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2026年5月30日土曜日

追悼・岸田秀

岸田秀が亡くなった。享年92、死因は老衰らしい。
いかにも彼らしい立派な死に様だと思います。

精神分析学者・批評家。
『ものぐさ精神分析』(青土社 1977) 以後、鋭く現代を批評する人でした。

蔵書の山から探し出すのが難儀なので、記憶から5つを書いて追悼します。


ひとつめ。
フロイトの精神分析を原点に、現代の人間と社会を鋭く (あるいは乱暴に) 切り裂きました。
それが単なる暴言に終わらなかった強さは、「人間の感じること・考えること」はすべて脳の中の「幻想」であるという確固たる立ち位置です。
別の言い方をすれば、「幻想」の対義語だと思われる「現実」なるものも「幻想」の産物でしかない、ということかと思います。

キリンの仔は生まれてすぐによろよろと立ち上がり母親についていく。
肉食獣の脅威を生き延びるためにそうやって生まれる。
しかし人間はキリンの仔と較べれば未熟児として生まれる異常生物です。
脳に即した身体を持たずに生まれてしまう。
その結果、人間はまず脳から世界を作り上げていく。
たとえば性欲も文化や教育を通して形成していかなければならない。「本能的な」性欲からほど遠い。だから人間の性は身体性と直結していない「幻想」(幻想で身体性にむりやりつなげている)。
性に限らず、人間関係も社会も国家もそういう「幻想」が作り上げ、意味づけしている(意味づけしないと困るからね)ものにすぎない。

岸田秀の言う「ネオテニー」はそういうものだと思います。

そういう視点からあらゆるものを見る。
「身も蓋もない」見方です。その破壊力は相当なものだと思います。

それがもっとも見事に発揮されているのが『嫉妬の時代』(飛鳥新社 1987、のち文春文庫)。
これがグサリと刺さる人は多いと思う。とりわけ現在においては。
ネットの発信者たちは今こそこの本を読むべきじゃないかとわたしは思っています。


ふたつめ。
岸田秀の「身も蓋もない見方」は、グサリと刺さると同時に、読む人に開放感をもたらすと思う。
「なーーんだ、そうだったのか」と。
そういう軽やかさへの方向性が発揮されたのが、伊丹十三が中心になった雑誌『モノンクル』
「モノンクル」は、もともとはフランスのタチ監督の白黒映画のタイトルです。「ぼくのおじさん」という意味。成り金の父親を見ている子供の視点から「なんの役にも立っていないどうしようもない」おじさんが与えてくれる開放感をみごとに描いている。
『モノンクル』はそういう開放感を与えてくれる雑誌でした。


みっつめ。
岸田秀の激しい破壊力。
その源は彼が一時学んでいたフランスのストラスブール大学にあるのだと思います。
いや、ちゃんと調べたわけではないのですが、
ストラスブール大学で学んだ人文系の他の日本人といえば田川建三。
徹底的な原典研究にもとづいて既存のイエス・キリスト像を覆し、教会神学の聖書理解を批判し、個人で新約聖書の全訳をなしとげた新約聖書学者です。

わたしは岸田秀と田川建三に同じ匂いを感じます。
(田川建三は、「岸田秀は俺と同レベルのフロイトの原典研究なんかしてないじゃないか」と怒り狂うと想像しますが)
ストラスブール大学には、そういう人たちを生む土壌があるんじゃないだろうか。


よっつめ。
岸田秀のフロイトとの深い関連の背景には、彼自身が書いているように、母親との複雑な関係があることです。
はしょって言えば、「母親は自分を愛しているように見えて、実は愛してなんかいなかったのだ」という痛苦の発見。
それが彼の破壊力の源のひとつだと思います。


いつつめ。
これは正確なエビデンスを挙げられないので書いていいのかどうかわからないのですが、
将来の「岸田秀論」を書く人のために書き留めておきたい。

1980年前後だと思うのですが、
ある私立大学の(わたしの記憶では)文学部の人気教授が、研究合宿かなんかで女子学生に、今の言葉で言えば相当激しいセクシュアルハラスメントをして新聞で報じられました。

その事件に対するコメントを求められた岸田秀は、
「そんなこと俺はしょっちゅうやっている」と発言したらしい。
(「らしい」と書いたのは、そのコメント自体をわたしは読んでないからです。それを読んだ信用できる友人が「岸田秀、すごいんだぜ」と話してくれました)

マスコミに対する批判・演技の発言だと思う。
でも同時に、事実無根と言い切れないところがいかにも岸田秀らしい。

岸田秀、女子学生大好きでそれを公言していたし、
学生だった女性が「その岸田先生をみんな好きだった」と書いています。

なんとなく太宰治を思わせる。
だらしないけど愛される、そういう人。



あの世でも身も蓋もない発言でまわりを困らせて、それでも愛されてしまうんだろうな、
と想像します。

心からご冥福をお祈りします。



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