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2018年8月20日月曜日

赤ワインとローストビーフ

まだ大学院生だった頃、フランス文学を研究していた仲間の話がいまだに強く印象に残っています。

彼女はいいところのお嬢様でそれなりに立派なワインも飲んできていた。
そんな彼女がパリに留学した時、下宿の管理人のおばさんとワインの話になって、「私は○○の××年物が好きだ」というようなことを言ったらおばさんが激怒したという話です。

おばさん曰く。
「それはあんたみたいな若造が飲むワインではない。ワインの味というのは何本も何本も飲んで、ほっぺたに酒焼けの赤ぎれができるくらい飲んでようやくわかるものだ。知ったかぶりをするんじゃない」

院生仲間の女性はそれを聞いて反省した。
そして安ワインをしこたま飲むことにした。
(立派だと思う。ただのお嬢様ではなかったということです)

要するに、ワインにかぎらず何事につけても、体で量をこなさなければいくら情報を集めたって正しい判断はできないということです。



わたしのワインについての基本姿勢はすでに「日本酒の話」に書きました。
ワインの全体像をつかむことは無理そうだからワイン通になることはきっぱり諦めたということなのですが。


それでもワインについては結構投稿している。

なぜなのだろう。
そう自問してみると二つ理由が思い当たります。

ひとつは。
それなりに量をこなしてきてしまったこと。年間150本くらい飲んでる。
(日本酒やシングルモルト・ウィスキーや焼酎やラムも飲んでるからあらためて酒飲みなんだなあと思います)
上の自問をしたときに院生仲間の話を思い出したのはそれだと思う。
量をこなしただけのことは言えるんじゃないか。


もうひとつの理由は。
料理や酒やファッションは個人の「好み」だと言えば言えるのだけれど同時に「文化」でもある。

文化の基盤は「言葉による共有」です。
もちろん「おれはこれが好きだ。文句あっか」と言ってもかまわない。
かまわないけれどそれは個人の身体的反応=感想であって文化ではない。

ブログは基本的には個人的な媒体だと思うのだけれど、
「おれはこれが好きだ」という個人的な身体的反応をそのまま書き散らしたいとは思わない。
「好きだ」という個人的な事実がどれだけ共有可能なものなのか。
どれだけ文化として妥当性があるものなのか。
それを言葉によって確認する意味もブログにはあると思う。
確認の仕方が何なのかはまだよくわからないけど(「イイネ」の数ではないだろうということだけは確信しているのですが)。

自分の「好きだ」を読む人の批評に対してオープンにしておく。
そういう姿勢は保持していきたいと思っています。

ワインに話を戻せば。

それなりに量をこなした人間として、
同時にワインの全体像をつかめていない人間として、
飲んだワインについて言葉にすること。
それはソムリエやワイン通とは違う種類の言葉で「文化」にちょっとは貢献できるんじゃないか。

そんな理由でワインについて投稿してきたんじゃないか。
と思いつきました。
以下はそういう立ち位置の「歩きのオス」の最近のワイン体験です。



「ドゥーカ・ディ・サラパルータ・ラヴィコ 2013」

最近流行っているのではないかと思われるシチリア島エトナ山麓の赤「エトナ・ロッソ」。
上品ではあるのだけれどそれほど好みではなかった。
酸味が強いと思う。
コーヒーと日本酒は酸味が強いものが好きなのだけれどワインの酸味は好きではない。
この「ラヴィコ」を開けたてのときの印象もそれ。


知人から高級なローストビーフをいただいた。
山梨県の湊輿 Minayo の「牛肉のロースト鮑醤油仕立てモモ」。
山梨県に昔からある、駿河湾で採れた鮑を醤油漬けにした「煮貝」をローストビーフのソースにしたものです。

うまい。
これに鮑のソースをかけて食べる
西洋風ローストビーフが霞むくらいに。

それに上の「ラヴィコ」を合わせた。
印象がガラリと変わりました。
この酸味がなければローストビーフと合わない。
そして「ラヴィコ」自体の味も引き立ってくる。
重層的でエレガントな味が。

