2014年1月30日木曜日

秘密のタイ・グリーンカレー

タイのグリーンカレーはよく作ります。
市販のグリーンカレーのペーストを使うので、基本的な作り方はオリジナリティがあるわけではありません。

ブログにあえて書いたのはわたしなりのアレンジが二つあるから。

(1) タイ料理は「五味すべてがある」が基本だから、グリーンカレーのペーストにも甘みの砂糖を入れるように指示してあります。タイ人には悪いがわたしはこの甘みが苦手です。すでにペーストに砂糖が入っているのでわたしは砂糖を入れません。

(2) タイトルにあるようにわたしはタイ人がのけぞっちゃうようなある秘密のものを加えます(サスペンスがなくなってしまうので材料表には入れてません最後に書いてあります)。それがわたしのオリジナリティです。



秘密のタイ・グリーンカレーの作り方


《材料(四人前)
グリーンカレーのペースト  市販のもの
ココナッツミルク      1缶(粉末なら1袋)

鶏胸肉        300g(もも肉が好きな人はもも肉)
ナス         4本
シメジ        1パック
ゆでタケノコ     1パック

ピーマン       3個
香菜(シャンツァイ) 半束

鶏ガラスープの素   適量
ナンプラー      大さじ3(好みで加減して下さい)
パイマクルー(コブミカンの葉) 数枚(手に入らない方は山椒の葉で代用して下さい)

米(できればタイ米がいい)   3合
サラダオイル     適量



【1 米を炊く】
やはりタイ米の方が美味しいです。


【2 材料を切る】
鶏もも肉は小さめに切る。ナスは縦4つに切ったのを横3つくらいに切る。ゆでタケノコは薄切り。ピーマンはできるだけ細く切る。香菜は適当に切る。


【3 グリーンカレーを作る】
    市販のグリーンカレーに作り方は書いてあると思います。わたしは水を多めにしています。

    (1) 鍋にサラダオイルを入れてグリーンカレーのペーストを炒める。

    (2) しめじ、鶏肉、タケノコ、ナス、パイマクルーを入れて炒める。材料表にはありませんがグリーンアスパラやブロッコリー、小エビを加えてもおいしいです。

    (3) 水 500ccを加える。

    (4) 煮立ったら、ガラスープの素、ナンプラー、塩で味をつける。

    (5) ココナッツミルクを入れて少し火を弱める(粉末の場合は熱湯300ccで溶いて加える)。最後の味の調整をします。やや塩辛めがおいしいと思います。インドカレーと違ってあまり煮込まないのがポイント(ココナッツミルクが分離してしまう)。沸騰したら火を止める。


    【4 仕上げ】

    皿にご飯をよそったら、ピーマンの細切りをのせ、グリーンカレーをかける。
    香菜と、適当に切った 海苔 をかけて完成。
    海苔が秘密兵器です。
    ブヨブヨにふやけた海苔がグリーンカレーと絶妙に合います。お試しあれ。




    2014年1月27日月曜日

    SEKAI NO OWARI(世界の終わり)

    音楽は基本的にFMラジオ(J-Wave)から入ってきます。 
    車での往復通勤で3時間弱だから、けっこう聴いていることになる。 

    SEKAI NO OWARI(世界の終わり)も、変わったバンド名は記憶に入りましたけど、ボーーっと聞き流していた感じでした。音が好みだな、くらいの印象しかなかった。 

    最近流れている「スノーマジックファンタジー」。 
    スキーシーズンを当て込んだあざといラブソングだなと思いこんでいたのですが、 
    今朝、通勤の渋滞でこの曲がかかったときに、ようやく歌詞が頭に入ってきました。 


    スキー場のラブソングじゃなかった(SEKAI NO OWARI ファンの皆様、申し訳ない)! 

    「雪の魔法にかけられて僕は君に恋した/もしかして君は雪の精? 」
    の部分を聴くと、一応ラブソングに分類されるんじゃないかと思います。 
    わたしもこの部分が印象に残っていて、 「スキー場のラブソング」だと勘違いしました。 


    でもそうではなかった。 
    なんと言うのでしょうか、 
    「ものすごく遠いところから『ぼくたち』二人の出会いを見ている」詞です。 
    視野が巨大。 

    「ぼく」と「きみ」は恋人どおし。 
    一般的なラブソングはそういう「二人の世界」をいろんな角度からことばにする。 

    しかし「スノーマジックファンタジー」は「二人の世界」を外側から見ています。 
    そしてびっくりすることに、この詞の 「二人の世界」の外側には「死」まで含まれています。 
    というより、現在の若い二人のしあわせを「死」の視点から眺めている。 
    「視野が巨大」と書いたのはそういう意味です。 

    彼女のことばも書かれていて、

    「貴方と私は終わりがくるの/なのに、なんで出逢ってしまったの?  貴方は『幸せ』と同時に『悲しみ』も運んできたわ/皮肉なものね 」

    前の部分を聴くとわかるのですが、彼女が言っている 「悲しみ」は、
    「ぼく」の方が彼女より先に死ぬ、という悲しみです。 


    そのことばを受けて「ぼく」は自分の死をことばにします。 
    (恋をしている現時点で未来の死を想像している、ともとれますし、 
    あるいは実際に今死につつある、ともとれます) 

      やがて、僕は眠くなってきた 
      君と一緒にいるという事は、 
      やはりこういう事だったんだろう 
      
    「でも良いんだ、君に出逢えて初めて誰かを愛せたんだ /これが僕のハッピーエンド」と続く締めくくりに、とても静かで寂しい風景が広がっている気がします。

    「僕」にとって死は「ハッピーエンド」なのだけれど彼女にとっては「悲しみ」だ、という超えられない距離(あるいは裂け目)の風景です。

    その風景を嘆くでもなく、「そういうものなんだ」とただポンとわたしたちの目の前に置いて見せている。悲しみがあるとしても、諦念に近い静かな悲しみです。




    気になり始めて、前の曲「ねむり姫」を研究室で聴きました。 
    (人文学はこういうのも研究のうちなので大いばりでできます。勤務ですから) 

    「スノーマジック・ファンタジー」は「ねむり姫」とペアになっている曲だということがわかりました。「ねむり姫」では彼女の方がぼくより先に死ぬ。 (「スターライトパレード」もそういう曲でした)



    詞を書いた(ボーカルの)深瀬慧は、 
    目の前に起きるできごとをいつも「死」の視点から見ている気がします。 

    それなのに不健全さがまったくないのは、 
    愛の幸せやすれ違いの、「死」から見たときにはじめて見える光景を歌っているからだと思います。 

    「死」を願っているのではなくて、現在を正確に見るためには「死」の視点に立つしかない、という立ち位置。 決意して選びとったのではなく、そういう立ち位置にごく自然に立っている気がします。その自然さが、この人の詞の「静けさ」につながっているんじゃないかと思います。



    そういう意味で、この人は若いのだけれど若者じゃない。 
    SEKAI NO OWARI というバンド名が腑に落ちました。 


    また一人すぐれた詩人に出会えました。 幸せです。

    2014年1月24日金曜日

    ストーリー・オブ・マイ・ライフ

    ドコモのコマーシャルに出てるイギリスの One Direction(ワン・ダイレクション)というグループがいます。ドコモのにも流れている今ヒット中の「ストーリー・オブ・マイ・ライフ」、胸をえぐる失恋の歌です。 

    そんなに調べてないのですがこの曲を彼らが作ったのだとしたらたいしたものです。 
    若者に書ける詩とはとても思えない。 
    メロディーと音も好きです。 


    CD買っていないのでその訳詞を見ていないし、ネットの訳詞もいろいろのぞいてみた程度なのですが、そのかぎりでは下の部分の納得できる訳がないような気がします。

    She told me in the morning she don’t feel the same about us in her bones 
    It seems to me that when I die these words will be written on my stone 

    今朝彼女は言った、もうわたしたちについて前みたいに確信が持てない、と。 
    ぼくが死ぬときその言葉がぼくの墓石に刻まれるだろう。そんな気がする。 

    feel… in her bones は「確信する」というイディオムです。「骨の髄で納得する」という感じでしょうか。 

    その「骨」から自分の「死」「墓石」へのイメージのつながりがこの部分の肝(きも)。 
    in her bones と on my stone の言葉の呼応がすばらしい。 

    inとon, herとmy, bonesとstone の呼応があるからこそ、意味の対比(コントラスト)が「ぼく」と「彼女」の裂け目をきわだたせている、そういうすぐれたフレーズだと思います。 



