ツイッターはやらないと決めています。
たまに人様のツイッターをのぞくことはあって、それなりに面白がったりもする。でも自分ではやらない。ツイッターが広まりはじめた頃にそう決めました。
一ヶ月ほど前の毎日新聞 (2012/6/4 夕刊)に「ネット時間が思考力を奪う」と題された特集記事が掲載されました。スマートフォン普及以後の「ネット時間」の増大が「活字に触れる時間」を削っており、読書時間の平均が13分になっている。そのことが現代人の思考や行動に与える影響を問題にしています。
その中でインタビューに答えた松岡正剛は、ツイッターについて次のように語っています。
「世の中の情報化の流れは難問も軽問も、深い現象も浅い現象も、同じようにメニュー化された情報〈中略〉として整理していった。1万人が亡くなる事件も、1人のおばあさんが孤独死することも情報として同じ扱いになってしまった。この傾向は、機器そのもののスモールサイズ化によって加速され、ついには140字というツイッターの文字数になってしまった。」
松岡の発言は、この特集記事の枕として置かれた「インターネットやテレビが情報を垂れ流す中、人々の考える力が衰えている」という大塚ホールディングス副会長の大竹健一郎の「ぼやき」を、もう少しきちんとした形で言い換えたものだと思います。
言わんとしていることはまあわかる。若い学生と接している日々の経験から共感できる点は確かにあります。
しかし、なぜ情報が垂れ流されると「考える力」が衰えるのでしょう?
そもそもここで言われている「考える力」とは何なんでしょう?
それに答えないと、多くのネット時間を費やしている人々は納得しないと思います。「いや、わたしはたくさんの情報を得て考えてるよ」と反論するんじゃないだろうか。
毎日新聞の記事はその点について明確な答えを出していない気がします。
「お前は答えを出せるのか」
と問われて「できる」と確信を持って答えられるわけじゃない。
でも松岡正剛とはちょっと違う視点から、別の答え方をしてみたいと思います。
わたしが西洋古典学という学問を生業にしているのは、偶然やなりゆきもありますが、自分としては必然性みたいなものに導かれて現在にいたっている感覚があります。
ティーンエイジャーの時に西洋文化に触れて以来、西洋文化を本質から理解してなんらかの決着をつけなくては日本人としてもどうしようもないと確信していました。明治維新以来、西洋文化は望むと望まざるにかかわらず日本人の血肉の一部になってしまっているので。
西洋文化をほんとうに理解するには古代ギリシア・ローマからやるしかない、とわかったのが大学生の時。 何十年もやっていると、急にぶわーっと見通しがつくことがあります。
西洋文化の本質のひとつは「ひとつのことを長く語る」ということですね。
それにつきると言ってもいい。
古代ギリシアから「ひとつのことを長く語る」ことの自覚は始まりました。
弁論術が完成され、また、哲学のスタイルが確立しました。
誰だったか、20世紀の(西洋の)えらい人が
「知識人とは、どんな話題についてもそれだけを1時間語れる人のことだ」
と言っています。
そうなんです。西洋では。
古代ギリシア起源の西洋の学問や民主主義は「ひとつのことをねばり強く考えて長くことばにする」ことを前提にしています。
長く語らないと相手に通じるわけがない。それくらい他者は自分と違うものなんだ。ことばは「情報」である以上に「説得」「対話」であったわけです。
わたしは別に西洋文化が日本よりすぐれているとは思っていません。
思っていませんが、民主主義や学問など、社会の仕組みが西洋的なものを採用している以上、長く考えて長く語る力を養成しないととんでもない事態が生じるのは事実だと思います。
で、現代日本のことばはどうなんだ。
わたしの見るところ、おおかたの日本人は「ひとつの話題」を3行以上語ることはできない。
できますか?
相手に話をバトンタッチしたり、次の話題に移るのは反則ですよ。
たぶん、日本人の思考の最長単位は短歌の五七五七七、合計31文字なんだと思います。 『万葉集』には長歌があったのにあとの時代には継承されなかった。
これ自体は悪いことでも何でもない。
短ければこそ言えることがある。
でもそういう短い言葉は本質的に「詠嘆」あるいは「共感の確認」になる。
「あーそうだよねー」です。
桜が散っている。美しいけどなんてはかないんだ。「あーそうだよねー」
恋人の言葉が不意に遠くに感じる。「あーそうだよねー」
そういう感受性を数千年にわたってわたしたち日本人は鍛え上げてきました。たぶん世界でも指折りに数えられる鋭敏さで。
それをわたしたちは「考える力」だと思っている。
俳句や短歌の詠嘆や「あーそうだよねー」という共感はテレビや広告にあふれています。
感覚の鋭い芸人のコメントは例外なく短い。
見事に言い当てていてわたしたちは「あーそうだよねー」と思い、笑う。
「寸鉄で言い当てることば」を芸人たちは必死で探し求めています。
あるいはルミネの広告
「恋が終わるのなら、せめて夏がいい」
「今日は別人みたいなんて、失礼しちゃうわ 嬉しいわ」
「あなたといたい、と ひとりで平気、をいったりきたり」
「お気に入りを着ていれば、作った笑顔は必要なくなる」
(©尾形真理子)
俳句の伝統ここにきわまるというみごとな寸鉄。しびれます。
でも西洋ではそれは「詩」ではあるかもしれないが「考えること」ではない。
「思考」とは本質的に長いものなのです。
「哲学」は日本では短い「人生観」だと思われている。寸鉄で言い当てる短いことばです。 西洋の「哲学」はそうではない。最短でも十数ページなければならない。
西洋の基準からすればですが、乱暴に言うと、日本人は詠嘆はするが思考していない。
しつこいようですが、西洋起源のしくみである民主主義や学問は「あーそうだよねー」ではなりたたないのです。かつての小泉首相のことばはすぐれて短いことばでした。それが支持された結果の現在を見よ(ちょっと興奮ぎみですいません)。
長くねばり強い言葉を発することは現代の日本ではとても困難なことだと思う。
松岡正剛が言っているのは、困難だけどそうすることが「考えること 」なんだということじゃないでしょうか。
みんながそうする必要はないが、わたしは西洋文化を商売として引き受けた社会的責任上、短い言葉を発信するわけにはいかない。
だからつぶやきやツイッターはやらない決意をしています。
わたしの話はしつこくて長いぜ。嫌われるのは承知の上。
というような話をある場で話したら、「でもツイッターは欧米で生まれたんじゃないんですか」と言われた。
うん、いい質問だね。
古代ギリシア以来の「ひとつのことを長く語ること」という文化的伝統に西洋人自身が疲れちゃってる面もあるんですね。
ツイッターがあっというまに西洋文化圏に広まったのにはそういう事情があるとわたしはにらんでいます。
でも、日本人にはツイッターはこの上なく心地よい。
千年以上親しんできた「短い言葉」なんですから。
ツイッターは現代日本の俳句なんです。
欧米でも日本でもツイッターは大流行ですが、はやる理由は双方でかなり違っているんじゃないかと思います。
わたしは俳句は嫌いじゃありません。自分ではしませんが。
でも、ねばり強くしつこく人を説得しようという長いことばも持った方がいいと思います。「考える力」はひとつのことを長く語る力。「あーそうだよねー」を期待するのではなくて、「えー? そうなの?」と言う他者と対話して、説得したりされたりして、前よりましな考えにたどり着きたいということばの力。
だからツイッターはやりません。
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