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2011年10月3日月曜日

回想のギリシア旅行その7(スパルタ、ミストラ、ナウプリオン)

2010年12月31日 スパルタ→ミストラ→アミュクライ→メネライオン→夕刻ナウプリオン着

 ペロポネソス半島南部、パルノン山脈とタユゲトス山脈にはさまれた豊かな平地に位置するスパルタは、厳しい教育と尚武の気風で名高い強国でした。前480年のテルモピュライの戦いで、クセルクセス大王率いるペルシアの大軍に立ち向かったスパルタ精鋭部隊「300人隊」の勇猛果敢な戦いぶりはヘロドトス『歴史』第7巻に詳しく述べられています。映画『300(スリーハンドレッド)』はおおむねヘロドトスの記録をもとにしていますが、300人隊の指揮官レオニーダス王が、「楯を引き渡して降伏せよ」というクセルクセス王の最後通牒に「(楯が欲しいなら)来て取れ」と答えたという逸話はヘロドトスにはなく、後1-2世紀の作家プルタルコスの『モラリア』から採られています。きわめて簡潔でウィットに富んだスタイルを「スパルタ風」(ラコニック laconic)といいますが、「来て取れ」(モローン・ラベ μολῶν λάβε)はラコニックなスタイルの典型でしょう。


スパルタ考古学博物館はスパルタ周辺から出土した彫刻や墓碑等が展示されています。左は前580-570年代の戦士像。「来て取れ」のレオニーダス像だとされることもありますが確定できません。
 スパルタでは男性は戦場で倒れた者のみ、女性は産褥で命を落とした者のみ、墓碑に名前を刻むことが許されていました。右は戦死した男性の墓碑で名前が刻まれています。

 アルカイック期の台形の石碑。両面に各一対の男女が描かれていて、左写真の女性はトロイア戦争を引き起こすことになった美女ヘレネ、男性は夫のメネラオスまたはヘレネを奪ったトロイアの王子パリスのどちらかだと言われています。反対面は、母親クリュタイメストラを殺すオレステス。脇の面には蛇が彫られています。


 スパルタのアルテミス・オルティア神殿からいくつかの面が出土しています。右は老婆の面。アルテミスは成人・出産等女性の生涯のおりふしにかかわる女神でしたから、老年を迎えた女性が奉納したものかもしれません。







 スパルタを見下ろすタユゲトス山腹に世界遺産ミストラがあります。東ローマ帝国の要衝であった城塞・教会群が険しい斜面に立ち並んでいます。ミストラはギリシア南部のギリシア正教会の中心地であるとともに、イタリア・ルネサンスに深い関わりがある土地でもあります。新プラトン主義の人文学者プレトンはこの地で活動した人物です。

ミストラの王宮跡
ミストラの城壁からスパルタの平原を見下ろす
城壁背後にはスパルタの
弱い子供が捨てられた
という谷が
アギオス・ディミトリオス教会
コンスタンティヌス十一世が
戴冠した聖堂内部
 ミストラのアギオス・ディミトリオス教会は、最後の東ローマ皇帝コンスタンティヌス十一世が戴冠した場所。彼は1453年にコンスタンティノポリスがオスマン・トルコ軍によって陥落した際に、少数の守備兵とともに敵軍に突入して消息不明となっています。
足もとの双頭の鷲は
東ローマ帝国の紋章
バンダナサ修道院の
コエビソウの鉢植え
バンダナサ修道院
 ミストラの中程にあるバンダナサ修道院。現在も女子修道院として用いられていて、鉢植えの花が咲き、たくさんの猫がくつろいでいます。ミストラの中ではやわらかな雰囲気の空間です。



アミュクライ
 アミュクライ遺跡は、前古典期のアポロンとヒュアキントスの神殿跡がかろうじて残っているだけ。近くにある、ミケナイ時代のトロス型墳墓があるバフィオに向かいます。バフィオからは美しい黄金のカップが二つ出土しています(アテネ考古学博物館蔵)。このあたりはオリーブとオレンジの畑が続くのどかな農村地帯。道を教えてくれた地元のおばさんが、私たちがまちがった角で曲がったのを見ると走ってきて正しい道を教えてくれる。脇の畑からオレンジを山のように摘んで「持って行きなさい」という。午後のやわらかな日差しの中を羊が歩いていきます。
バフィオの墳墓
バフィオ出土の黄金のカップ
(アテネ考古学博物館)