    それから。 

    The way that I been holdin’ on too tight 
    With nothing in between 

    の With nothing in between が、私が見た限りではしっくりする訳がありませんでした。
    前の行にかかっているのですから、 
    「距離なく」「間に何も入らないべったりくっつく状態で」しがみついていた、あるいはこだわっていた、 ということだと思います。 



    いちばん胸をえぐるのは 

    I spend her love until she’s broke inside 

    ですね。 
    こういうことがあるよねと胸にストンと落ちました。この解釈に挑戦してください。 
    先生っぽくてすみません。



    Mika(ミーカ) にしろ、ワン・ダイレクションにしろ
    イギリスのポップスの底力あなどるべからず。
    文化の伝統を感じます。

    (2014/3/23付記:補足を投稿しました)

    2014年1月22日水曜日

    右京さんの友達——『相棒』 Season12

    (ネタバレあります)

    『相棒』はご存じの通り多様性のあるドラマです。
    社会問題を扱うときは他の刑事物にはない気骨のある社会批評をする。



    でも好みで言うと「物を介した人のつながり」とでも呼ぶべき傾向のものが好きです。
    マニアックな『相棒』ファンではないので、タイトルの記憶も定かでないのですが、
    『相棒』に惹かれたのは、ふと訪れた箱根(だったっけ?)の洋館で右京が殺人事件に遭遇するというごく初期のものがきっかけでした。

    洋館の主である品の良いおしゃれなお婆さまと右京のファッションを介したつながりが見事に描かれていました。

    右京は洋館のパーティーでスーツのポケットのフラップ(蓋)をポケットの中に入れています。ポケットのフラップは元来中身を雨から防ぐための物なので、正式には屋内ではポケットの中に入れる。
    お婆さまはそれに目をとめて右京の人となりに惹かれます。

    お婆さまの亡くなったご主人は、右京のようにオーソドックスにおしゃれをする人だった。最後にお婆さまは右京に向かって
    「あなたはとてもおしゃれ。でも主人と同じね。固すぎて遊びがないのよ」
    というようなことを言い、
    右京のきちんと折られたポケットチーフを抜き取ってクシャッと崩して再びポケットに収めます。

    お互いの敬意や愛情がストレートに表現されるのではなく、服やチーフなどの「文化の産物」を媒介にしてシャイに表現される。

    社会派ものとともに、この傾向のものが『相棒』の貴重な価値だと思っています。
    他の刑事物にはあまりないんじゃないでしょうか。




    今日の「右京さんの友達」もその傾向のお話しでした。
    真野勝成は『相棒』の脚本ははじめてらしいのですが、きちんとこれまでの『相棒』をふまえて自分の遊びもやっています。凝っているけれど柔らかな脚本。

    紅茶や書物を通じて、本質的には性狷介な右京と犯人のあいだに信頼と友情が控えめに形作られていきます。

    相棒の甲斐亮は「物の文化」に興味がないわけではないが、右京のマニアックぶりには距離を取っている。しかし、右京と犯人の「物を介した友情」の価値をきちんとわかっていて最後のすばらしいセリフ(「ネタばれはいけないことか?」を書いた私でもさすがにばらしたくない)を言います。



    ああ自分はがさつ者だ、と思いました。
    右京のように、文化や物を介してシャイに人とつながることをしたいと思っているのに、
    ついストレートに思いを表現してしまう。

    「慎ましやかな親しさ」の大事さが身にしみる『相棒』でした。





    2014年1月18日土曜日

    ムサカ(コクふわバージョン)

    ずいぶん前にギリシアの伝統料理ムサカの作り方を載せました。
    きっかけは「ムサカ 作り方」でググってみたら「簡単レシピ」みたいなのがほとんどで「これはムサカじゃないだろ」と思ったから。このブログでいちばんアクセス数が多い記事です。


    前のレシピは「軽さ」を前面に押し出しました。確かにギリシアのムサカは「軽さのグラタン」です。特にベシャメルソース(ホワイトソース)はふわっふわ。これが本格ムサカかどうかの分かれ目です。



    しかし最近、少し考えが変わりました。

    ギリシアで美味しいムサカを何度か食べて、
    「ベシャメルソースはふわっふわ。しかしトマトソースはしっかりコクがある。そのコントラストが織りなすハーモニーの料理だ」
    と思うようになりました。それが今回の「コクふわバージョン」。
    前のは前ので気に入っていますので「改良版」とはしないことにしました。


    ムサカのポイントをおさらいしておくと

    (1) ムサカは、挽肉トマトソースとナス(ジャガイモの場合もある)を重ね、ベシャメルソースを載せてオーブンで焼くギリシア伝統のグラタン。
    (2) チーズと卵を加えたふわっふわのベシャメルソースが命。ベシャメルソースにバターを使わない。


    今回変わった点は

    (3) トマトソースをしっかりコクのある味つけにする。ただし、オリーブオイルをできるだけ少なくする点は変わらず。ナスをオリーブオイルで炒めるので油分はそれで十分。
    (ギリシア料理は基本的にオリーブオイルを使うのですが、ギリシアのムサカは決して油っこくありませんでした。)


    好みですが、ホワイトソースは多めの方がおいしい。下の分量は標準的な量です。
    耐熱容器は深めのものを使ってください。
    その他、細かな新しい工夫も加えてあります。


    本格ムサカの作り方(コクふわバージョン)


    《材料》
    ナス     5~6本(大きさによります。少ないと困るので加減してください)

    牛挽肉    300g
    玉ネギ    1 個
    セロリ    少々
    パセリ    少々
    トマトの缶詰 1 缶
    乾燥トマト  4~5枚
    オレガノ、ナツメグ、シナモン、ミントの葉   適量
    赤ワイン   大さじ3

    薄力粉    90cc
    牛乳     500ccちょっと
    卵      1 個
    チーズ    1 カップ(約半分がクリームチーズ。後述)

    EVオリーブオイル
    塩胡椒


    【1 材料を切る】
    (1) ナスを薄切りにして軽く塩をふっておく。しばらく置いたら水洗いしてペーパータオルなどで水気を取る。(めんどくさい人は切るだけ)


    (2) タマネギ、セロリ、パセリ、ミントの葉(多すぎたらくどい)をみじん切りにする。これらは一緒くたにしていいが、タマネギのごく一部をみじん切りせずに長いまま残して別にしておく。

    (3) チーズを細かく刻む。

    わたしはクリームチーズとハルーミというギリシアのチーズを同量、それに削ったパルミジャーノを少々加えています。ハルーミが手に入らなければ何か固いチーズを使う(グリュイエールやハバティーもいいかも)。要するに、軽やかなクリームチーズにややコクのある固めのチーズを好みで合わせるということです。


    【2 ミートソースを作る】
    (1) 鍋に牛挽肉を油をしかずに入れる。出てくる水分を飛ばすようにしばらく炒め、肉をパラパラにする(これは大事です)。焦がさないように。

    (2) 肉がパラパラになったらタマネギ・セロリ・パセリ・ミントの葉を入れて炒める。
    (牛挽肉の脂の量によりますが、最近わたしはミートソースにまったくオリーブオイルを入れません。焦げそうだったら、このときにほんのひと垂らししてタマネギ等を入れてください)

    赤ワイン、オレガノ、ナツメグ、シナモンを加え、乾燥トマトをはさみで細く切って入れる。オレガノの代わりにディルの葉を刻んで入れることもあります。

    (3) タマネギが半透明になったらトマトの缶詰を入れて塩胡椒で味つけ(ベシャメルソースに塩を入れないので気持ち強めに)。水気を飛ばし、肉にしっかり味をまとわりつかせる(非常に大事です)。


    【3 ベシャメルソースをつくる】
    わたしはミートソースのトマトを放り込むあたりからベシャメルソースを作り始めます。

    (1) 鍋にオリーブオイルを熱し、薄力粉に十分熱を通す。このとき、分けておいた少量のタマネギも入れます(ダマになりにくい)。くどいようですが、ベシャメルソースにバターは使いません。これが軽さの秘訣。

    (2) ダマにならないよう少しずつ牛乳を加えてなめらかなソースにしていく(ふつうのベシャメルソースと同じ要領です)。中弱火。あとでチーズと卵を加えるのでややゆるめに作る。

