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2014年5月2日金曜日

全体像が見えないという恐怖——諫山創『進撃の巨人』

勤務先近くの中華料理屋で、評判の諫山創『進撃の巨人』を11巻まで読みました。

この中華料理屋のファンです。
町の中華料理屋なんだけどふつうの「町の中華料理屋」よりちょっとだけ値段が高くて、でも値段の分だけ「適度に」味にこだわっている。
ちょっとくせのありそうな店主なんだけど小うるさくない。

壁にずらりと並んだ漫画のセレクションにも料理と同じように「適度」にこだわりが感じられます。『美味しんぼ』とかは置いてない。食事時に読むのはどうかと思うような
岩明均『寄生獣』だとか森恒二『自殺島』だとかが並べてあります。


で、『進撃の巨人』ですが。


近未来社会なんだろうか。
人間は幾重もの城壁に囲まれた世界に生きていて巨人の脅威にさらされている。
巨人は暴力的に人を襲い、食う。
壁の外に出て巨人と闘い、調査をする「調査兵団」の若者たちが主人公です。


もうちょっと画力があったらなあと思います。
個々の登場人物と巨人たちの描き分けが足りないからストーリー展開がすっきり頭に入りにくい。でも画力は次第につくものだからそんなに心配していない。



若い人たちになぜこの漫画が人気があるのかを考えてみました。
「恐怖感」と「友情」ですね。


この漫画のいちばんすぐれている点は恐怖の描き方だと思います。
巨人はもちろん恐い。
しかし、作品全体を貫くいちばん根底的な恐怖は「全体像が見えない恐怖」ではないかと思いました。


巨人がそもそもどういう存在なのかがわからない。
なぜ人間が壁に囲まれた生活をするようになったのか、その歴史がわからない。
次第次第に人間世界の中にも巨人が潜んでいることがわかってきます。
人間世界と巨人世界の境界線がはっきりしなくなってくる。

「世界の全体が見通せない恐怖」

この漫画はこれを描いているんだな、と思いました。
この恐怖感は若い世代に共有されているのだろうな、若い人たちはこういう感覚を世界に対して持っているんだろうな、だからこそ、この漫画は人気があるんだろうなと想像します。




唐突ですが。
今日の「アウト×デラックス!!」のゲストは養老孟司でした。
小学生の時に終戦を経験している世代です。

この辺の世代は数年の差がえらく大きな違いになっているらしいので迂闊なことは言えないのですが、あえて乱暴に言えば

価値観がひっくり返る経験をしている世代です。
だから基本的に懐疑主義です。
この世に確かなものなどない。それでも、確かなものなどない世界に生きていかなければならないのだから、「俺は世界全体をこう見るんだ」という世界観を自分の目と頭だけを武器に、それぞれ徒手空拳で作り上げている。養老孟司や、少し上の世代の吉本隆明の暴言の魅力はそこにあります。

そうかと言って、そういう自分の世界観を心底信じているわけでもないから、自分の世界観がまちがっているな、と思ったらさっさと撤回して作り直す。

そういう融通無碍(ゆうづうむげ)な基本姿勢がこの世代の長所だと思います。

養老孟司は「死体と昆虫から世界と人間を見る」という立ち位置を選択して、そこから世界と人間の「全体像」を作っている。
野坂昭如は、焼け跡から世界を見るという立ち位置を選択した。


この人たちに共通しているのは、

「世界の全体像はそれぞれの主観によるもので、正しい答なんかない」

という基本姿勢に立った上で、

「でも『だから何でもあり』なんじゃない。ましな『主観』とあまりよろしくない『主観』の差はあるはずなんで、その差を見定める力が人間の知性というもんじゃないだろうか」

という健全な懐疑主義だと思います。




若い人たちを観察していると、
自分の世代より礼儀正しくてバランス感覚があるな、と思う一方、
根底的な不安を抱えているなという印象も持ちます。

その不安をどう理解すればいいのかことばを探しあぐねていました。
『進撃の巨人』を読んで何となくわかった気がしました。

世界と人間の全体像に正解があるはずなんだけれど、
その正解に自分はたどり着いていない

そういう不安感なんじゃないかと思いました。


正解があると想定しているからこそ不安と恐怖がつのる。
そういう不安と恐怖の中で、確実に思えるものが「友情」なんだと思います。
友情によって「世界と人間の全体像が見えない」不安と恐怖を克服しようとする。
不安と恐怖の要素は希薄ですが『ワンピース』の人気もそういうことなんだなと思いいたりました。


「全体像に正解があるはずだ。なのに見えない」
そういう立ち位置だから、
『進撃の巨人』に描かれる人間社会の政治構成は紋切り型です。
そこがこの作品の最大の弱点。



友情も大事だけど、

「全体像に正解はない。だからこそ全体像を見る方法と力を身につけようじゃないか」

と思ったとき、意外に解放が訪れるかもしれません。

文化の歴史をばかにしてはいけない。
人間は「全体像を見る方法と力」の身につけ方をけっこう本気で考えてきたと思います。
最終的な答えは出ていないけれど、
「全体像が見えないから不安だよお」
から抜け出す、風が吹き通る世界が文化の歴史の中に転がっているんじゃないでしょうか。

大学での教養教育の意味のひとつはそういうことを知るきっかけなんだと思っています。













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