単品で飲むワインと料理とともに飲むワインとは評価基準が違う(ワイン通の方に取っては常識なのかもしれません)。
とりわけ肉料理についてはワインの酸味が必須なのではないか。

遅ればせにそういうことがわかりました。
素人ですみません。



ボデガス・ブレカ2014
もうひとつの体験は「ボデガス・ブレカ」
スペインはアラゴン州カラタユドの赤のひとつ。
エトナと同じように最近評価が高い地域だと思います。


これ、数年前に飲んで衝撃を受けました。
ワインの苦みをはじめていいなと思った。
ワイン評論家のロバート・パーカーの「液体の岩のような」(liquid rock-like) と言う形容はこれを指しているのだと思った。同時に、体の感覚を言葉で言い当てようとするパーカーの膂力 (りょりょく) にも衝撃を受けました。


それ以来、わたしの定番のひとつだったのだけれど。
去年の夏、穂高の山小屋に来客を迎えたとき、
ぜひともこれを飲ませようと思って2本準備していたのにおいしくなかった。
酸味がきついし、「液体の岩のような」硬質なボディーが感じられない。
「ブレカよ、どうしたんだ!?」

年度の違いだろうか(「ボデガス・ブレカ 2014」)。
いやいや、山小屋での保存状態が良くなかったのでは、と思って、
今さらしょうがないけどというつもりで冷蔵庫に入れて1年起きました。
それを今日開けた。

うまい。

醸造酒は生き物なんだなとあらためて思い知りました。

量は飲んだけどたいした舌ではないわたしの体験。
だけどこうして言葉にすることで文化としてのワインの奥行きと複雑さを伝えられたらな。
そう思います。



2018年3月29日木曜日

アルデンテとバリ——麺の硬さについて


なぜそんなに麺の固さにこだわるんだ?
昨今の(正確にはこの十数年の)固さへのこだわりは常軌を逸しているように思えます。


パスタのアルデンテ。
新潮文庫版
2005

一般の日本人が「アルデンテ」ということばを知ったのは、
伊丹十三『女たちよ!』(文藝春秋 1968) からです。
大ベストセラーでした。

なにしろスパゲッティと言えばマ・マーくらいしか手に入らなくて、
喫茶店のうどんのようなナポリタンが「スパゲッティ」のイメージだった時代です。
(「パスタ」という言い方はまだ一般的ではありませんでした)
伊丹十三が紹介したアルデンテは、それはそれは衝撃的でした。

わが家でも『女たちよ!』のスパゲッティを作りました。
アルデンテに茹でた麺をバターと塩だけで食べる。
アルデンテの麺のおいしさを知るにはまずこの食べ方だ、と伊丹十三は書いていました。
カルチャーショック。
父親の感想は「うーーん、うまい。うまいけどしつこいな」だったと記憶しています。

『女たちよ!』以後、うどんのようなブニョブニョのスパゲッティは少なくなった。
喜ばしいことです。
伊丹十三の功績はおおいに強調すべきだと思います。

だけれども。
昨今の日本のイタリアンのパスタは固すぎる
ゴリゴリしていることさえある。
高級な店にこの傾向は強い。
行き過ぎです。

イタリアで食べたパスタは概しておいしかった。
そして固くありませんでした。

茹であがりの時点では中心に歯ごたえが残っている(「アル・デンテ」は文字通り「歯ごたえ」の意味です)。
その麺をソースに加えてオリーブオイルをかけ足しながらけっこうな時間あおる。
そうやってソースをパスタに食い込ませる。
皿に盛った時点でゴリゴリ感はなくなり、ほどよい固さになっています。

イタリアで修行してたことがあるらしい吉祥寺『ヴァ・ベーネ』の大将が作るパスタは、
そんな感じでおいしい。
「日本人の料理人はアルデンテにこだわりすぎなんですよ」
そう彼は言ってました。