    (3) 刻んだチーズを入れてかき混ぜながら溶かし込む。完全に溶けなくても大丈夫です(ハルーミは完全には溶けないと思います)。

    (4) チーズがあらかた溶けたなと思ったら、溶いた生卵を入れて手早くかき混ぜ、火が通りすぎないうちに火を止める(当たり前か)。卵を1個にするか2個にするか迷うところ。わたしは最近1個にしています。
    最初に焼けたナスで容器に
    オリーブオイルを塗ります。


    【4 ナスを焼く】
    フライパンにオリーブオイルを入れて薄切りにしたナスを中火で次々に炒めていく。

    ナスは油を吸います。これを利用して、オリーブオイルを含んだナス1, 2枚で耐熱容器を拭くようにすると、あらためてオイルを塗る必要がない。


    【5 重ねる】
    (1) 耐熱容器の底にナスを敷き詰める。

    (2) ナスの上にミートソースの半量、その上にナス、その上にミートソース、その上にナスを敷きつめる。ナスを炒めながら重ねていくと時間短縮できます。
    いちばん上がベシャメルソース(好みでパルミジャーノをふりかけても良い)。


    【6 オーブンで焼く】

    ガスオーブンなら180°、電気オーブンなら210°で30~40分が目安。表面にうっすら焦げ目がつく程度まで焼いたら完成。切り分けて食べる。オーブンで焼いているあいだにサラダやパンを準備する。



    2014年1月13日月曜日

    『ライチ光クラブ』のさよならと鎮魂——古屋兎丸論 その3(完結編)

    古屋兎丸論「その1」 「その2」 の続きです。完結編。ネタバレ注意!


    1 「真実の弾丸」タミヤ


    光クラブを最初に抜けるのはタミヤです。
    タミヤは、「忠誠の騎士」ニコの目の前で囚われの少女たちに給食を与えることで、ゼラの命令への最初の違反をおこないます。彼はニコに言います。

      「ニコ、こんなの間違ってる」
      「こんなの光クラブじゃない・・・」

    タミヤは、小学生時代にダフ、カネダと三人でひかりクラブを作りました。「ひかり」クラブの名は、三人の名前(本名)から一文字ずつとったものです。転校生ゼラが加入したことで光クラブは前回書いたようなものに変質しました。

    タミヤはダフに、カノン以外の少女たちを逃がす決意を明かします。

      「俺たちと同じ歳の子が目の前で死んでいくのかと思ったら
      俺なんか目が覚めたんだ。
      あの女教師の時は何も感じなかったのにな・・・
      俺の光クラブだ。もうゼラやジャイボ、ニコの好きなようにはさせねえ」

    タミヤはゼラと同じように、大人の世界を否定し、「少年の自我」の世界を貫こうとしています。しかし同時に、自我の世界の「外側」に通じる回路を失っていない。

    どうやらその回路は「仲良しの世界」とでも呼ぶべきもののようです。小学生時代の「仲良し三人組」がその原点。それが「俺たちと同じ歳の子が目の前で死んでいくのかと思ったら」目が覚めた、という感覚につながっています。

    自分は自我の世界の「主人公」でありたい。でも「主人公」になりきれない。タミヤはそういう矛盾を抱えた人物です。

    しかし、ダフとの会話が立ち聞きされたことで、真の「裏切り者ユダ」の策略が動き出してしまいます(ユダが誰なのかはもちろんまだ読者には明かされません)。

    カノンに触り、自慰行為に及んだダフの処刑を、タミヤはゼラに命令されます。
    ライチにさらわれてきた妹タマコの姿を見て、タミヤは命令に従わざるを得ません。
    引き絞られたパチンコの前でダフは言います。

      「僕・・・何も思い残すことないから。
      だって女の子の体触ることが出来たんだもん。すごく柔らかくて温かかったよ。
      僕にとってのリーダーはタミヤ君だけだから。君にやられるなら僕いいんだ」

    タミヤは自分の手で「仲良しの世界」を壊さなければならなかった。ダフの処刑後、妹タマコがパイプで陵辱された姿を見たタミヤはゼラへの復讐に動き始めます。(タマコの陵辱は実はゼラの仕業ではなくて「裏切り者ユダ」の策略なのですが、タミヤはそのことを知りません)


    ユダの策略は加速します。
    「不変不動の論理」の証(あかし)、チェスの駒が何者かに壊されたことで、ゼラは猜疑心をつのらせ、次々に光クラブのメンバーを処刑していきます。

    仲良し三人組のカネダはライチに体をまっぷたつに折られて死ぬ。

    それを目撃したカノンは、その夜ライチの前でオルガンを弾きながら鎮魂歌を歌います。
    (「怒りの日」Dies Irae と題されたレクイエムの終わりの2節をカノンは歌っています)

      「これは鎮魂歌と言って死者の魂を慰める歌よ。
      この曲が悲しいのは、死んだ人が殺されてとても悲しんでいるからなの」

    そう言った後で、カノンはライチに「本物の人間になりたいのなら人を殺してはいけないわ」というただひとつの「命令」を告げるのです。(この「命令」については前回書きました)。

    命令を告げるカノンは、涙を浮かべてカネダの死を悼む慈愛の「観音(かんのん)」であるとともに
    (元来は男性であったらしいが中国で変容を遂げた慈母観音、あるいは日本のキリシタンによってさらに変容を重ねた「マリア観音」に近いのではないでしょうか)

    人間が人間であるためのただひとつの基準=カノン (canon) を告げる厳かな「女神」でもあります。

      (「あとがき」p.326 で古屋兎丸は、東京グランギニョルの舞台では「マリン」だった
      少女の名を変えた理由を書いていますが、なぜ「カノン」に変えたかは書いていません。
      「カノン」という名前にはきっと古屋兎丸なりの意味づけがあるんだと想像しました。
      それが上に書いたことです。それからもちろんゼラにとっては「美の基準(カノン)
      です。あながち外れではないと思ってるんですが。

      もうひとつ。
      「カノン」への改名によってもとの「マリン」(「海子」みたいな意味)が消え去っ
      たわけではなく、下に書く「薔薇の処刑」の伏流水として活かされているとも思いま
      す。「水の少女カノン」として。それは、古屋兎丸の東京グランギニョルへの敬意を
      こめた挨拶なのでしょう

    ライチはカノンのこの命令を無条件に受け入れます。

    ライチの燃料であるライチ畑が焼き払われ、炎の中から全身にやけどを負ったタミヤとニコがあらわれる。ゼラは放火犯人として二人の処刑をライチに命じます。
    「忠誠の騎士」にして「1番(アインツ)」ニコさえ処刑される!!
    しかしライチは、ゼラの処刑命令と「人を殺してはいけない」命令に引き裂かれて動けなくなる。処刑は延期されます。


    その夜、重傷のカネダ、ニコ、カノン、ライチは秘密基地からの脱出を試みます。
    だが、パイプが折れてライチは取り残される。

      「ライチはもう上がってこれねえ。しょうがねぇ、行くぞカノン」

    という呼びかけに答えず、カノンは下にいるライチに向かって飛び降ります。
    カノンの「愛の跳躍」!

    カネダは最後に残ったライチの実をカノンに投げ与えて立ち去ります。




    ゼラは、カノンを機械に変えるために処刑しようとします。

      「我々に必要なのは時の移ろいですぐ萎えてします花のような美しさではない!!
      そうだ 我々に必要なのは決して成長することのない鉄の少女」

    繰り返しになりますが、ゼラにとって「美」は生身の美しさではなく、不変の「美の基準(カノン)」なのです。鉄ならば美しさは変わらない。

    しかし、その美の基準(カノン)から浴びせられた第一声が「あなた最低ね!」だとは!
    そして光クラブの夢を叶える「力」ライチとカノンが愛し合っているとは!

