盤を聴いています。
ベスト盤は聴いていて疲れる、というのが感想です。
数十年にわたる音楽を順番に聴いていると、発表された時点で聴いたときには気づかなかった、それぞれの表現者のたどった道が見える。作品を通してその人の「人生」が見える。それはけっこう重いです。
疲れるけど新しい発見もあって興味深い。
デヴィッド・ボウイのベスト盤には、吉井和哉(イエロー・モンキー)と山崎洋一郎の割に長い対談が載っていて、これがなかなかよい。
ミュージシャンとしての吉井和哉は「うへー、心意気はわかるけどなんて詞が下手な人なんだ」というのが第一印象。でも「プライマル。」という曲で詞も歌もものすごく上手くなっていた。
下手だったのに上手くなる人はかならず批評能力がある人です。デヴィッド・ボウイを語る吉井和哉はその批評能力をいかんなく発揮していて感心しました。
読みながら「そう、そうなんだよ」と思わず独り言を言ってしまいました(内容はめんどくさいので紹介しません。興味ある人は読んでみて下さい)。
でも結論としては、デヴィッド・ボウイよりブライアン・フェリーの方が好きです。若いときとは逆。
デヴィッド・ボウイは初期の曲以外はまず歌えない。「フェイム」を口ずさんでる爺さんは気持ち悪いと思う。ま、英語の歌を口ずさんでる時点で気持ち悪いとは思うが。
今でも好きだけれど、基本的には「歌」ではなくて、バックの音と不可分に一体化した音楽だと思います。よっぽど才能がなければ、ひとりで歌ったとき「歌」にならない。
3 ブライアン・フェリー
で、ブライアン・フェリー。
「ロキシーミュージック」というバンドのヴォーカルだった人です。デヴィッド・ボウイが世紀末的な美形なのと対照的に、馬づらの間抜け顔です。一部では「セクシー」とか言われてましたが、わたしは断固まちがってると思います。
あろうことか、あの時代のロックなのにスーツにネクタイで歌ってた。
しかもそのスーツがヨレヨレ。若いときから姿が情けなかった。
歌も伝統的な基準から言うとヘタ。
でも好きでした。
わたしは「縦長の声」に弱い。きちんとした音楽の言い方はあるんでしょうが、わたしは「縦長の声」と呼んでます。
「平べったい声」はわかるでしょう?
それと対照的な声。古すぎてわからないと思いますけど、スコット・ウォーカー(AKA スコット・エンゲル)とか、『ハートに火をつけて』(ドアーズ)のジム・モリソンとか。女性だったら元ユーリズミックスのアニー・レノックス。
日本人で自然にそういう声を出せる人はあまり思い当たらない。作った声に聞こえます。北方白人の肉の体積が大きい共鳴体じゃないと出ないような気がする声。
めんどくさい人は「クールでセクシーなやや低い声」くらいに思って下さい。
ブライアン・フェリーはロキシー・ミュージック時代にそういう声で歌ってました(デヴィッド・ボウイもそういう声です。もちろん同じじゃないですけど)。
曲と音が美しかった。失恋の歌が多かった。
イギリス文化の香りがしました。「アヴァロン」とか。
この場合の「イギリス文化」はどういうのかと言うと。
10代の頃に読んで、今でも印象に残っている雑誌の記事があります。
もう手元にないので、筆者も誰だかわかりません。
あるイギリスのジャズ・ベーシストが来日したときの記事。
筆者はレコードでその人のベースを聴いて
「なんでこんなにモワーッとしたはっきりしない音なんだろう。録音が悪いんじゃないだろうか」
と疑問に思っていた。実際の演奏を聴いたらレコードと同じ音だった。
そしてすばらしかった。
「そうか、これがこの人が出したい音なんだ」
とわかって、ベースの音に関する認識が変わったそうです。
家具とかツイードの服とか、一見すると地味で趣味がいいんだか悪いんだかわからないんだけど、でも、ジーッと見ているとものすごく味があっていい。
それがイギリス文化というものだ。
自動車評論家の徳大寺有恒がそんなことを言っていました(これも手元にない)。
ブライアン・フェリーの音もそんな感じのイギリス臭さがあります。
へなちょこロックなのに、いろんな音が入っていて、繰り返して聴くうちに、だんだんその複雑な音の揺らぎの重なり合いみたいなものの虜になってしまいます。
ドニゴール・ツイードの生地みたい(ドニゴールはアイルランドだけど)。
その一方でアメリカへの憧憬もありました。ボブ・ディランの曲をけっこうカバーしていて、それがボブ・ディランよりいい。ソロ・アルバム『フランティック』に入っている「くよくよするな」(Don’t Think Twice, It’s All Right) なんか絶品だと思います。
アメリカのジャズのスタンダードも歌っています。
アルバム『As Time Goes By~時の過ぎゆくままに』がそれ。
上に書いた「縦長の声」じゃなくて、ツイード生地みたいな味のある声で歌っています。このアルバムを聴いてわたしはブライアン・フェリーはほんとに歌がうまいんじゃないかと思いました。
「Miss Otis Regrets」という恐い内容の曲も、とても静かに歌っています。