一昨日と昨日、テレビを見て豊かな時間を過ごせた、と久しぶりに思いました。
一昨日はNHKBSで、ExileのUSAがブータンで祭りの時に踊る祝福の踊りを踊るドキュメンタリー。
Exileは特に好きではないし興味もないんだけど、USAさん素晴らしかった。
ブータンの踊りはステージの踊りではない。チベット仏教の祈りの踊り。
仮面をつけた踊り手は、一時的に神と化して邪をはらい、人々の幸福を祈る。
「ダンサー」としてのUSAが、そのことを真摯に受けとめ、貧しい村に居候しながら、自分が宗教的な踊りを踊ることが許されるのか、できるのか、と悩みまくります。
すごいのは、USAのそういう悩みをブータンの山奥の村人たちがちゃんと理解していること。
ときにはきびしく、やさしくはげまし続ける。
祭り当日、USAは神と化して村人の幸福を祈る踊りを踊りきります。
異文化交流とはこういうものだ、と実感させるドキュメンタリーでした。
昨日の前半は「笑ってコラえて」。
V6の長野くんがイタリアのグルメ旅行をする。
ありがちな企画だけど良質でした。
長野くんのやわらかな感性と表現力が秀逸。
そしてイタリア料理人たちのすてきなこと。
ビステッカ・アッラ・フィオレンティーナ(フィレンツェ風ビフテキ)と、タリアテッレのラグー(平麺のミートソース)は「そーだよー」と膝を打ち、そして新たな発見もありました。
わたくし、霜降りの和牛が苦手です。
高くて食えない負け惜しみではありません。人のおごりで何度か超高級なのを食したことがあります。
おいしくなかった。
脂(あぶら)が多いからではありません。
わたしは動物性脂肪が大好きで、死ぬ間際に体力が残っていれば東坡肉(トンポーロー)を食べて死にたいと思うくらい。
霜降り和牛は脂がまずい。
そして肉の味がしない。
高級和牛を食べたテレビの「グルメ・リボーター」たちは判で押したように「箸で切れますねー。口に入れたとたんにとろけますねー」と言う。
それは肉じゃないでしょう。
獣の命を奪い、その命の濃厚な味わいを罪深く楽しむ。
肉食とは、そういう人間の業(ごう)を思い知らせるものであるべきだと思います。
霜降り和牛はそういう業を感じさせない。だからうまくない。
ビステッカ・アッラ・フィオレンティーナはその対極にある肉料理です。
岩塩だけで焼いた牛肉。
小量では注文できません。おいしく焼けないからです。
林巧(はやしたくみ)の『チャイナタウン発楽園行き』(すばらしい本ですが絶版)がそのおいしさをみごとに語っていますので、わたしはあえてくだくだ書きません。
が、ひとつだけ言っておくと、注文して出て来た量に
「うおっ、これはとても食えんぞ!」
と絶望的になりますが、林巧は「しかし一口食べたとたん、これは全部食べられると確信した」と書いています。
ほんとにそうなんです。
「肉の味」がします。「命の味」がします。これに較べたら和牛は刺身みたいなもんです。わたしもペロリと食べてしまいました。
それを長野くんがおいしそうに食べてた。
そしてモデナの超一流リストランテの、ラグー(ミートソース)のタリアテッレ。
見ててよだれが出た。
だけじゃなく、「あっ、そーだったんだ」と腑に落ちた。
それはね、
「アルデンテ」って何かという発見。
若い人にはぜひ知っておいて欲しいんだが、
日本に「アルデンテ」ということばが一般的になったのは1970年前後。
伊丹十三の大ベストセラー・エッセイ『女たちよ』がきっかけです。
以後、それまでのグニャグニャパスタが改善された。
のはいいんですが、
わたしの感覚では、日本の本格的イタリアンの店のパスタは固すぎることが多い。
そういうのに何度か出くわしたことがあります。
イタリアであんなに固いパスタは食べた記憶がありません。
ほどよくおいしい。
わたしは今までそれを、日本人とイタリア人の好みの違いかなー、と理解していました。
で、昨日の「笑ってコラえて」のモデナのリストランテでは、