    鉄の冠をかぶせられ、自動制御を失ってコントローラー(電卓)の指令でしか動けなくなったライチに、ゼラはカノンの処刑を命じます。水を満たした棺桶に薔薇の花を浮かべ、沈めて溺死させる「薔薇の処刑」です。

    「薔薇の処刑」は、ゼラが自分をなぞらえるローマ皇帝ヘリオガバルス(エラガバルス)が行ったとされるもの。天蓋に満載した薔薇の花を落として窒息させる(それを描いたアルマ・タデマの絵を「その2」に載せてあります)

    古屋兎丸は「薔薇の処刑」に大きな改変を加えているわけです。




    2 水の妖精カノン、そしてタミヤの跳躍


    『新約聖書』の「裏切り者ユダ」そして「人間が制御できなくなった人造人間」という既存の物語を下敷きにして『ライチ光クラブ』のストーリーは展開される。そういう自在な引用がこの漫画に奥行きと広がりを与えています。「その1」「その2」で書いた、バロックの「批評的引用」です。

    他にも使われている物語の系譜があります。「美女と野獣」(でも小規模な引用です)。

    「薔薇の処刑」からもうひとつの物語の系譜が、大規模に参照され始めます。
    「水の妖精ウンディーネ」の物語。
    (使用言語によって「オンディーヌ」「アンダイン」などと呼ばれます)。
    水の妖精ウンディーネと人間の騎士の恋物語。そういう点では「人魚姫」と姉妹みたいな関係にあります。

    フーケー(柴田治三郎訳)
    『水妖記——ウンディーネ』岩波文庫
    ジャン・ジロドーやフリードリヒ・フーケーなどが作品化していますが、『ライチ光クラブ』に関係が深そうなのはフーケーの『ウンディーネ』(1811) です。


    途中のややこしい経緯を省いたポイントだけ書くと。

    騎士が「水の上でウンディーネをののしってはいけない」という禁忌を破ることで、ウンディーネは水の世界に帰ってしまう。
    さらに、騎士が人間の女性と結婚するという掟破りをしたために、ウンディーネは騎士を殺さなければならなくなる。騎士はウンディーネと口づけをしながら息絶える。

    というものです。



    カノンが水の精であることがはっきりするのは終幕近くなのですが、すでに「薔薇の処刑」の場面から水が存在感を増しはじめます。

    ライチはゼラの命令に従ってカノンを水に沈めて「処刑」する。カノンへの加害によって二人に別れが訪れる。ウンディーネに対する騎士の「加害」のモチーフの引用です

    このような『ウンディーネ』への参照の中で、ある重要な逆転が加えられています。すなわち、

    ウンディーネは人間ではない世界の存在で、騎士は人間。
    でも、カノンは人間で、ライチは人間になろうとする機械。

    この逆転によって『ライチ光クラブ』は「人間とは何か?」という大きな問いの物語となるのです。

    駆け足で『ライチ光クラブ』の終わりまでストーリーを追ったあとで、この壮絶な物語の意味と、「人間とは何か?」への答えを考えてみたいと思います。




    自分の意思で動けないライチに、カノンは語りかけます。

      「ライチ思い出して。ライチは人間でしょ」

    薔薇と水の中に沈められていくカノン。

    このときライチが壊れる。「私がカノンを殺した」と、とぎれとぎれに叫びながら。
    ライチは少年たちを殺戮していきます。
    ゼラを殺そうとする寸前で燃料が切れ、ライチの動きが止まる。

    ゼラが助かったと思った矢先、一気呵成に秘密基地の破局(カタストロフ)が訪れます。
    水に浮かぶ「死んだ」カノンの顔。その隣に突如ジャイボの顔が浮かび上がるアップシーン。同時に「ドドドド」という水しぶきの轟音。

    戦慄の場面です。

    秘密基地に流れ落ちる瀑布を背にあらわれたのはタミヤ。「ここは俺の"ひかりクラブ"だ!!」とゼラに叫んで、鉄パイプを振りかざして階段を跳躍するタミヤのストップモーション。

    大人の世界を否定しつくそうとする「光クラブ」から、小学生の仲良し「ひかりクラブ」への跳躍です。少年の「自我の世界」から「外の世界」への跳躍です。

    この跳躍はゼラにとっては「自我の王国」の崩壊を意味します。
    タミヤに水に沈められながら、ゼラは言います。

      「返せよ・・・僕のライチ返せよぉーー」

    ここでついに陰謀の張本人「裏切り者ユダ」が正体を現します。美少年ジャイボ。

    タミヤをパチンコで殺害し、薔薇の棺桶からカノンを引きずり上げて、ジャイボはゼラに訴えます。

      「僕・・・もう声変わりが始まってきたよ。あとうっすら髭も生えてきたよ。
      僕は大人になっていくよ・・・醜い大人に・・・」
      「やだよ・・・ゼラ、僕だけを見てて欲しいんだ」

    ジャイボはカノンの顔にガラスを突きつけています。ゼラの大切な「美」を破壊するつもりで。
    しかしジャイボにライチが一撃を下します。カノンが最後のライチの実を与えていたので
    す。カノンは死んでいなかった。

      「初めて会ったとき私言ったわ。『水泳習ってる』って」

    「誰よりも長く潜っていられる」カノン! 水の妖精ウンディーネです。

    ゼラは、ライチに腕を引きちぎられ、瀕死のニコの最後の一撃、便器で腹を貫かれて死にます。

    創造主ゼラに手をかけたライチは、プログラムされた自動発火装置で炎に包まれます。カノンの腕の中で口づけを受けながらライチは息絶える(これが『ウンディーネ』の終わりの引用であることは言うまでもありません)。
    秘密基地は水に沈み、カノンは夜の街へ去って行って終幕。




    3 「少年の世界」へのさよならと鎮魂


    「人間とは何か?」から考えてみたいと思います。

    「本物の人間になりたいのなら人を殺してはいけないわ」というカノンの命令は、
    「殺せ!」という光クラブの命令と真っ向からぶつかります。ふたつの命令によってライチは引き裂かれてしまいます。

    カノンの命令を至上の命令として受け取ったライチは、死ぬ間際に「わたし、殺した、沢山殺した、だからもう、人間には、なれない」とカノンに言います。

    カノンは答えます。

      「いいえ、違うわ。ライチは人間だわ。本物の人間だわ。」
      「そうよライチは人間になったわ。素敵よ・・・とてもかっこいいわ」

    すでに書いたように「人間なら人間を殺してはいけない」は、問うことを許されない、無条件に従わなければならない命令です。人間を超えるものの世界から下されたような命令です。人間が人間であるための永遠の基準=カノンです。ライチはそういうものとしてカノンの命令を受け取り、守ろうとしました。

    その命令を破って殺してしまったライチにカノンは「本物の人間だわ」と伝えます。

    これが単なるライチへの「慰め」であるとは思えません。ライチは心からそのことばに納得したからこそ、カノンから「そういうのは簡単に使っちゃいけない言葉なのよ」と諭された「キレイ」「ずっと一緒にいたい」ということばをもう一度、とぎれとぎれに言いながら死んでゆくのです。

    であれば、カノンが言う「本物の人間」は、上に書いた「人間が人間であるための基準を守った人間」とは意味が違うはずです。ライチは本人が認めているように「沢山殺した」のですから。では、その「本物の人間」とは何でしょう?



    「素敵よ・・・とてもかっこいいわ」がそれを解く鍵だと思います。

    私たち読者の多くも、ライチの「かっこよさ」に納得するのではないでしょうか。
    ライチは「殺してはいけない」という「人間の基準」を守れませんでした。「殺せ」という指令を受けたから。でも、矛盾する命令の中でライチはのたうちまわります。

    そして「ライチ思い出して。ライチは人間でしょ」と微笑むカノンを水に沈めたあと、切れ切れに叫びながらもがき苦しみます。

    ライチが苦しんだのは、愛するカノンを「いつまでも守りたい」から。
    矛盾に引き裂かれたその苦しみを、カノンは「素敵よ・・・とてもかっこいいわ」と言っているのではないでしょうか。

    「殺してはならない」というような、人間であるために無条件に従わなければならない命令がこの世にはあります(その数はとても少ないと思いますが)。でも、置かれた状況によってそれを守れないこともあります。どうしようもない矛盾です。その矛盾を引き受けて苦しみ続けること、それが「本物の人間」である証(あかし)だ。

    カノンがライチに伝えたのはそういうことではないでしょうか。





    自分が醜い大人に変わっていくことを拒絶し、ライチという力を使って大人の世界を壊そうとした光クラブの少年たちは、「主人公でありたい」という自我の世界の夢に生きようとしました。その夢は叶えられることなく、少年たちは死んでいきます。

    彼らの夢をいちばんはっきりした形で示すゼラにとって、「純粋さ」「首尾一貫性」「変わらないこと」がもっとも価値あるものでした。大人の「醜さ」はその反対。「不純」で「矛盾して」「変わる」。

