多忙のせいもあったのですが、SNSやブログは「陽気な気分」がなければ書きにくい。
このところ陽気な気分から遠い場所にいた気がします。
百田尚樹のマスコミぶっつぶせ発言が問題になっています。
百田尚樹がとち狂っているのは言うまでもない。
言うまでもないけれど、
この人は小説家としては一流です。
『ボックス!』『永遠のゼロ』。文句なしの名作!
でも、わたしの関心は、
「超絶技法の小説家としての百田尚樹」と
「バカとしか言いようがない言論人百田尚樹」をつなぐものは何か?
ということなんですね。
つなぐものはなさそうに見える。
見えるけれど、同じ一人の人間なんだからあるはずです。
『ボックス!』『永遠のゼロ』の迫力は何かというと。
「オリジナルなストーリーを創り出すこと」をきっぱり断念している凄みです。
『ボックス!』はぶちわってしまえば青春ボクシング小説でしかない。
冒頭の女性高校教師と主人公の出会いは絵に描いたような紋切り型。
しかしディーテイルのすごさと、何より迷いのなさがぐいぐいと読む者を引き込む。
そこそこ売れることを目指す作家はどこかで新しさを出したくなる。
そうじゃないと「差別化」ができなくなるから。
百田尚樹にそんな魂胆は皆無に見える。
でも売れる。
なぜか。
「神話の力」だとわたしは思います。
神話は「考え出されたお話」ではない。
だけれど何か普遍に通じる力強さがある。
百田尚樹は、小説が本質的にもっている「神話の力」を確信している作家だと思う。
迷いがない。
別のことばで言うと、
「紋切り型のどこが悪い」
と開き直っている。
そこが希有なところです。
だが。
紋切り型にはそれなりの弱点がある。
名人芸の短編集です。
さりげない日常に潜む恐怖を描く。
だけれども。
その恐怖の内容は何かというと。
愛する異性が隠している「魔性」なのです。
その「魔性」が紋切り型。
慎ましやかな妻が実は過去にデリヘル嬢だったとか。
それが見えてしまうとしらけてしまう短編集です。
『幸福な生活』から見えてくるのは、
「そうか、百田尚樹は『男性像』『女性像』が紋切り型なのだ」
ということ。
百田尚樹が見ている世界は貧しくて殺伐としている。
それが見えてくる。
「紋切り型のせクシー」の世界、それを百田尚樹は描こうとしている。
男も女も。
ストーリーの「神話性」への確信が百田尚樹の強み。
男性像・女性像の「神話性」への確信が百田尚樹の弱み。
そうすると彼の政治的発言もすっきりする。
彼の「愛国」は彼の「男性像」の重ね合わせだ。
そういう「家族と国を守るまともな男」が守ろうとする女もまた
「紋切り型の女性」なのです。
「紋切り型のセクシー」は退屈です。
この場合のセクシーはかならずしも「フェロモンむんむん」とはかぎりません。
「つつましやかだけど可愛らしい」とかも幅広く含む、要するに「異性にとってとりあえずグッとくる」要素だとお考え下さい。
こういう女性って実際にいる。
そういう人と会って話をすると、
「ああ、紋切り型のセクシーを演じるために努力をしているのだな。たいそうエネルギーを使っているのだな。でもわたしには退屈」
だと感じます。
退屈でなく、貧しくないセクシーとは何か。
とりあえず「紋切り型のセクシー」からはみ出る部分を持っていることだと思う。
「ツンデレ」もそういうことじゃないでしょうか?
それ自体も紋切り型化する危険性は十分あるのですが。
百田尚樹には紋切り型ではないそういうセクシーさへの想像力がないと思う。
そういうセクシーさへの想像力を感じる曲に出会いました。
KANA-BOON の「ないものねだり」。
KANA-BOON、コアなファンから怒られそうですが、わたしの中では「ゲスの極み乙女。」なんかと似たイメージがありました。
意欲的な詩と茶目っ気のある音。
意欲的な詩と茶目っ気のある音。
「ないものねだり」いいと思います。
百田尚樹の反対の世界です。
「紋切り型のセクシー」への皮肉と距離がいい。
出だしの
「甘い甘いアイスクリームのよう
触れただけで溶けそうだ
白い白い素肌が透けるようだ
まるで今朝のミルクみたい」
詩とメロディーがみごとにマッチしているし、それを歌う声がいい。
この出だしにやられました。
この出だしにやられました。
「あれがほしい、これがほしい、
わがままな君に見とれてる
あれがほしい、それもほしい、
そんな君が好きさ」
かわいい物に囲まれていたい物欲あふれるキュートな女の子。そんな「紋切り型のセクシー」に惹かれている「ぼく」に一体化せずに、皮肉な距離をとっている歌だと思う。
「あーあん、あ、あ、あん」
のヴォーカルも秀逸。
百田尚樹にはこういう遊び心はわからないんだろうな。