メネライオン
 日没が近づいていたので、パルノン山脈側のメネライオンに向かう坂を早足でのぼります。神格化されていたと思われるメネラオスとヘレネに捧げられたピラミッド状の神域です。脇には前15世紀後半のミケナイ時代の館跡があります。
メネライオン脇の館跡
 メネライオンから、スパルタの平野をはさんで向かいにタユゲトス山脈が連なっています。夕暮れに広がる荘厳なパノラマでした。


メネライオンから
スパルタの平野とタユゲトス山脈
 夕刻ナウプリオン着。
大晦日のタベルナで踊る客
 新年のカウントダウンをタベルナで。地元客ばかりの「バシリス」で中央のテーブルを占拠した東洋人のグループ。店の雰囲気を左右する責任を感じたわたしたちは、まわりの客と乾杯し、踊り、新年のケーキを分けあって新しい年を祝いました。





冥府の花アスフォディル
2011年1月1日 ミケナイ外周→ケンクレアイ→夕刻ナウプリオン着
 

ミュケナイ遠景
 元日はやや緩やかなスケジュール。
 ミケナイの周りを散策。ホメロス『オデュッセイア』第11歌に出てくる冥界の花アスフォディルが咲いています。

ケンクレアイ
 午後はコリントスの外港だったケンクレアイへ。水没しかかった小さな遺跡ですが、この港から使徒パウロがトルコ西岸の大都市エペソスへ船出しました。


ギリシア最古の橋

ギリシア最古の橋を見てナウプリオンにもどり、夕食後、ナウプリオンの岬を一周。街灯もあまりない暗い散歩道でしたが安全です。闇の中をジョギングする若者と「中国人か」「いや日本人だ」「そっか。新年おめでとう」とすれ違いざまの会話。元日の夜はこうして更けていきました。





闇夜に咲くブーゲンビリア
ナウプリオン港の夜







 

2011年9月28日水曜日

history は his story か!?

 いつぞや、いわゆる「政治的に正しい politically correct」表現が話題になったとき、居あわせた英語の先生が「ほんとに神経使うのよ。history は his story だからよくないとかね」と言った。

 わたしはてっきりジョークだと思ったのだがそうではないらしい雰囲気だった。それきりあまり気にしていなかったのだが、学生の一人からひょんな折に「わたし、高校の英語の先生から history は his story だから男性上位の単語なんだって教わりました」と言われてはじめて、これが少なくとも一部で流布している考えなのだと思いいたった。

 これは由々しき(あるいは喜劇的な)事態だ。

ヘロドロス(松平千秋訳)
『歴史』全3冊、岩波文庫
 history の語源は英語ではなくギリシア語の「ヒストリエー」である。
 ヘロドトスは前5世紀のペルシア戦争の歴史を記述した『歴史(ヒストリエー)』の作者だ。この書名は、ヘロドトスが冒頭で、この本は過去に起きたペルシア戦争という大きな事績の「探求(ヒストリエー)」である、と述べているのに由来する。だからふつう訳されているように『歴史』と訳してもいいし、もともとの意味に忠実に『探求』と訳したっていい。

 ともかく、ヘロドトスの『歴史』によってヨーロッパの歴史記述は始まった。
 
 世界史の教科書には、ヘロドトスが「歴史の父」であると書いてある。その意味は、彼の『歴史』という書物がヨーロッパで最古の歴史叙述であるというだけでなく、ヘロドトスが欧米語の「歴史」(英語だと history)という単語そのものを生み出した「父」でもあるということだ。




 再度言っておくと英語の history の語源はギリシア語の「ヒストリエー」であって、his は「彼の」ではなくギリシア語「探求」の一部分でしかない。

 だから「history は his story だから男性上位の単語だ」と言うのは
「カレーライスは『彼ライス』だから男性上位のイデオロギーを表す単語だ」というのと同じレベルのだじゃれでしかない。語源学的にまったく根拠のない妄言である。