    しかし、最後にライチが示した「かっこよさ」は、少年たちが唾棄すべきものと考えていた不純や矛盾や複雑さです。それに苦しむことです。「唾棄すべきもの」として否定することではなくて。言い換えると、「本物の人間」になるには「美しい自我の世界」の外に出なければならないのです。それが「大人になる」ということではないでしょうか。

    (わたしは「それはルネサンスの『調和と均衡』からバロックの『不均衡と動き』への跳躍だ」とつけ加えたい誘惑に駆られます。ルネサンスの「調和と均衡」が少年の自我の世界だというのはさすがに強引なのでやめることにしますが)





    闇の秘密基地に鳴り響く「ピー、ピー、ピー」という笛の音。詰め襟の学生服姿で侵入者を追う光クラブの少年たち。

    冒頭からその魅力に引き込まれたわたしたち読者は、捕まえられた女教師を殺す側の少年たちに感情移入させられます。

    縛めを受けて裸にされた女教師へのゼラの侮蔑の言葉

      「諸君この体を見たまえ。なんて醜い・・・吐き気がする・・・
      この大きく肥大した脂肪の塊、真っ赤に塗りたくられた唇!
      欲情したメスブタの証だ。〈中略〉そう この女こそ怪物だ!」

    に読者は思わず「そうだ!」と思ってしまいます(と思う)。
    女教師が醜いと思ってしまう(と思う)。
    何しろフィクションの世界だから。でもそれだけではない。
    「その2」で書いたように、私たちの中にもかつてゼラがいたからです。
    それが光クラブの魅力になっている。



    でも距離を持って読み返すと、この女教師なかなかりっぱです。上の侮蔑の言葉に「あっ、あなたたちだってこうやって大人になっていくのよ!!」と答える。殺される間際まで「教育者」であることをやめていない。

    最後に便器で内臓をえぐり出されたゼラはつぶやきます。
      
      「これでは・・・あの女教師と同じじゃないか・・・」

    美しい「少年の自我」は終わる運命にあります。人は大人にならなければなりません。
    そしてそれは光クラブの少年たちが考えたように「醜くなること」とは限らない。ライチのように矛盾に引き裂かれた「かっこよさ」だってあり得るのです。



    『ライチ光クラブ』は、「本物の人間」になるための「美しい自我の世界」へのさよならです。


    しかし勘違いしてはいけないのは。
    そのさよならが「少年たち、未熟だったね」という別れでは決してないことです。

    『ライチ光クラブ』は、「少年の自我の世界」の狭さを断罪していません。
    それが少年にとって、もっとも愛おしく美しい世界であることを徹底的に描いています。

    だからそのお別れは、つらいお別れです。



    秘密基地から去るカノンは再び「怒りの日」の鎮魂歌を歌います。

      「伏して願い奉る
      灰のごとく砕かれし心も わが終わりの時をはからい給え。

      涙の日なりその日こそ灰からよみがえらん時。
      人罪ありて暴れるべき者なれば
      願わくば神よ それを哀れみ給え」

    「願わくば神よ それを哀れみ給え」のリフレインとともに、水中で漂う光クラブの少年たちの屍が両開きのページで描かれます。

    かつてカノンはライチに
     
      「これは鎮魂歌と言って死者の魂を慰める歌よ。
      この曲が悲しいのは、死んだ人が殺されてとても悲しんでいるからなの」

    と言いました。

    カノンの最後の鎮魂歌は、ライチの死だけではなく、少年たちの「美しい自我の世界」の死への鎮魂歌です。その死を「とても悲しんでいる」カノンの鎮魂の歌です。


    それは同時に『ライチ光クラブ』全体の、「美しい少年の自我」への悲しい鎮魂歌、つらいお別れになっているのです。



    「さようなら・・・ライチ、光クラブ」という、最後のページのカノンのお別れがそれを締めくくります。

    (完)

    2014年1月12日日曜日

    『ライチ光クラブ』の少年の世界——古屋兎丸論 その2

    「古屋兎丸論 その1」の続きです。ネタバレ全開)

    1 古屋兎丸の「さよなら」


    古屋兎丸(ふるやうさまる)は「お別れをしている人」だと思います。

    自分がいちばん大切だと思っているもの、いちばん美しいと思っているもの、これだけは人にゆずれないと思っているもの。そういうものにお別れをしています。

    これはつらいことです。力を振りしぼらないとできません。

    そうまでしてなぜさよならを言わなければいけないのか?

    自分にとって大切なもの、美しいもの、人にゆずれないものが、
    実は自分を拘束し、狭い世界に閉じ込めているのかもしれない。
    自分がそういう拘束から解き放たれ、自由になるためにはさよならを言わなければならない。

    古屋兎丸はそういうつらい決意をしています。だから古屋兎丸の「さよなら」はいつも美しい。



    『ライチ光クラブ』(2006年)は「美しい少年時代」へのお別れです。

    原作は東京グランギニョルの演劇(1985-86年上演)。
    古屋兎丸は高校生の時にこの上演を見て衝撃を受け、20年の熟成ののちに満を持して漫画化したそうです。忠実な漫画化ではなく、かなり改変した部分もある。

    残念ながら、東京グランギニョルの舞台をわたしは見ていません。
    プロットとそれを構成する基本要素を創り上げた東京グランギニョルには大いに敬意を表したいと思いますが、以下は、古屋兎丸の漫画作品としての『ライチ光クラブ』だけを対象にしています言わば、「東京グランギニョルの舞台を引用したひとつの独立した作品」として、漫画『ライチ光クラブ』を読むことにします。

    また、この作品のあと、古屋兎丸は前日談である『ぼくらのひかりクラブ』を書いていますが、参照程度にとどめてあくまで『ライチ光クラブ』に焦点を絞ります。)



    『ライチ光クラブ』には、過激な残虐シーン(これは東京グランギニョルを踏襲しているらしい)とつつましやかなBLシーン(これは古屋兎丸の改変らしい)があるので、そういうのがどうしても苦手な方は読むのをやめた方がいい(でも傑作です)。

    プロットの大枠は、

    廃工場を秘密基地にする、天才少年ゼラを中心にした9人の男子中学生の「光クラブ」の野望と裏切りの物語。少年たちは、果実ライチをエネルギー源とする人造人間ライチを造り出し、少女たちを誘拐させて幽閉する。ライチが美少女カノンを誘拐したことを機に光クラブの団結にヒビが入り始め、愛憎と暴力のドラマが展開する。

    というものです。



    「光クラブ」のメンバーをごく簡単に紹介します(ゼラ以外にはドイツ語のナンバーがついているので書きました。単行本表紙にあるそれぞれのキャッチフレーズも)。

    ゼラ      「廃墟の帝王」。実質上のリーダー。眼鏡をかけた天才少年。クラブに
            鉄の規律を課す。人造人間ライチ製造の中心人物。
    タミヤ(6番) 「真実の弾丸」。「光クラブ」の生みの親で、現在は名目上のリーダ
            ー
    ジャイボ(8番)「漆黒の薔薇」。ゼラを同性愛的に愛している美少年。
    ニコ(1番)  「忠誠の騎士」。ゼラに徹底的に忠誠をつくす。その忠誠心は自分の右
            目をライチの目としてさしだすほど強い。
    雷蔵(2番)  「暗闇の乙女」。仕草や言葉づかいが女っぽい。
    カネダ(3番) 「鬱屈の瞳」。幼馴染みであるタミヤ、ダフとともに「光クラブ」の創
            設期からのメンバー。
    ダフ(5番)  「夢見る眼帯」。つねに眼帯をしている暗い少年。幼馴染みであるタミ
            ヤ、カネダとともに「光クラブ」の創設期からのメンバー。
    デンタク(4番)「科学少年」。丸眼鏡をかけた機械オタク。その名は電卓に由来する。
    ヤコブ(7番) 「地下室の道化師」。メンバーの中でいちばん影が薄い。


    薄暗い秘密基地に、詰め襟の学生服姿で集結する「光クラブ」の少年たち。
    ゼラの美意識に忠誠をつくすメンバーは暴力・殺人をいとわない。
    ゼラと美少年ジャイボの薔薇愛。

    こういう「いけない世界」の魅力が、古屋作品のうちでもっともコアなファンを惹きつけている要素なのでしょう。バロックの魅力です。
    しかし古屋兎丸は——もっと正確に言うと、『ライチ光クラブ』の作品構造全体は——
    そういう世界にお別れをしている。「さよなら」がこの作品の中核。
    そのお別れをていねいに見ていきたいと思います。