うどんみたいなブヨブヨは論外だけれど、ゴリゴリのパスタもごめんです。
ソースとの一体感がない。


で、博多ラーメンの「バリ」

固めの茹で方ですね。
さらに固めに、バリバリ→針金→粉落とし などという恐ろしいネーミングが続きます。

どうかと思います。

まず、火が通りきっていない練った小麦粉は体に悪い。
ま、体に悪いものをあえて食べるのは個人の自由としましょう。

でも長浜ラーメンに「バリ」という言い方は元来ありませんでした。

わたしの実家は長浜まで歩いて行ける距離です。
大学から東京に来ているとは言え、帰京したときには長浜に行く。
高校生のときから50年近く長浜ラーメンを食べてます。

長浜ラーメンの発祥については諸説あるようですが、
元祖だとされるひとり、「元祖長浜屋」の榊原松雄氏は、
名古屋から福岡に移ってきてトンコツラーメンの屋台を始めた当初は売れなかった。
麺が太かったからです。
長浜の魚市場の人間や船員はいそいでかき込まなくてはならない。
それで麺を細くして茹で時間を短縮した。
元祖が榊原松雄でないとしても、博多ラーメンの麺が細い理由はそれです。

つまりは、
長浜ラーメンの麺はふつうに茹でてちょうどよい固さの麺なのです。

固めが好みの人はもちろんいて構わない。
そういう人は、たとえば長浜入口の「博龍軒」とかでは、
ドアを開けて入った瞬間に「固め三つ !!!」とか声をかける。
ふつうの固さのでさえテーブルに座った直後に出てくるから、
そうしないと間に合わないのです。

すばやく茹で上がるように作られているのが博多ラーメンの麺。

わたしが若いころは
「兄ちゃん、固かとね? 柔らかかとね?」
と聞かれはしましたが「バリ」などということばはありませんでした。
「バリバリ」、ましてや「粉落とし」などという愚かしいことばも。

パスタと同じで、ラーメンも麺とスープの絡み合いが命だと思います。
「針金」や「粉落とし」では麺がスープに絡まない。

「固い麺を注文するのが通」みたいな風潮は、
博多ラーメンが東京に進出して以後、
話題づくりのためにいくつかの店がでっち上げたものでしょう。

体に悪いうまくもない半生の麺を食べて何が楽しいのだろう。



2018年3月27日火曜日

アマルフィ・モデルナ——上品なイタリアン


先週、10数人のグループで丸の内オアゾにあるイタリアン「アマルフィ・モデルナ」に行きました。

早めについて1人だったので一服。
丸の内オアゾは喫煙所がなくてどの店も店内で吸うシステム。
これが困る。
いくら空調が高性能でも匂いはすると思います。
特にイタリアンはコースの最後にグラッパを飲みながらタバコを吸うのが定番なんだから。非喫煙者に気をつかわなくていいように喫煙所を別に設けて欲しい。



トマト味のズッパ(スープ)はすっきりさわやか。
前菜のカルパッチョは、桜を意識したピンクの彩りが美しい。
それはありがちだと思うのですが、
真ん中に載せたブラッドオレンジの泡が、桜の季節に残る「残り雪」をイメージさせてにくい演出。おいしかったです。

パスタは白身魚のトマトソース。ブッタネスカを使っています。

リゾット。チーズたっぷり。
だからなおさらオリーブオイルが
たっぷり欲しい。
リゾットはおいしかったのだけれど、
オリーブオイルが足りない。
頼んで持ってきてもらった上質のオリーブオイルを
タラーーリとかけ回すと、強い塩味が引き立ってがぜんおいしくなる。
最初からかければいいのに、と思いました。

メインは仔牛の低温ローストふわふわ卵添え。
上品でおいしい。


ドルチェ盛り合わせも満足。



全体に上品でおいしい
味は満足です。

しかーーーし。
写真を見ておわかりのとおり量が少ない
年寄りのわたしはこれでもいいが、
それでもたまにゴージャスな気分を味わいたいときにはたらふく食べたい。
イタリア人だったら怒り狂う量だと思いました。