 英和中辞典の history を見れば語源がギリシア語の「探求」だということはちゃんと書いてある。妄言を授業で教える英語教師は辞書を見ることさえしていないのだろう。




(2015/2/9付記)
アクセス数が多い投稿なので、文を少しわかりやすく編集しました。内容の変更はまったくありません。

 

 

2011年9月27日火曜日

回想のギリシア旅行その6(オリンピア、アルカディア)

2010年12月30日 オリンピア→アルカディア高原→夕刻スパルタ着


 オリンピア遺跡見学ののち、オリンピア考古学博物館へ。

門をくぐって競技場へ
競技場入口の門
(ローマ時代のもの)
 近代オリンピックを創始したクーベルタン男爵がそのひな型として仰いだ古代オリンピア競技祭は、大神ゼウスに捧げる宗教祭儀でした。というより、古代の運動競技会は基本的に宗教祭儀でした。ギリシア人の宗教的想像力のなかで視覚は重要です。大英博物館にあるパルテノン神殿の神々の像は、本来見上げる位置にあったので、おそらく参拝する人間より神々に見てもらうためのものだったと思われます。運動競技会も「躍動する美しい肉体を神々もご覧になって楽しまれる」という「神々の視線」を意識したものでした。競技祭はすでに前8世紀から有名で、4年ごとにギリシア各地から名だたる運動選手が集まり技を競いました。
競技場全景


ゼウス神殿
ラピタイ人とケンタウロスの乱闘
中央のアポロン
 前5世紀に建てられたゼウス神殿は力強いドーリス式の典型。6世紀の大地震で倒壊したままの姿ですが倒れた石柱が迫力を感じさせます。神殿内陣にはペイディアス作の巨大な座像があり、その台座にはオリンポスの十二神の像が並んでいました。これらはすべて失われてしまいましたが、神殿東西の破風を飾っていた彫刻と、メトープのヘラクレス十二の難行を描いた浮彫彫刻はオリンピア考古学博物館に保存されています。ゼウス神殿の西破風の主題は「ラピタイ人とケンタウロスの乱闘」。ラピタイ人の王の婚礼に招かれた半人半獣のケンタウロスたちが酔ったあげくに乱暴狼藉におよび、それに対抗する人間たちとの乱闘シーンが描かれています。ケンタウロスと人間の激しい動き、両端に恐怖でうずくまる侍女たち。その中央に、静かな表情と体勢で屹立しているのが神アポロン。動と静のコントラストと調和がみごとな彫刻です。

ヘラ神殿
 ゼウス神殿の隣にヘラ神殿があります。ゼウス神殿より古く、もともとは夫ゼウスとの合同の神殿だったようです。おもしろいのは柱のデザインが統一されていないこと。元来木造だった柱を、古くなるたびに石の柱に取り替えていったからこうなりました。このヘラ神殿の前には犠牲の式が行われた祭壇跡が残っています。ギリシア風の衣装を着た女性たちによるオリンピックの聖火の採火式はここで行われます。その映像をニュースなどでご覧になった方も多いと思いますが、聖火リレーは古代ギリシアの競技会にはありませんでした。


ヘルメス像
 オリンピア考古学博物館は見どころたくさんあり。
 前4世紀の彫刻家プラクシテレスの「ヘルメス像」。ローマ時代の模刻かとも言われていますが、ギリシアの身体美の理想を具現した作品のひとつであることはまちがいないでしょう。わたしは脚が少しだけ長すぎると思いますが。
 (↓) 美少年ガニュメデをさらうゼウス。もちろんホモセクシュアルです(妻ヘラもいるんですが)。のんきな雰囲気が好きです。

ニケ像
ガニュメデを
さらうゼウス
















(→) 勝利の女神「ニケ」。スポーツ用品メーカー「ナイキ」がニケの英語読みで、ナイキのマークがニケの翼をデザインしたものであることはご存じかと思います。

奥がミルティアデスの兜
手前はペルシア軍から奪った兜
楯の飾りの怪物ゴルゴンの顔
 前490年のマラトンの戦いでアテネ・プラタイア連合軍を率いてペルシア軍に勝利を収めた将軍ミルティアデスは、戦闘で用いた自分の兜と戦利品のペルシア軍の兜をゼウス神殿に奉納しました。