    本人が言っているように、この作品のテーマは「少年」です。
    それもローティーンの少年。

    「ローティーンの少年」というのは現代の芸術表現において大きなテーマのひとつだと思います。

    自我が芽生えはじめる。
    すると大人の「社会」が自分とは異質なものとして見え始める。
    少年は、それに対して反発したり、あるいは無価値なものとして無視したりする。
    (光クラブの少年たちは後者を選択しているようです)。

    また、ローティーンは第2次性徴をむかえる時期でもあります。
    自分の中に「性」という、これまでなかった異質なものが存在しはじめる。
    「変わりつつある自分」をどう理解したらいいのか。そして欲望の対象となりつつある「女性」をどう理解したらいいのか。そういう惑いにおそわれる年代です。


    わたしは女性でないのでよく理解できないのですが、同じような経験をしているはずのローティーンの少女は、少年と較べてそういう惑いや当惑の度合いが低い気がします。言い換えると、少年よりうまく乗り越えている気がする。

    「生理が少女に与えるインパクトを甘く見るんじゃない」とおっしゃる女性がいるかもしれません。しかし少女の場合、第二次性徴と欲望が直結する度合いが少年より低いんじゃないかと想像します。少女にも欲望はわき起こると思いますが、体の変化と欲望のつながりの度合いが少年ほどストレートではないような気がします。

    ちがっていたら教えてください。

    ともかく、「社会・欲望・他者(女性)」という「自分にとって異質なもの」にはじめて直面させられるのがローティーンの少年です。

    だからでしょう、「ローティーンの少年」は、「社会と欲望と他者」という人間にとって根源的な問題を極端に示す題材としていろんな作家に取りあげられています。

    S・キング(小尾芙佐訳)『IT』
    全4巻 文春文庫
    楳図かずおは『14歳』という長編を書いていますし、
    海を隔てたアメリカでは、
    レイ・ブラッドベリが『何かが道をやってくる』を、
    スティーヴン・キングが『スタンドバイミー』、それをさらに展開した『IT』を書いています。

    いずれもホラーなのが興味深い。
    少年が直面させられる「社会と欲望と他者」は、できあがりつつある「自我」にとって、ある意味で「恐ろしい怪物」みたいなものなんですね。



    昔はローティーンの少年は文学の題材になっていない。たとえば古代ギリシアにはたぶんない。

    おそらく、近代以前にはローティーンの悩みをうまく吸収する社会の仕組みが働いていたからだと思います。社会に共有されていた物語(神話)や、祭儀などの集団行動を通じて、大人たちが上手に悩みを乗り越えさせた。

    現代にはその悩みを吸収する仕組みがなくなっている。
    少年は大人に道筋を示されることなく、徒手空拳で「社会」「欲望」「他者」という得体の知れない怪物に向き合わなくてはならなくなっています。

    だからとんでもなく間違った方向に進んじゃうこともあり得る。あやうい。
    古屋兎丸はそんなあやういローティーンの少年の世界をどんな風に描いたか?



    2『ライチ光クラブ』の「自我の世界」



    『ライチ光クラブ』の「少年の世界」を理解するには、まず、古屋兎丸のファンとしてではなく、部外者としてこの漫画のストーリーにつっこみを入れてみることから始めるのがいいんじゃないかと思います。

    (つっこみ1)
    冒頭、秘密基地をのぞいてしまったために、社会科の女教師が内臓を引きずり出されて殺される。この先生の失踪がどうして学校で問題にされず、警察が動き出さないのか。

    (つっこみ2)
    光クラブの少年たちは家に帰って食事をして、朝起きて通学しているはずなのに、家庭生活がいっさい描かれない(家族が唯一登場するのは、タミヤの陵辱される妹タマコだけ)。この子たちの親はどうなっているんだ。血だらけの学生服を不審に思わないのか。

    このようなつっこみは、リアルな物語であることを最初から放棄しているこの作品に対してそもそも見当違いなつっこみなんですけど、『ライチ光クラブ』の本質に触れていると思います。


    ここには社会と家族がない
    正確に言うと、あるにはあるのだが、それが意味あるものとしては存在していない。

    光クラブが通う中学校は「螢光町(けいこうちょう)」という工場町にあります。
    たとえば大田区蒲田のような、小さいけれど高い技術を持った下町のいきいきとした工場町ではない。巨大な工場が建ち並ぶ海辺の工業地帯です。

    背景としてのこの町は、

    ゴウン、ゴウン、ゴウン

    という機械の音が響く、無機質な薄暗い街として何度か描かれます。
    ただ一度だけ描かれる街の人たちの姿は、工場に向かう無表情な人の群れ。

    希望のない、経済的にあまり豊かでない町。
    その名のとおり、生気のない「螢(ホタル)の光」のような町です。
    少年たちの親はおそらく工場に勤めている(テキストにはこのことへの言及がありません。『ぼくらのひかりクラブ』では案の定、工場に勤めていることになってます)。


    自我が確立しはじめた少年にとって、
    この工場町の「社会」も、そこに住む「大人の世界」も、意味あるものとはとても思えない。自分とは異質な、唾棄すべき醜い存在でしかない。
    化粧の濃い社会科の女教師は、その内臓の醜さが象徴するように「醜い」大人です。

    ゼラはライチ起動前に演説をします。

      「螢光町!! 黒い油と黒い煙に覆われた老いた街!! 疲れきった醜い大人たち!!
      我々は否定する!! あの醜い生き物たち”大人”を否定する!!
      我々光クラブこそ螢光町に灯る希望の光だ」

    工場町と海辺のあいだに三年をかけて育て上げた「ライチの森」は、螢光町の希望のない風景を変えたいというゼラの欲望の産物です。ライチの果実を人造人間の燃料にしたのも、重油で動く「大人たちの機械」とはまったく異なる機械を造りだしたかったからです。ゼラは言います。
     
      「ぼくたちのかわいい機械(マシン)に油なんか飲ませられない そうだろ?」



    『ライチ光クラブ』が描くのは「少年の自我」の世界。

    自我とは「自分が主人公である」という意識です
    主人公である「自分」は世界をコントロールしていなければならない。社会や家族という自分の「外側」の世界は、否定されるべきもの、あるいは自分に従属すべきものです。

    『ライチ光クラブ』に社会と家族が希薄なのは当然です。

    社会と家族の本質は「お前は主人公ではない」と言ってくることなのですから。


    ゼラの自我は異様に肥大しています。
    でもゼラは決してわたしたちに無縁なエイリアンではない。

    わたしたちはみんな、「自分は主人公のはずだ」という思いと「お前は主人公なんかじゃない」と言ってくる家族や社会との葛藤を、それぞれのやり方でくぐり抜けて大人になってきたはずです。ローティーンの頃、社会や家族がいやでいやでしょうがなかった経験は、多かれ少なかれ誰にでもあったのではないでしょうか。

    わたしたちの中にもかつてゼラがいたのです。


    光クラブの少年たちはみんな「自分が主人公だ」という思いを抱いている。
    しかしゼラだけがその思いを極限まで押し進めます。徹底している。

    実を言うと、すぐれた物語の主人公は葛藤や矛盾を抱えているものです。
    しかし「自我の物語」の主人公ゼラは、自分にも外側の世界にも葛藤や矛盾を許すことができない。自分が純粋でなければ、不純な外側の世界を否定することはできません。「純粋さ」「矛盾のなさ」こそが自我の自我たるゆえんなのです。

    だからゼラは鉄の規律を課す。ルールは葛藤や矛盾を排除するものです。たとえば、大人になることを拒否している少年たちは、学生服の詰め襟をきちんと留めていなければ(「中学生らしく」なければ)ならない、というように。



    葛藤や矛盾を排除するもうひとつのものが「論理」です。

    実を言うと、「主人公」ということばと同じように、ほんとうの論理は葛藤や矛盾を排除しないものです。それどころか、葛藤や矛盾を取り込むことによって論理はより高度な論理になってゆく。ことばを替えると、論理は変化してゆくものです(科学の論理の進歩を見ればわかりますね)。