タリアテッレを(放送では言ってなかったけど、確実にかなり固めのアルデンテで茹であげて)
ラグーソースに放り込み、オリーブオイルやら何やらと徹底的にフライパンをあおってなじませていた。
シェフは「これはあなたがこれまでに食べた中で最高のタリアテッレになる」と豪語しました。
長野くんはそれを食べて、もちろん感激して、
「パスタの上に味が乗っているんじゃなくて、パスタの中からラグーの味がしみ出てくる」
とゆーよーな言い方をしていました。
「あっ、そーか」とわかりました。
ゆであがりはアルデンテ。
それをパンでソースと徹底的に絡ませるあいだにほどよい柔らかさになる。
アルデンテはそれを見越した茹で方なんだ、ということです。
「固さ」は本質ではない、ということです(イタリア料理のプロの方にとっては常識なのかもしれませんが)。
これは特に平麺のタリアテッレでは決定的ですね。
ラグーのタリアテッレ、今度からこのやり方で作ろうと思いました。
絶対おいしくなると思います。
後半は『相棒』。
群を抜くクオリティーの刑事ドラマであるのは言うまでもありません。
でも、そのクオリティーの差が何なのかをうまく言い当てることができませんでした。
昨夜の「誓約」を見てようやくわかりました。
凡百の刑事ドラマは「本音のすごさ」が言いたいんですね。
何の変哲もなさそうな事件の背後に、人間の生々しい「生きざま」「本音」が見えてくる。
たいがいそーです。
『相棒』が凡百の刑事ドラマと違う点は、
「本音」の世界と同時に「たてまえ」の世界が描かれていることですね。
昨夜の物語は、警察学校入学時の誓約がキーになっています。
われわれは、なにものにも縛られず、なにものをも恐れることなく、日本国憲法を守り、ただ良心のみにもとづいて職務を遂行する
という誓いです。
こんな誓いは守れない。ドロドロの現実があります。
しかし、守れない誓いを誓ったことが、人間を真に人間たらしめることがある。
昨夜の物語はそういうことです。
「たてまえ」が人間を活かす。
わたしは引き裂かれていない人間が苦手です。
「こうすべきである」ことは強固につらぬかなければなりません。
しかし人間は「こうしたい」という欲望も抱え込んでいます。
「だらしないことをするな。すべきことをしろ」と確信を持っている人も、
「すべきことっていうのは結局たてまえだからな。人間の本音はそんなものじゃ触れられないし、解決もできないんだよ」と開き直る人も、
どちらも嫌いです。
両方に引き裂かれながら、結論が出ないバランスの道をなんとか探そうとしている人、
それが人間というものだと思います。
とりわけ「本音」が大手をふってまかり通る日本において、「たてまえ」の大事さを言っていくことってものすごく大事だと思います。
そこが『相棒』の優れた点だと思う。
人間の闇、ドロドロもきちんと描かれている。しかし、人間のほんとうの解放は「ドロドロだよねー、それに共感しなくちゃねー」という態度からは生まれない。
『相棒』の制作者たちはそういう決断をしてるんじゃないかと思います。
これ、古代ギリシアも同じだよねーーと思いました。
民主政治を人類史ではじめて実現したギリシア人は、当然ですが「たてまえ」の重要さを認識していました。同時に、人間の業(ごう)もよく知っていました。
われわれは、好き嫌いの感情に流されず、ただ真実のみにしたがって評決を下すことを誓う
ギリシアの裁判員が法廷に入る前に立てた誓いです。
「まもるべき行動基準」「行動基準を無化するような、生の人生の重さ」
この分裂をギリシア人はきちんと引き受けようとしました。
「ノモス(法・慣習)とピュシス(自然)」
「アポロン的なものとディオニュソス的なもの」
それは2千数百年後の『相棒』に継承されているように思いました。
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