 オリンピアを後にしてアルカディアを通り、ペロポネソス半島の北を横断、ナウプリオンに向かいます。

 アルカディアは、葦笛を吹く羊飼いたちの世界、「牧歌」の地として有名です。17世紀フランスの画家ニコラ・プッサンの絵に描かれているのでも有名な「われアルカディアにもあり Et in Arcadia ego」ということばは「わたしはかつてアルカディアのような桃源郷にいたこともあるのだ」という意味に理解されることもありますが、「われ」は「死」を指していて「アルカディアのような美しい場所にも死はあるのだ」というのが本来の意味でしょう。
 実はアルカディアが牧歌と結びつけられたのは後代のローマの詩人ウェルギリウスからなのですが、古代ギリシアでもアルカディアは牧神パンと結びつきが強い神さびた土地でした。バスはアルカディアの山のカーブを進んでいきます。ギリシアらしい美しいが冷酷な自然。でも「Et in Arcadia ego」を念頭に置いているからか、アルカディアはことに「死」を背景にした美しさをたたえているように思えてなりませんでした。


ハーブティーを飲んだ
茶店入り口
 途中、アルカディアの谷間の村でトイレ休憩をかねて趣ある茶店でハーブティーを。再びバスに乗ったときには宵闇で、村のあかりが谷間に揺れながら遠ざかっていきました。


2011年9月22日木曜日

回想のギリシア旅行その5(アテネ、デルフィー、オシオス・ルカス修道院)

2010年12月28日 アクロポリス、アゴラ、ピレウス博物館。夕刻デルフィー(デルポイ)へ。



 今日はよく歩いた。万歩計持参のF氏によると1万5000歩を超えたらしい。
 
 アテネのアクロポリスへ。


アクロポリスから見下ろした劇場
 南麓にある古代のディオニュソス劇場では、紀元前5世紀の春3月、ディオニュソス神を祭る大ディオニュシア祭で、アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスらの悲劇が上演されました。この祭りは国家をあげての大演劇祭であると同時に、前年に仕込んだ葡萄酒をはじめて開ける時期でもありました。古代のボージョレ・ヌーヴォー解禁日です。春の訪れと新酒の酔いで華やぐアテネの市民たちが、劇場に参集して悲劇を見ながら、人間の業(ごう)や、ままならぬ運命についてさまざまな思いを巡らせたのでしょう。
 現在残っているディオニュソス劇場はローマ時代のもの。オルケストラ(舞台)が半円形です。紀元前5世紀の古典期のオルケストラは完全な円形でした。オルケストラの形からおおまかな時代がわかります。また、もとの劇場は観客席が木造でした。


 ギリシア悲劇は暗く悲惨なストーリーが多い。知らずに父親を殺し母親と結婚したオイディプスが、ある日自分の素性を知ってしまうソポクレス『オイディプス王』のように。しかし、悲劇は春の明るい空の下で上演されました。舞台の奥には自分たちの生活の場である街並みが見下ろせます。鳥のさえずりも聞こえていたでしょう。野外劇場は、深刻になりすぎずに人間の闇を見つめることを可能にしてくれます。


 劇場の近くに医神アスクレピオスを祀るアスクレピオンの跡が残されています。アスクレピオンの本家はエピダウロスですが、紀元前5世紀、悲劇詩人のソポクレスによってアテネに導入されました。
アスクレピオン