    しかし、少年にとって論理は、不変不動の明晰性としてあらわれる。矛盾をはらまない、あるべき自我を具現するような明晰性です。

    そういう「不変不動の論理」を具現するものがチェスです。ゲームの論理。


    ゼラが光クラブの事実上のリーダーになったのは、チェスの力によってです。
    小学校時代に光クラブをつくったのはタミヤくん。現在は名目上のリーダー。最初のメンバーはタミヤ、カネダ、ダフの仲良し3人組でした。
    そこそこチェスが強いタミヤくんは、しかしチェスの天才ゼラに負けたことによってリーダーシップを奪われてしまいました。

    ゼラにとって「論理」の力は純粋さの証(あかし)です。彼は、チェスの手を読むように、進行する愛憎と暴力のドラマを徹底的にゲームの論理で読み抜こうとします。結果としてその論理の読みは外れてしまうのですが、それは当然のことと言えます。

    なぜなら。
    チェスの動きにはチェスの論理以外のものは介入してきません。
    でも、もし人間関係を読み解く論理を持とうと思うなら、読み解こうとする人間は、「自分のゲームの論理」の外側にある要素(他者)を考慮に入れて「自分のゲームの論理」そのものをつねに改変してゆかなければなりません。
    人間関係とは、たとえて言えば、自分はチェスをしようと思っているのに、相手が将棋のルールで動いたり、ひょっとしたら、チェス盤をひっくり返して日本刀や機関銃を持ち出すこともある、そういうものです。「不変不動の論理」に固執していたら対処できない。

    ゼラの「論理」は美しく一貫しているかもしれないが、動きと変化のない「論理」です。固い殻に覆われたライチの実のように。だから他者の動きに対応できないのです。



    ゼラは自分を悪名高いローマ皇帝ヘリオガバルス(エラガバルス)になぞらえます。
    自分を太陽神と化し、薔薇の花による窒息死の処刑をおこない、性転換手術すら望んで、18歳で殺されたヘリオガバルスに。
    ヘリオガバルスは(史実そのものではないにしろ、その伝記作者たちの目に写ったかぎりでは)「わたしが主人公だ」という思いを権力を通じて実現しようとした人物です。

    (ヘリオガバルスについてはとりあえずアントナン・アルトー『ヘリオガバルス――または戴冠せるアナーキスト』多田智満子訳、白水社を読んで下さい。

    「薔薇の処刑」についてはサー・ローレンス・アルマ・タデマの有名な絵「ヘリオガバルスの薔薇」をご参考に。美しい絵です。この処刑方法に古屋兎丸は改変を加えていますが、その改変はけっこう意味があるとわたしは思っています。後述)
    アルマ・タデマ『ヘリオガバルスの薔薇』
    ヘリオガバルスは、天蓋に満載した薔薇の花を落として
    窒息死させたとされています。

    少年たちがゼラに惹かれるのは、ゼラに以上のような徹底性があるからです。

    ぼくもゼラみたいに徹底的に主人公になりたい。そうすることによって社会や大人を否定しつくしたい。

    それが彼らの思いです。ゼラにとって自分が「1番(アインツ)」であると自負するニコは、自分の目を潰してライチに捧げてしまうほどゼラへの忠誠心を示します。

    しかし光クラブの団結は崩壊を運命づけられています。
    そもそも「主人公」は一人でなければならないものだからです。

    光クラブにライチと美少女カノンという触媒が投げ込まれたとき、崩壊の歯車が動き出します。




    3 人造人間ライチ


    「わたしが主人公だ」という光クラブの「少年の自我」は、醜い大人の社会を否定しようとします。

    ゼラにとって、自我の世界が完成するためには二つのものが必要です。
    自我を完成するための「力」と、主人公である自分の価値を証明する「美」です。

    「力」は「ぼくたちの夢の機械(マシン)」ライチ。
    「美」はライチが捕獲した美少女カノン。

    ライチが起動して立ち上がったとき、少年たちは「でかい・・・」と感嘆の声を上げます。
    ぼくたちが手に入れた「力」はなんて大きいんだ!
    少年たちはそれぞれが主人公になるための力を手に入れたのです。


    ライチ起動の前夜、ゼラは予言します。

      「しかしこの中に僕を裏切る者がいる・・・。それが誰かまではわからない。
      機械(マシン)の誕生で我々は破滅への道を進むのか?」

    ゼラの予言は超能力によるものではありません。論理的必然です。

    光クラブのメンバーは「主人公になりたい」という思いから、卓抜した能力と強烈な意志を持つゼラに従っている。ゼラは少年たちの自己実現の夢を見させてくれる存在です。

    光クラブがライチという力を手に入れたとき、少年たちはその力を使って「主人公になる夢」を実現させようとしはじめるだろう。
    しかし主人公は一人でなければならない(そうでなければ「主人公」とは呼べないからです)。だからライチが起動したとき、現在の主人公=皇帝ヘリオガバルスである自分を追い落とそうとする者がかならずあらわれる。

    「それが誰かまではわからない」が、その裏切り者が「主人公でありたい」という思いを強く抱く人間であるのはまちがいない。

    光クラブの崩壊を予言するゼラの言葉は、そういう論理的な必然を伝えています。しかしゼラは、上で書いたとおり、チェスの手を読むように、自分が裏切り者を見破って手を打てると考えています。「破滅」はまだ疑問文でしかありません(「我々は破滅への道を進むのか?」)。



    ゼラの予言の場面は、『新約聖書』に描かれるイエスと十二弟子たちの「最後の晩餐」を思い起こさせます。皆さんよくご存じの、レオナルド・ダ・ビンチの絵の題材になった晩餐です。

      そして彼らが食卓について、食べていると、イエスが言った、「アメーン、あなた方
      に言う、あなた方の一人で、私と一緒に食べている者が、私を引き渡すであろう。」
      彼らは思い悩んで、一人ずつ順にイエスに、私ではないでしょうね、と言いはじめ
      た。
       (「マルコ福音書」14章 18-19節。田川建三訳著『新約聖書——訳と註1』作品
         2008)

    晩餐の席で、イエスは弟子たちに葡萄酒を渡して飲ませ、これは「多くの人々のために流されるわたしの契約の血である」と宣言します(パンが「わたしの肉」であるとも言ったのですが、それは置いておきます)。ゼラも自分の血を混ぜたライチ酒を光クラブに飲ませ、「ぼくの血を分けた諸君はもはや私の一部と言ってもいい」と宣言します。

     (ところで、田川建三は註で、イエスのことばの「引き渡す」は「裏切り」までを意味しないことを、原文テキストからていねいに説明しています。官憲に「引き渡す」ことが実質的に裏切り行為であるから、あとの時代にユダが「裏切り者」と言われるようになったわけです。ちなみに、現在教会で用いられている新共同訳では「わたしを裏切ろうとしている」になっています。しかしここでのわたしの関心は、流布している「裏切り者ユダ」像を古屋兎丸がストーリーにどう利用しているかですから、これ以上深入りしないことにします。)

    以後、ストーリーは、「少年の自我の救い主」ゼラを裏切る「ユダ」は誰か? という形で進行していきます。



    しかし『ライチ光クラブ』のストーリーを織りなす糸は一本線ではありません。「裏切り者ユダ」の物語だけでなく、さまざまな既存の物語の糸を自在に操りながら、古屋兎丸は「少年の自我」の物語の織物を、複雑に豊かに織り上げていきます。前回「その1」で書いた、バロックの批評的引用をしているわけです。



    メアリ・シェリー(森下弓子訳)
    『フランケンシュタイン』
    創元推理文庫
    もう一本の糸はもちろんフランケンシュタインの怪物に代表される「人間の制御が効かなくなった人造人間」の物語。

    『フランケンシュタイン』は、メアリ・シェリーが1818年に匿名で出版した小説で、何度か映像化されています。
    フランケンシュタインに創られた、人間の心を持つ怪物が、復讐のために創造主フランケンシュタインの友人と家族を殺してゆく。

    ライチも、電卓の指令に従うようにプログラムされたロボットでありながら、美少女カノンとの愛の中で次第に人間の心を持ちはじめ、光クラブの少年たちを殺戮します。

    古屋兎丸は、人造人間の系譜をきちんと受け継ぎ、ライチを通じて「人間とは何か」の古屋兎丸なりの答えを出そうとしています。(この点については「その3」で触れます)