だって、前菜と80g相当のパスタと魚料理と肉料理とデザート、それがイタリアンの最低の量でしょう。
それだけ食べてたらふく飲んで最後にグラッパを飲む。
それが「イタリアンを食べる」という意味だと思うのですが。

この店だけの話ではないから言ってもしょうがないのですが、
地中海料理の「グワーーーーっと食べて、グワーーーーっと飲んで、いっぱいしゃべって」
という楽しみが足りない気がしました。
これじゃあイタリアンではなくてイタリアン懐石だな。



2018年3月23日金曜日

断捨離読書日記 その4——『リバース』『サクリファイス』『五分後の世界』

(ネタバレあり注意!!)


断捨離のためにどんどこ読んでいるのですが書くのが追いつきません。
今回は3冊まとめて。

湊かなえ『リバース』(講談社文庫版 2017)
近藤史恵『サクリファイス』(新潮社 2007)
村上龍『五分後の世界』(幻冬舎文庫版 1997)

適当に並べたみたいですがわたしの中ではそれぞれに関連があります。


まず『リバース』から。
テレビドラマを先に見ました。

主人公深瀬和久を演じる藤原竜也の演技力に舌を巻きました。
戸田恵梨香、小池徹平など脇役たちもがんばっていた。

で、本を買って読んだ。

大学入学直後の主人公の深瀬はなかなか自己肯定ができない人間だったのだけれど、
明るく人を惹きつける広沢由樹に話しかけられてから次第に仲間ができていく。その仲良しの仲間たちで出かけた旅行先で広沢が事故死する。

深瀬はコーヒーを入れることにかけてはずっとこだわりを持ってきた。

就職後数年経って、近くのコーヒーショップで越智美穂子と知り合い、しだいに接近する。その美穂子のもとに「深瀬和久は人殺しだ」という告発文が届く。

深瀬は広沢の事故死がなんだったのかにあらためて直面させられ、
事故死の真相を探求していく。

ストーリーのあらましは以上です。

そのあらましを構築した湊かなえの原作があってこそのテレビドラマ。
まずその点で湊かなえを評価しなくてはならない。

その上であえて言うと。
ドラマは原作をはるかに超えていると思いました。

まずは越智美穂子の人物造形。
小説では越智美穂子がどういう人物であり、
主人公がなぜ彼女に惹かれたのかがイメージしにくい。
(根拠を挙げろと言われたら逐一原作のテクストから論証しますが、ま、ブログは論文ではないので省略)

その点で、戸田恵梨香演じる美穂子と、美穂子を造形するテレビのシナリオは見事だったと思います。


しかし原作の最大のデメリットは結末です。
(ここからほんとのネタバレですぞ)

最後の一行にかける小説というのがあります。
『リバース』もそう。

だけれども。
「これ、それほどの衝撃の一行かい?」
とわたしは思いました。

死んだ広沢の蜂蜜アレルギーを知らずに深瀬は蜂蜜入りのコーヒーを入れて広沢に持たせる。広沢はアレルギーが原因となって死ぬ。

湊かなえの結末は「ああ、僕自身が犯人だったんだ!」というものなんですが。
これ衝撃だろうか。

深瀬は広沢のアレルギーを知らなかったのです。
もちろん深瀬に責任はある。
あるけれども全面的な責任ではない。

テレビドラマはそこを深めていました。
「ああ、僕自身が犯人だったんだ!」とわかった後の深瀬、
そして大学時代の仲間たち、さらには死んだ広沢の家族にまでストーリーを拡大して救いを構築しています。
人間の罪と贖罪とは何かという深みがあります。
美穂子も小説よりはるかに複雑な人物像となっていました。

ということで『リバース』は廃棄。


『サクリファイス』
自転車ロードレーサーの物語です。
自転車ロードレースはただ速さを競うだけの競技ではない。
スケートのパシュートのようにチームの勝利のために風を受けて走る選手の存在が欠かせない。そういう選手たちの犠牲(サクリファイス)の上に優勝選手の栄光はある。