 アクロポリスのプロピュライア(前門)の石段を登りきるとパルテノン神殿がそびえています。アテネの守護神である「乙女神(パルテノス)」アテナを祀るこの神殿はもともと木造でしたが、紀元前480年、侵攻してきたペルシア軍の手によって焼け落ちます。アクロポリスに立てこもっていた少数のアテナイ市民兵は、ペルシアの奴隷になるよりは、とアクロポリスの高い崖から飛び降りて全滅しました。このペルシア戦争から数十年後、将軍ペリクレスの指導下で繁栄をきわめたアテネの黄金時代に再建されたのが現在残っているパルテノンです。
 当時は内陣の中に、彫刻家ペイディアス作の巨大なアテナ女神像がありました。肌の部分は象牙が貼られ、薄暗がりの内陣にそびえるアテナ女神像はまさに「人間を超えるもの」の偉容をたたえていたと思いますがもちろん現存しません。内陣そのものも、19世紀に火薬庫として使用されていた際の爆発で吹き飛んでしまいました。屋根の東西の三角部分(ペディメント)に飾られていたオリュンポスの神々の像は、現在大英博物館にあります。屋根下に巡らされていた浮き彫り彫刻(「パルテノン・フリーズ」)の一部は大英博物館で、一部はアクロポリスの麓にあるアクロポリス美術館で見ることができます。
アテネ・ポリアス神殿跡
 パルテノン神殿の傍らにはアテネの始祖エレクテウスを祀る「エレクテイオン」があります。屋根を支える柱は乙女像(現在はアクロポリス美術館に移設されています)。
 パルテノン神殿とエレクテイオンのあいだに、パルテノンより古いアテナ・ポリアス神殿がありました。現在は礎石だけが残されています。
アゴラのほぼ全景。左はローマ時代のストアを
利用したアゴラ美術館。右奥にアクロポリスが見える。


裁判で弁論の時間を計った水時計。
上の壺に穴が開いていて水が下の
壺にたまる。
毒杯
 アクロポリスを下ってアゴラへ。市場や公共施設や神殿があった大きな広場です。哲学者ソクラテスが死刑を宣告された裁判所もここにありました。アゴラ脇にあるアゴラ博物館には、ソクラテスがあおいだ毒杯(と同じもの)が展示されています。
アゴラの裁判所跡付近


















クーロス像


アルテミス女神像
 ピレウス美術館は数は多くないが見事なブロンズ像があります。
 紀元前4世紀の2体のアルテミス女神像と、紀元前4世紀のオリジナルをヘレニズム時代に模刻したアテナ女神像。

アルテミス女神像

アテナ女神像
 そしてクーロス(若者)像。背中が美しい。
クーロス像の背中
港のタベルナらしい船の絵や
船具が飾られた店内

白身魚のマリネ

 歴史と美に堪能したあとはおいしい食事。ピレウスのタベルナは旅行中いちばんレベルが高いシーフードレストランでした。


ズッキーニのフリット。
サワークリームで食べる
イワシのオリーブ油焼きとトマト


















 夕刻、アポロンの神託で有名なデルフィー(デルポイ)に向かいます。


12月29日 デルフィー(デルポイ)、オシオス・ルカス修道院


アテナイ人の宝庫
 神アポロンの神託所があったデルフィー(古代ギリシア語ではデルポイ)は「世界の臍」と呼ばれ、ギリシア各地だけでなく外国からも神託を求める人々が訪れました。ギリシアの都市国家(ポリス)も国難に際してデルポイの神託をあおぎました。神託の成就に感謝する奉納物を収めた各国の宝庫がアポロン神殿の下に建てられています。


 デルポイの神域はコリントス湾を望む険しい崖の中腹に広がっています。(←) ホテルからコリントス湾に面するイテアの港が見下ろせます。神域を訪れる巡礼者はこの港に上陸して、谷間の街道を写真の左にむかってたどります。
神域入口から見上げる
パイドリアデス


 デルポイの神域の背後にはパイドリアデス(「光る岩」)と呼ばれる崖がそびえています。朝日、夕日を受けるとオレンジ色に輝くことからこの名がつきました。


 20年前にパイドリアデスの上に登ったことがあります。崖の上に立つとデルポイの荘厳な聖域が見下ろせる。そこから山道を登り始めました。人っ子一人いない道を、ところどころ木につけられた赤い目印をたよりに(これは日本の登山道と同じですね。万国共通なんでしょうか)登るうちに、霧が立ちこめてきました。山の中腹のやや開けた草原(くさはら)で立ち止まり、もう戻った方がいいかと思い始めたころに、霧の向こうからカラカラという金属音が近づいてきます。カラカラの音がわたしを取り巻きました。やがて少し霧が晴れると、わたしは鈴をつけた山羊の群れに取り囲まれていました。山羊飼いの姿は見えません。霧の岩と緑のなかで静かにわたしを見つめる大山羊たち。怖さより、何か不思議の世界に迷い込んだような思いでしばし立ちつくしていました。神さびたデルポイにふさわしい体験だったと思います。


