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2018年2月8日木曜日

断捨離読書日記 その2——村上龍vs.女子高生51人『夢見るころを過ぎれば』


選んだのは体積が大きいから。
断捨離するには文庫本は能率が悪い(文庫本も取り上げ続けるつもりですが)。

村上龍vs.女子高生51人『夢見るころを過ぎれば』(メディアファクトリー 1998)。
文字通り、女子高生51人へのインタビュー記録。
単独インタビューはなくて2~3人を相手にしている。

逐語録にほとんど手を加えていない。
だからかダラダラしているとも言えるが、女子高生たちと村上龍の会話の身体性がよく伝わってくる。

村上龍が書いているように、
「この本は親に危機感を持ってもらうためのものではない。女子高生の性はこんなに乱れているんですよ、こんなに親に嘘をついて遊び回っているんですよ、と暴露して危機感を煽るものではない」。
女子高生たちは多様。
退屈な子もいるし、いきいきとしてる子もいる。

No.5のゆう子さんがすごい。というか、ゆう子さんを含めた家族全員がすごい。
「お父さんは狼です」とゆう子さんは言う。
女を作って家に帰らず、でもゆう子さんも母親もそんな父親が嫌いではない。
父親が女とのあいだに作っちゃった子供も認めてしまう。
村上龍が
「なんかその物語に圧倒されてしまったね」
と言っているとおり圧巻。
ぶっ飛んでいるのだけれど、それがゆう子さん (と母親) の人間の奥深さになっている。


村上龍は女子高生たちの前で、ときに説教くさくときにスケベっぽくなる。
それは当然で、人は異性に対したときみっともなくなるものだから。
そんなみっともなさを顧みず、村上龍はことばを紡ぐ。
善戦したと思う。

「あとがき」に相当する「インタビューを終えて」は、ダ・ヴィンチ編集部の質問に答える形になっていてけっこうな分量がある。内容も濃い。

「彼女たちのコミュニケーションの在り方はもちろん日本社会のコミュニケーションの在り方の雛形だ」
そのとおり。
もし大人が若者たちに「おかしさ」を感じるとすれば、その「おかしさ」が大人の「おかしさ」を反映しているものだという認識とともに「おかしさ」を語るべきだ。

そして村上は上の「日本社会のコミュニケーションの在り方」が変容しつつあると感じており、その正体のわからない変容が女子高生たちのゆらぎに反映されていると感じている。
20年たった今、村上の直感の正しさは証明されたんじゃないだろうか。

そういうゆらぎからの展望は「どのような産業構造で経済活をしていくのか。どんな方法で外貨を得ていくのか。経済活動の延長線上にしかない」と村上は言う。
一見すると政治家みたいなこの言葉は、しかし村上龍の小説家としての世界観・人間観の根幹を垣間見させる。

村上龍は「経済活動」という言葉を補足説明している。
少し長いが引用すると、

「[経済活動という言葉は] 金儲けと誤解される恐れがある。日本では経済というとすなわち金儲けのことだからだ。経済活動の起源を、最初の人類が始めた採集した食料や獲物の自分の部族への『分配』、あるいは原始社会における『物々交換』として考えるとわかりやすい。
    [中略] 
それはモノの流れを作り出し、それを精神的なコミュニケーションに変えるということだ。モノ・貨幣・情報の流れを意図的に作り出し、それを精神の交感・交換の基盤とすること、それが経済活動であって、金儲けはその中に含まれるが、金儲けは閉じられた共同体内での閉じられた遊戯のようなものだ。
    [中略] 
子どもたちをどのような経済活動をする大人にしていくのか。それが展望であって、どのような自分になっていくのか大人たちがわかっていないときに、つまりどのような経済活動をしていくのか大人たちがわかっていないときに、子どもたちの将来と現在を考えることはできない。」


内田樹・岡田斗司夫『評価と贈与の経済学』の15年前に村上龍はこんなことを言っていたのだ。


経済活動の一部でしかない「金儲け」の分析の経済学から、人間の生き方としての経済学へ。マルセル・モースやK・ポランニーのような先人が開拓した道の先を村上龍たちは進んでいる気がする。それが「展望」につながる道であるようだ。



体積が大きいので本は手放しますが、
ゆう子さんたちへのインタビューと「インタビューを終えて」はコピーを取って残すことにしました。


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