最初の数十ページはそういう自転車ロードレースを紹介するという趣が強く、
「これは取材の小説だな」
と思ったのですが。
そのあとがすごい。
主人公が属すチームのスター選手が一癖も二癖もある。
かつて彼はチームメートに意図的に害を与えて引退に追い込んだ、そういう噂のある男。
そういう「性狷介」な彼の人物像が印象鮮明に描かれる。

最後のどんでん返しも見事。
いや、これは廃棄するわけにはいかない。

ないものねだりをするとすれば音か。
タイヤと路面の音。限界まで酷使される金属の音。
ロードレーサーの息づかい。
そういう自転車ロードレースならではの音がこの小説にはほとんどない。


『リバース』と『サクリファイス』には興味深い共通点があります。
わたしは作者が男性であるか女性であるかにたいして関心はないのですが、
この2作を読んで「ああ、こういう視点はあまり男性にはないかもしれないな」
と感じました。

社会の中での自己肯定のあり方とでもいうのでしょうか。

『リバース』の主人公深瀬も『サクリファイス』の主人公白石も
「自分はスターなんかではない陰の存在だ」という自己認識の持ち主。

けれども深瀬は死んだ広沢によって、白石は性狷介なスター選手によって、
自分の価値にしだいしだいに気づいていく。

自己肯定は往々にして「おれはすごいんだ」を確認していくプロセスだと捉えられがちです。男性の場合はことさら。

しかし自分の価値って、自分自身が下す評価ではなくて、自分を注視している他者によってはじめてわかるものなんじゃないか。

それがこの2作に共通している。
少し虚を突かれ、同時に自分の経験からしてもそうだったのだと腑に落ちました。

どんな場所でも自分の技を磨いていく。それを誰かがかならず見ている。
「自己肯定は自分からではなく外からやってくるのだ」と言えばいいのでしょうか。
そう考えると開放感があります。
自分が自己の価値を「主張し他者に納得させてゆく」って苦しいしみっともない。
そうじゃなくて「自己肯定って外からやってくるんだよね」と考えると
自己防衛的なみっともない構えがなくなる気がします。
こういう感覚は男性からは出てきにくいと思う。
だって男はいまだに「闘う家長」というフィクションを演じたがっているのだから。
2作ともそれとは正反対の「自分の価値を肯定するあり方」を自然に提示しています。



『五分後の世界』

ジョギングしていた中年男がパラレルワールドに飛ばされてしまう。
そこは日本なのだけれど戦場が日常である世界。

戦場に放り込まれた主人公は否応なしに戦い生き延びようとする。

ただごとではない執拗さで戦場が描写される。
その描写の意味については文庫版の渡部直巳の解説を読んでください。秀逸な解説です。

その上でつけ加えれば。

社会の中で与えられた自分の役割を淡々と演じる。
それを村上龍が評価しているのがよくわかります。
その役割は経済的な役割とは限らない。
戦場のプロとしてひたすら兵士たらんとする男たち。
そういう人たちを肯定する姿勢は「カンブリア宮殿」での村上龍と共通している。

だけれども。
なんか窮屈だ、村上龍は。
社会的役割とは無縁な部分が人間にはあるんだし、そういう部分は社会的役割と同等か、ひょっとするとそれ以上の価値があるのかもしれない。

誰だったか忘れてしまったのですが、
「香港の街角でステテコみたいな姿でしゃがんでタバコを吸ってる爺さんがいる。
どうやって生活しているのかわからないのだけれど毎日そうやってしゃがみ込んでいる。
革命が起きたとしてもその翌日にやはり広場に座り込んでタバコを吸っているだろう。
そういう人がいちばん強いんじゃないか。」
そんなことを言ってた人がいました。

うん、そうだよねと思います。

村上龍にはそういうステテコ爺さんの要素が欠けている気がする。

しかし。
『リバース』と違って『五分後の世界』の最後の一行はすごい!!