 閑話休題(あだしごとはさておき)。


ピュティアの神託が下されたアポロン神殿
 神託を告げるのはピュティアの巫女でした。彼女は火山性ガスが立ちこめるほこらに入ってアポロンの神に取り憑かれてお告げを叫び、それを神官が書き留めて相談者に告げます。オイディプスはここで「お前は父を殺し母と交わるであろう」という恐ろしい神託を受けました(もちろんこれは神話上の話です)。


巫女がこもった洞窟
内側から(学生撮影)
 アポロン神殿にピュティアの巫女がこもったほこら跡がありますが、これが神殿の基礎の外まで通じている。K先生がそんな解説をしていると、ツアー仲間の勇敢な女子大生がその穴にずんずん入っていきました。やがて少し離れた穴から彼女があらわれました。抜け道みたいになっているようです。長年ツアーを案内しているK先生もこの地下道に入ったことはなかったそうです。わたしは中に入らなかったので、内部の写真は勇敢な女子大生が撮ったものです。


デルポイの劇場
競技場
 アポロン神殿の上には劇場が、さらに最上部、崖の直下には運動競技場があります。ギリシアの運動競技会といえば、近代オリンピックのひな型となったオリンピア競技祭が有名ですが、オリンピア以外にも競技会はあり、デルポイの「ピュティア競技祭」はギリシア四大競技祭のひとつでした。


馭者の像
 デルポイ美術館には「馭者の像」があります。ピュティア競技祭で優勝した戦車競争の馭者を記念したブロンズ像です。その静かな表情は、現代のスポーツ競技会の優勝者にありがちな勝ち誇ったガッツポーズの対極にあります。競技会で輝く肉体はつかの間のもの。やがて滅びゆく肉体の美のはかなさを認識しているかのような静けさです。参加者の女子大生が「歩きのオスさん、この像でいちばんすごいのは足首なんですよ。こんなセクシーな足首はありません」と。言われて見ると確かに美しい。
足首

 クレオビスとビトンの像はアルゴスの兄弟を記念したもの。ヘロドトス『歴史』第1巻によれば、二人はアルゴスのヘラ祭に母親を連れて行こうと思ったが、車を引く牛が畑に出ていて間に合いそうもない。やむなく兄弟は母親を牛車に乗せてヘラ神殿まで引いて登っていった。母親に祭りを見せた直後に兄弟は絶命した。『歴史』には「アルゴス人は二人を世にも優れた人物だとしてその立像を作らせ、デルポイに奉納いたしたのでございます」(岩波文庫、松平千秋訳)とあります。

オイディプスの三叉路
 デルポイを離れ、パルナッソス山麓のさびれた場所でバスは止まります。この旅行記で何度か触れたオイディプスが、「お前は父親を殺し、母親と交わるだろう」というデルポイの神託に心乱れてとある三叉路にさしかかったとき、テーバイの方角からやってくる馬車の一行と出会う。オイディプスと馬車の一行はささいなことから諍いになり、オイディプスは馬車に乗っていた男を殺してしまいます。その男こそオイディプスの実の父親ライオス王にほかなりませんでした。
 ソポクレス『オイディプス王』のテキストに見事に符合するのが、バスが止まった三叉路なのです。『オイディプス王』のテキストを刻んだ石碑が立てられていて、ここがあの三叉路であることを伝えています。この石碑は新しいもので、立てたのはギリシア精神分析協会。フロイトの「エディプス(オイディプス)コンプレックス」の原点だということなのでしょう。


「人を寄せつけぬパルナッソスの荒々しさと静けさが支配するこの〈三叉路〉以上に、かの悲劇[『オイディプス王』]にふさわしい舞台はないと思えるほどである」と川島重成は書いています(『ギリシア紀行』岩波書店、2001)。




 バスは、11世紀に建てられ、キリストを描いた一連のモザイク画がある美しいオシオス・ルカス修道院へ。修道院の背景には、ギリシアの詩の女神ムーサ(英語でミューズ)が住んだとされるヘリコン山がある。


 夕刻、オリンピアに到着。