    4 美少女カノン


    光クラブの「力」ライチをざっと眺めたところで、

    今度は「美」である美少女カノンを見てみましょう。

    ゼラがライチを使って捕獲しようとしている少女は、性の欲望の対象ではありません。
    それを所有することによって自分の価値が証明される究極の「美」です。


    しかし、少年たち(の一部)にとって、ライチの少女捕獲は、自分たちの中でまだはっきりした形になっていない思春期の欲望の実現です。

    「夢見る眼帯」少年ダフの欲望の記憶は、通りがかりの女子中学生たち。

     「おい見ろよ! 女・・・女だ!!」

    下校途中の螢光中男子生徒たちの視線に、(他校の)女子生徒たちは

     「やだ気持ち悪い!!」
     「ジーッと見てるよ・・・」
     「螢光中の男とだけは関わるなってママが言ってた・・・」

    と逃げ去る。

    ダフは女子生徒たちの拒絶に耐えきれずに暗い表情で走り去ります。少女は、螢光町の貧しい世界に住んでいる自分の惨めさを思い知らせる、手の届かないあこがれです。

    ライチが少女捕獲に出発したとき、ヤコブとダフは顔を赤らめながら少女への憧れを語ります。

     ヤコブ「なあ女の子ってどんな匂いなのかな?」
     ダフ「ぼ、僕はあんずの匂いだとお、思う」

    ダフの「あんずの匂い」にわたしは少し切なくなります。昭和の香りのする少年期のうぶで純な欲望です。



    しかし欲望は、矛盾のない澄みきった自己像を貫徹しようとするゼラにとっては、やっかいで邪魔なものでしかありません。幸いなことに彼にはジャイボがいる。

    二人の欲望の場面は、厳密に言うと「同性愛」ではないと思います。
    ゼラは仰向けの怠惰な姿勢で、美少年ジャイボの口唇愛で性欲を「処理」する。
    ジャイボは道具にすぎません。

    ジャイボの方は、自分の美しさと奉仕の姿勢でゼラの愛を勝ち得ようと願っています。
    報われない、いちずな片想いです。

    ゼラにとって「美」が重要であることをジャイボは知っている。
    光クラブのなかでもっとも美しい自分こそ、ゼラにとって「1番(「アインツ」)」であるはず(実際に「アインツ」と呼ばれるのは、性愛なしにゼラに忠誠を貫こうとするニコなんですが)。

    しかしジャイボは、ゼラの求める「美」が生身の美しさではなく、イデア(理念)としての「美」であることがわかりません。わからないから美少女カノンが捕獲されてきたときゼラは嫉妬する。その嫉妬が破滅をもたらすことになります。


    ジャイボが「裏切り者ユダ」であることは、『マルコ福音書』の強烈なひねりによって暗示されます。ユダは、イエスに「口づけ」することを合図にして、祭司長たちにイエスを引き渡します。ジャイボのゼラへの口唇愛は、おそらく裏切り者ユダの口づけの変奏ではないかとわたしは思っています。


    少年たちにとって美少女カノンは「美のイデア」「欲望の対象」「嫉妬の対象」とさまざまです。ゼラは、睡眠薬で眠るカノンの体の世話を、(今のことばなら「性同一性障害者」である)雷蔵だけに許可し、他の者が触れることを禁じます。カノンは美のイデアでなければならないのです。

      「絶対に触れることは許されない」
      「ましてや性的な欲望の対象として見ることも決して許されない」
      「我々光クラブに美の女神が降臨したのだ!!」


    しかしダフにとってカノンは生身の存在です。手の届かない憧れの「女の子」が、ライチの力によって目の前にやってきた。ダフはひそかに彼女の体を触り、自慰行為におよびます。その行為から光クラブの実質的な崩壊がはじまります。




    では当のカノンは何者か?

    光クラブの登場人物でもっとも強烈な存在感を放つのがゼラであることに異論はないでしょう(ファンの人気投票ではジャイボがダントツの一位であるそうですが)。でも、ゼラはこれまで見てきたように「少年の自我」の主人公として一貫していて矛盾がない。ある意味でわかりやすい。

    美少女カノンには、ゼラと対照的な多面性があります(その点で、後述するタミヤと共通しています)。

    生身であると同時に、睡眠薬で眠る人形です。

    さらに、目覚めたときにも三つの姿をあらわします。

    ひとつ目は、世間知らずの天然ボケした「童女」。
     
      「わあ、大きいのねライチ。なんだかライチは機械のように見えるわ」
      「ずるいわライチ。わたしは難しいことわからないもの!」

    その反対に、人間や世界の複雑さを知っていてそれを当たり前のように受け入れる「大人の知恵」の持ち主でもあります。「ませた少女」。

      「言葉をそのままとらえるなんてライチって子供ね!」

      ライチ「[カノンのことを]キレイだと思った。一緒にいたいと思った。」
       〈中略〉
      カノン「だめよ。そういうのは簡単に使っちゃいけない言葉なのよ。
        本当に胸の奥がぎゅうってなって
        この人を死ぬまで守りたいって思ったとき使う言葉よ。わかった?」
      ライチ「わかった」

      カノン「今夜も隣で眠らせて」
      ライチ「わかった」
      カノン「そういう時は優しく『おいで』って言うの!」
      ライチ「おいで・・・・」

    このように、「ませた少女カノン」は、ライチに「楽しい」「悲しい」といった感情、「美味しい」という感覚、オルガンの演奏などを教える「教師」です。

    そして「命令者」。
    彼女がライチに下す命令はただひとつです。

      「本当の人間になりたいのなら人を殺してはいけないわ」

    これは「教育」とは性質が違うと思います。
    ライチへの教育にはカノンなりの説明があります。でも「人を殺してはいけない」には説明がありません。どうあろうとも、どんな人間も、理由を問うことなく守らなければならない命令です。無条件に従うことを人間に求める命令です。そういう意味で、人間を超える世界からの命令だと言ってよい。「命令者」カノンは言葉を換えれば「女神」カノンです。殺される少年たちに慈愛を示す女神(「観音」)であると同時に、「人を殺してはいけない」という厳かで揺るぎない命令(人間が人間であるための唯一の基準=カノン)を具現する女神。

    つけ加えれば、ゼラにとっては永遠の「美の女神」=基準(カノン)。おなじ「女神」でもずいぶん意味が違いますね。



    最初、ライチは人形やおばさんやおじさんを拉致してきます。ライチには「美少女」がわからない。少年たちは西洋の美人画を見せたりしながら「美」を教育しようと苦労するのですがうまくいきません。デンタクが「お前は人間だ」とインプットしたとき、ライチはカノンを誘拐してきます。


    人間だけが美をわかる。
    もちろんゼラはそのことを知っています。
    ゼラが求めるのは「美のイデア」です。だから、生身のカノンを「本物より美しい鉄製少女」に改造しようとする。カノンから「あなた最低ね!」という第一声を浴びせられたとき、ゼラは「生きている少女はやはり幻滅するものだな」と言うのです。

    しかしライチが理解した「美」は、ゼラが求める美のイデアではありませんでした。

    ライチは「私がカノンを選んだ」とカノンに言います。「どうして私だったの?」と問われたライチは、先ほど引用したように「キレイだと思った。一緒にいたいと思った」と答えます。ライチの「キレイ」は、カノンに言わせれば「簡単に使っちゃいけない言葉」、本当に胸の奥がぎゅうってなってこの人を死ぬまで守りたいって思ったとき使う言葉」です。それは美のイデアではなく、人間に対する「感情」なのです。

    ライチに美を教えあぐねているデンタクに向かって、タミヤはいみじくもこう言いました。

      「機械に美を教えるなんて無理な話さ!
      人間には感情があるからわかるんだよ!」

    この言葉が、デンタクが「わたしは人間だ」とプログラムする大きなヒントになったのは言うまでもありません。

    均衡のとれた「美のイデア」としてではなく、「童女」「ませた少女=教師」「人間を超えるものからの命令を伝える女神」の多面性を多面性のまま受け入れたとき、ほんとうの「キレイ」があらわれる。(バロック的美です)
    ライチはそのことを次第に理解していって、最後の最後にもう一度、今度は迷うことなく「キレイだと思った。一緒にいたいと思った」とカノンにつぶやきながら死んでいきます。美は「キレイ」だと思う感情、「本当に胸の奥がぎゅうってなってこの人を死ぬまで守りたいって思」う愛なのです。


    「主人公」である自分の価値を証明するはずのゼラの「美」が、カノンとライチの「愛」の感情に負けていく。それはそのまま、ゼラの「自我」の敗北の過程です。

    (完結編「その3」に続きます)