廃棄するかどうか迷っています。




2018年3月21日水曜日

オーストラリア土産


オーストラリアドルを持っていても使いようがないので、
空港の免税店で使い切りました。

ワインを3本。


赤2本と白の貴腐ワイン。

赤は、
左が「ジョン・デュヴァル・プレクサス John Duval Plexus、葡萄はシラーズ、グルナッシュ、ムルヴェードルで、この組み合わせに惹かれて買いました。
右は「ウルフ・ブラス・金ラベル Wolf Blass Gold Label葡萄はシラーズ。

オーストラリアの赤はシラーズがおもしろい。
シラーズは癖のある葡萄だと思います。
果実味とともになめし皮、埃 (ほこり) みたいな香りがする。
いつだかラジオ番組の投稿で、若い女性が
「教養ありげなオヤジに高いワインをごちそうしてもらったのですが、
オヤジみたいな臭いがしてわたしには縁のないものだと思いました」
と書いていて思わず笑ってしまったことがあります。

いや、
その女性を馬鹿にしているのではありません。
彼女が言う「オヤジ臭」はたぶんシラーズだと思います。
彼女なりにみごとに言い当てている。

そういう葡萄です。

ヨーロッパのシラーズはかなり癖のある(でもうまい)ものが多いと思う。
でもオーストラリアのシラーズはそれほど癖がなくてより軽やかだ、
というのがわたしの印象です(わたしの舌はたいしたことないので鵜呑みにしないで欲しいのですが)

それでカベルネ・ソーヴィニヨンではなく、シラーズを使った2本を選びました。
「ジョン・デュヴァル」の方が10ドル高い。
でも金色の瓶の「ウルフ・ブラス」の方が明快でおいしかった。


真ん中は貴腐ワイン。
甘いデザートワインです。
以前「スリーブリッジズ」というオーストラリアの貴腐ワインをいただいたことがあって、
べらぼうにおいしかった。


その「スリーブリッジズ」も置いてあったのですが、同じのを買ってもおもしろくないのでこれを選びました。
「テンパス・トゥー (Tempus Two) 2015」
とろけるようにおいしいっ!!
花と蜂蜜の立ち香・含み香。
甘いけれどしつこくない。

バニラアイスにタラーーリとかけてもおいしいんじゃないかと思います。

オーストラリア土産なら貴腐ワインがお勧めです。「Botrytis」と書いてあるのを探してください。細い(小容量の)瓶なので見つけやすいと思います。


駆け足でオーストラリア その2——シドニー


最終日はシドニー観光。

けっこう神経を使ったキャンベラ大学との話し合いだとかから解放されて、JTBお任せの観光でのびのびしました。

まずはタロンガ動物園。
ガイドがなかなかおもしろい人で、
「わたしはここでオーストラリアの動物をまともに見られたためしがありません。
タスマニアデビルは背中しか見えないし、ウォーンバットは寝てばっかり」
とひたすら盛り下げるクールなトーク。

しかしそれはおそらく彼女なりの計算で、
盛り下げられたからこそ、実際に見られたときの喜びが大きくなる。


タスマニアデビルは確かに警戒心が強かったのですが、声を出さずに数分待っていると、
奥からスチャチャチャチャッと現れました!
すばやい!
そしてデビルにふさわしい獰猛な顔つき。

ウォーンバットも目の前でモコモコ動いてくれた。

タロンガ動物園は高所にあるので、キリンの背景にシドニーの繁華街が見える。
おもしろい構図です。

動物園からロープウェイで降りる景色もなかなかでした。


ロープウェイを降りてフェリーでシドニーの港に向かう。
海辺の食堂街
フェリーの周囲をたくさんのヨットが走る。わたしはヨットに乗ってたことがあるのですが、シドニー湾のヨットは日本では考えられないくらいの近距離で船舶と離合します。

