断捨離のためにどんどこ読んでいるのですが書くのが追いつきません。
今回は3冊まとめて。
湊かなえ『リバース』(講談社文庫版 2017)
近藤史恵『サクリファイス』(新潮社 2007)
村上龍『五分後の世界』(幻冬舎文庫版 1997)
適当に並べたみたいですがわたしの中ではそれぞれに関連があります。
テレビドラマを先に見ました。
主人公深瀬和久を演じる藤原竜也の演技力に舌を巻きました。
戸田恵梨香、小池徹平など脇役たちもがんばっていた。
で、本を買って読んだ。
大学入学直後の主人公の深瀬はなかなか自己肯定ができない人間だったのだけれど、
明るく人を惹きつける広沢由樹に話しかけられてから次第に仲間ができていく。その仲良しの仲間たちで出かけた旅行先で広沢が事故死する。
深瀬はコーヒーを入れることにかけてはずっとこだわりを持ってきた。
就職後数年経って、近くのコーヒーショップで越智美穂子と知り合い、しだいに接近する。その美穂子のもとに「深瀬和久は人殺しだ」という告発文が届く。
深瀬は広沢の事故死がなんだったのかにあらためて直面させられ、
事故死の真相を探求していく。
ストーリーのあらましは以上です。
そのあらましを構築した湊かなえの原作があってこそのテレビドラマ。
まずその点で湊かなえを評価しなくてはならない。
その上であえて言うと。
ドラマは原作をはるかに超えていると思いました。
まずは越智美穂子の人物造形。
小説では越智美穂子がどういう人物であり、
主人公がなぜ彼女に惹かれたのかがイメージしにくい。
(根拠を挙げろと言われたら逐一原作のテクストから論証しますが、ま、ブログは論文ではないので省略)
その点で、戸田恵梨香演じる美穂子と、美穂子を造形するテレビのシナリオは見事だったと思います。
しかし原作の最大のデメリットは結末です。
(ここからほんとのネタバレですぞ)
最後の一行にかける小説というのがあります。
『リバース』もそう。
だけれども。
「これ、それほどの衝撃の一行かい?」
とわたしは思いました。
死んだ広沢の蜂蜜アレルギーを知らずに深瀬は蜂蜜入りのコーヒーを入れて広沢に持たせる。広沢はアレルギーが原因となって死ぬ。
湊かなえの結末は「ああ、僕自身が犯人だったんだ!」というものなんですが。
これ衝撃だろうか。
深瀬は広沢のアレルギーを知らなかったのです。
もちろん深瀬に責任はある。
あるけれども全面的な責任ではない。
テレビドラマはそこを深めていました。
「ああ、僕自身が犯人だったんだ!」とわかった後の深瀬、
そして大学時代の仲間たち、さらには死んだ広沢の家族にまでストーリーを拡大して救いを構築しています。
人間の罪と贖罪とは何かという深みがあります。
美穂子も小説よりはるかに複雑な人物像となっていました。
ということで『リバース』は廃棄。
自転車ロードレーサーの物語です。
自転車ロードレースはただ速さを競うだけの競技ではない。
スケートのパシュートのようにチームの勝利のために風を受けて走る選手の存在が欠かせない。そういう選手たちの犠牲(サクリファイス)の上に優勝選手の栄光はある。
最初の数十ページはそういう自転車ロードレースを紹介するという趣が強く、
「これは取材の小説だな」
と思ったのですが。
そのあとがすごい。
主人公が属すチームのスター選手が一癖も二癖もある。
かつて彼はチームメートに意図的に害を与えて引退に追い込んだ、そういう噂のある男。
そういう「性狷介」な彼の人物像が印象鮮明に描かれる。
最後のどんでん返しも見事。
いや、これは廃棄するわけにはいかない。
ないものねだりをするとすれば音か。
タイヤと路面の音。限界まで酷使される金属の音。
ロードレーサーの息づかい。
そういう自転車ロードレースならではの音がこの小説にはほとんどない。
ないものねだりをするとすれば音か。
タイヤと路面の音。限界まで酷使される金属の音。
ロードレーサーの息づかい。
そういう自転車ロードレースならではの音がこの小説にはほとんどない。
『リバース』と『サクリファイス』には興味深い共通点があります。
わたしは作者が男性であるか女性であるかにたいして関心はないのですが、
この2作を読んで「ああ、こういう視点はあまり男性にはないかもしれないな」
と感じました。
社会の中での自己肯定のあり方とでもいうのでしょうか。
『リバース』の主人公深瀬も『サクリファイス』の主人公白石も
「自分はスターなんかではない陰の存在だ」という自己認識の持ち主。
けれども深瀬は死んだ広沢によって、白石は性狷介なスター選手によって、
自分の価値にしだいしだいに気づいていく。
自己肯定は往々にして「おれはすごいんだ」を確認していくプロセスだと捉えられがちです。男性の場合はことさら。
しかし自分の価値って、自分自身が下す評価ではなくて、自分を注視している他者によってはじめてわかるものなんじゃないか。
それがこの2作に共通している。
少し虚を突かれ、同時に自分の経験からしてもそうだったのだと腑に落ちました。
どんな場所でも自分の技を磨いていく。それを誰かがかならず見ている。
「自己肯定は自分からではなく外からやってくるのだ」と言えばいいのでしょうか。
そう考えると開放感があります。
自分が自己の価値を「主張し他者に納得させてゆく」って苦しいしみっともない。
そうじゃなくて「自己肯定って外からやってくるんだよね」と考えると
自己防衛的なみっともない構えがなくなる気がします。
こういう感覚は男性からは出てきにくいと思う。
だって男はいまだに「闘う家長」というフィクションを演じたがっているのだから。
2作ともそれとは正反対の「自分の価値を肯定するあり方」を自然に提示しています。
ジョギングしていた中年男がパラレルワールドに飛ばされてしまう。
そこは日本なのだけれど戦場が日常である世界。
戦場に放り込まれた主人公は否応なしに戦い生き延びようとする。
ただごとではない執拗さで戦場が描写される。
その描写の意味については文庫版の渡部直巳の解説を読んでください。秀逸な解説です。
その上でつけ加えれば。
社会の中で与えられた自分の役割を淡々と演じる。
それを村上龍が評価しているのがよくわかります。
その役割は経済的な役割とは限らない。
戦場のプロとしてひたすら兵士たらんとする男たち。
そういう人たちを肯定する姿勢は「カンブリア宮殿」での村上龍と共通している。
だけれども。
なんか窮屈だ、村上龍は。
社会的役割とは無縁な部分が人間にはあるんだし、そういう部分は社会的役割と同等か、ひょっとするとそれ以上の価値があるのかもしれない。
誰だったか忘れてしまったのですが、
「香港の街角でステテコみたいな姿でしゃがんでタバコを吸ってる爺さんがいる。
どうやって生活しているのかわからないのだけれど毎日そうやってしゃがみ込んでいる。
革命が起きたとしてもその翌日にやはり広場に座り込んでタバコを吸っているだろう。
そういう人がいちばん強いんじゃないか。」
そんなことを言ってた人がいました。
うん、そうだよねと思います。
村上龍にはそういうステテコ爺さんの要素が欠けている気がする。
しかし。
『リバース』と違って『五分後の世界』の最後の一行はすごい!!
廃棄するかどうか迷っています。
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