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2013年12月21日土曜日

神話の力——『おおかみこどもの雨と雪』


テレビで『おおかみこどもの雨と雪』をやっていて、 
思わず引き込まれてしまいました。 (ネタバレあり)

狼男との間に二人の子供を授かった花と、 
その子供たち(姉の雪と弟の雨)の物語。 

絵も美しかったけれど、 
「ああ、これは神話だ」 
と思いました。 


神話がなぜ力を持ち続けるのか。 


神話は距離です。 
昔々、私たちの世界と時と場所を隔てた物語。 
その距離が、生身の人生を照らし出す光になることがあります。 


生身の人生は直視するにはあまりに苦しい。 
神話を通じて、人間は直視できないものに目を向けて考えをめぐらすことができるようになります。 


「おおかみこども」の設定は一応現代日本の山ふところ。 
自動車があり小学校がある。 
でもそこに広がるのはまさしく神話の世界です。 


雨と雪はときおり狼になる。 
人間と狼のはざまの存在です。 


母親花は、子供たちを人間として育てようとする。 
人間の世界を象徴するのが小学校です。 

姉の雪は、人間として生きようとする。 
弟にもそれを求める。 
「学校に行かないとダメだよ!」と叱る。 

弟の雨は、小学校になじめず、次第次第に野性の世界に近づいてゆく。 

嵐の日に、 
「雨」は狼の世界、自然に戻っていく道を選択します。 
母は雨を追って引き戻そうとする。 

でも、狼の姿になって山に去って行く雨の、狼の遠吠えを聞いたとき、 
花は狼としての息子の選択を受け入れ、別れを告げます。 


これが神話であるのはなぜかというと。 
ああ、親子の関係ってみんな花と雨の関係なんだ、ということに思いいたるからです。 

親は子供を「学校に通わせたい」=自分が信じている秩序の世界に進ませたい 
と願う。 

しかし子供は本質的に「狼男」です。 
親が信じる秩序の世界をはみ出て、外に出て行こうとする。 

その別れの遠吠えを聞いて、花のようににっこり笑って祝福できるかどうか。 
親が親としての真価を問われるのはそういうときなんじゃないか。 

そういう意味で、これは「親子の神話」だと思いました。 



「おおかみこども」にはもうひとつの見事な神話があります。 

「愛」の神話。 

転校生の「そう君」は、雪に 
「お前、犬飼ってないか? 獣の匂いがする」 
と言います。 

そう君は雪に惹かれて追ってくるんだけど、 
傷ついた雪は逃げる。 

あげくに狼に変身してそう君を傷つけてしまう。 



嵐の晩、そう君と雪は、小学校に二人だけ残ってしまう。 

雪は母が雨を追って山に入っていたから迎えに来ない。 
そう君は、母親が新しい男と結婚して妊娠していて邪魔者になってるから迎えに来ない。 


そう君はそのことを雪に打ち明け、 
体を鍛えてボクサーかレスラーにでもなって生きていくさ、と笑う。 


雪は 
「わたしもそう君みたいに本当のことを言って笑っていられたい」 
と言ったあとで 
「あのときそう君に怪我をさせた狼はわたしなの」 
と狼の姿を見せて真実を告げます。 


そう君は 
「ずっとわかっていた。 
そのことを誰にも言わなかったし、これからも言わない」 
と言います。 
雪は「ありがとう」と言って涙をこぼす。 



ああ、愛ってこういうものなんだ、と思えてきます。 
人はときに愛する相手を望まないのに傷つける怪物になる。雪みたいに。 

愛する人が自分の受け入れ範囲をはるかに超える怪物=狼であること、しかし同時に100%狼ではないこと(雪は自分が狼になったことをずっと重荷として負っている) 
を受け入れる。相手の矛盾と葛藤をそのまま受け入れる。そして「わかっていたよ」と言えるかどうか。 

「わかっていたよ」と言われたときに「ありがとう」と言えるかどうか。 

愛が試されるのはそういうときなんじゃないかと思いました。 



そういう「親子」や「愛」のいちばんの本質を直視することは 
むずかしいしつらい。 

でも「おとぎ話」=「神話」には距離がある(現実の物語ではない)からこそ、 
直視することができる。 

だけじゃなくて、語ることができる。 
「ほら、『おおかみこどもの雨と雪』にこういうのがあったじゃない?」 
という風に。 

神話の力とはそういうものだと思います。 


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