ヨットを前景にしたオペラハウスを通り過ぎて港に接岸。


にぎやかな波止場でとりあえず昼食をとりました。

「アドリア」の名前の通り地中海料理の店で、
黒板メニューにはスブラキ(ギリシアの串焼き)など食欲をそそるメニューが並んでいるのですが、そこは旅行会社お任せツアーの悲しさでハンバーガーとデザートだけ。
でも波止場に面したテラス席なので開放感がある。
バーもなかなか楽しそうですが文句は言うまい。
1人で来たときのお楽しみにとっておきます。
「アドリア」のバー

ハンバーガーはそれなりにおいしい。
オーストラリア到着後すぐに立ち寄った「マクドナルド」で食べた「クラシック・アンガス」もそうだったのですが、肉がしっかりしている。
「アドリア」のは赤タマネギとビーツがはさんであって、これがワイルドな牛肉と合う。




デザートはキャラメルソースのパンナコッタ。
おいしい。

食後にタバコを吸いたくなってあたりを観察すると、
写真のような掲示板があります。
オーストラリアに来る前に「喫煙所以外で吸うと厳罰だ」と脅されていたのですが、
何のことはない。
建物から離れていればオーケーなんです。
キャンベラでは3m以上だったのがシドニーでは4m以上。
都市ごとに距離が決まっているんだと思う。

健全です。

ヨーロッパでも屋内は全面禁煙ですが外で吸う分には誰も文句を言わない。

屋外での受動喫煙の害は科学的に証明されていないのだから当たり前です。
(なお、「副流煙は喫煙者が吸う煙より有害である」と主張した論文はWHOによって科学的根拠がないと否定されています)

日本では東京オリンピックに向けて受動喫煙の害をなくす方向に進んでいて、そのことに異論はまったくありません。

「受動喫煙」が科学的に定義されてさえいればですが。
その定義を抜きに受動喫煙の害を語るのはおかしな話です。

ヨーロッパやオーストラリアの喫煙制限はそういう意味で健全です。
喫煙そのものを否定していない。

昨今の日本の喫煙への論調は、言わせてもらえば全体主義です。
喫煙は違法行為ではないし喫煙者は高額納税者なのだから、
税で屋外喫煙所をたくさん作ればいい話です。
それなら屋内全面禁煙でかまわない。
なのに喫煙することがそもそも悪であるかのような論がまかり通る。

閑話休題(あだしごとはさておき)


食後はお決まりコースのオペラハウスへ。


これまた喫煙所でタバコを吸っていると、
中国人らしい若者が寄ってきて「火を貸してくれないか」と。
「お安いご用だ」
とライターを貸して、二人きりで黙っているのも何だから、
「中国人か?」と話しかけました。
「そうだ。上海から来た」
立派な身なりで立派な英語を話します。
なんでもない会話を交わしながらタバコを楽しみました。
この数年の中国人観光客の身なりの良さと英語の立派さには感心します。
もちろん貧富の差はものすごくあって、
恵まれた人たちが旅行をしているのだとは思いますが。

夜、空港で帰路に。

陽気でオープンな国(だと想像していてそのとおりでした)に
携行する本は何にしようかと考えて、
古川日出男『馬たちよ、それでも光は無垢で』(新潮文庫)にしました。

オーストラリアからいちばん遠く思える本。
福島県出身の古川が、3.11の数ヶ月後に震災の地を見て回った記録です。

ドキュメンタリーではない。
事実の叙述のあいまあいまに、
古川自身が書いた小説の登場人物が幻のように登場する。

レンタカーで震災跡地を巡りながら、
古川は「時間」と「場所」とはそもそも何なのだろうという深い問いを考え続けます。
ある大きな力によって時間と場所があの大地震に結果した。
福島県出身であると同時に東京の文化人である自分の立ち位置は、
時間と場所を考えることによってしか確認できない。
そういう手探りの旅の記録です。

古川は相馬市の馬たちの悲惨を、
馬という動物の歴史をひもとくことを通じて直視しようとする。

最後に登場する馬たちと牛にかすかな希望が輝いています。

機上の3月11日、
『馬たちよ、それでも光は無垢で』を読了しました。