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2012年1月16日月曜日

レジナルド・ヒル追悼

14日の夕刊にレジナルド・ヒルの死亡記事が出ていた。享年75歳。 

イギリスの推理小説作家です。 

わたしはイギリスの刑事物が好きで、P.D.ジェイムズ、コリン・デクスターなどめぼしいものはだいたい読んでいます。 


拳銃ドンパチのアクションはほとんどありませんが、人間観の複雑さがイギリス推理小説の魅力です。 

上にあげた作家たちは、コンビを組んだ刑事たちを主人公にしたシリーズものを書いていることが多い。亡くなったレジナルド・ヒルは、ダルジール警視とパスコー主任警部のコンビ。 

テレビドラマの『相棒』は、あきらかにこれらの作品に大きな影響を受けています。 



さて、レジナルド・ヒルのダルジール警視は、その中でも異色。 

中流階級の出身で、一言で言うと下品。 太った巨体もことば使いも。
部下のパスコー主任警部は、まじめなエリート。 

ダルジールは、パスコーをしょっちゅう皮肉る。いじめに近いくらい。 
パスコーはけっこう上手にそれを受け流す。 

お下劣なダルジールは、しかし人間の闇を見抜く洞察力の持ち主でもあります。 
事件を通じて、人間の複雑さ、せつなさが浮かび上がってきます。 



やはり『骨と沈黙』が最高でしょうか。 
結末がせつなく美しい。 


わたしがいちばん好きなのはP・D・ジェイムズなのですが、皆さんにはおすすめできません。翻訳がよくないのです。 

わたしは英語力をためすときにはP・D・ジェイムズを読ませます。これがわかれば上級だと思う。イギリス人ってこんなに皮肉に、かつ、しれっと人間を見ているんだなあ、ということがよくわかる
ひねりにひねった文体なんですが、翻訳者が原文のヒューモアや笑いやひねりをわかっていない。誤訳が多い。というか、わかっていないから日本語の文になっていないところがたくさんある。残念。 
(追記:2チャンネル11/2月に「『ある殺意』全面改訳版、読みやすくてビックリした 」との書き込みあり。これは目を通していません。他の作品も改訳がすすんでいるのかもしれません)


というわけで、おすすめはレジナルド・ヒル。その次がコリン・デクスターかな。 


レジナルド・ヒルさんのご冥福を祈ります。 合掌。

2012年1月5日木曜日

サブリナとホンブルグ帽

(一部ネタバレあり)

正月休みにツタヤで『麗しのサブリナ』を借りてきて見ました。ご存じの方も多いでしょうが、オードリー・ヘップバーンとハンフリー・ボガート主演、ビリー・ワイルダー監督のロマンティック・コメディーです。 

わたしが生まれた年にアメリカで公開された映画です。 
わたしは高校生の時に日曜洋画劇場で見ました。

サブリナパンツとサブリナシューズの元祖だとか言われても、その当時はファッションに関心がなかったので「オードリー・ヘップバーンきれいだなー」くらいの印象しか残っていません。あ、マーティーニというカクテルがあることをはじめて知ったのはこの映画です。 


こういうお話。 


アメリカの大富豪の家のお抱え運転手(ロールスロイスといっしょにイギリスから連れられてきた)の娘サブリナ(オードリー・ヘップバーン)が、パリで洗練された女性に成長して、富豪の兄弟の元にもどってくる。 

サブリナはチャラ男の弟デイヴィッドにずっと憧れていたんだけど、運転手の娘にとって彼への恋は「月を願うようなもの」。 

でもパリから戻ってきた美しいサブリナにデイヴィッドは夢中になって、婚約者を放り出しそうになってしまう。 

やったー!  月の方が手を伸ばしてきた。

ところが、 

仕事一筋のガチガチの実業家である兄ライナス(ハンフリー・ボガート)と、ひょんなことなら親しくなって、愛し合うようになってしまう。 

富豪の家にとって邪魔者となったサブリナは、手切れ金とともにパリ行きの船に乗せられます。失意のサブリナの前に・・・ 



あらためて見ると、よくできた映画です。 
半世紀以上前の白黒映画ですが、ちっとも色あせていません。 


なんで『サブリナ』を借りてきたかというと、 
とある知人の女性が 

「歩きのオスさん、帽子をかぶっているんだったら『サブリナ』をちゃんと見ないとだめよ」 

と説教(?)してくださったから。 


「え、帽子?」 

まったく記憶にありませんでした。 
でも、帽子がキーになってる映画でした。 


対照的な兄弟の生き方が帽子でみごとに表現されています。 

チャラ男の弟の方はおしゃれな白い帽子を、いかにも遊び人風にあみだにかぶっている。(最近の若い人々のあみだかぶりに対して、わたしは言いたいことがあるのですが別の機会にまわします) 

仕事一筋の実業家の(そして合理的な戦略家でもある)兄は黒っぽいホンブルグ(中折れハット)をかっちりとかぶっている。 


兄ライナスがサブリナにグラッときちゃうきっかけのひとつが、帽子なんです。 

「パリはすてきなところよ。あなたも行ったら人生が変わるわ」というようなことをサブリナは言いながら、「でもそのかぶり方じゃだめよ」と、ライナスのホンブルグをとり、つばの折り返しを片方だけパキッと下にまげて、斜めに(あみだじゃないですぞ!)かぶせてあげます。 

その瞬間、ライナスがくそまじめな実業家から、色っぽい男に変身する。ほんとに画面上でそうなるんです。 

それはサブリナにとってライナスが恋の対象になる決定的な瞬間でもあります。 


ラストの決定的シーンでもこのホンブルグがふたたび登場します。 


「すごい」と思いました。 
たしかに帽子をかぶる男は必見の映画でした。 



この映画、帽子以外にも見どころはいっぱいあります。 

帽子とか、靴とか、マーティーニとか、車とか、ドレスとか、要するに文化の産物ですね。 
それが、人間関係や恋をいかに陰影深く、豊かにするのか実感できます。 




そういうのって、要するに「都市の人間関係」なんですね。 

家族や恋愛というのは、そのままむき出しではドロドロのもんです。 
「むき出し、ドロドロこそ真実」と考える人もいるでしょうが、わたしはご免こうむります。 

「モノや文化を介在させて、むき出しドロドロを回避しようとするのが、都市の人間関係の本質ではないか」という最近考えていることを、あらためて確信しました。 

そういう人間関係は、決して冷たい嘘の関係ではないと思います。相手への敬意を持った距離と、恥じらいながらの親愛の表現を礼節とする関係です。 



そもそもなぜそういう人間関係の作り方が必要だったのかというと、都市というのは、価値観が違う何を考えてるかわからん人間が共存しなければいけない空間だからですね。 

価値観が割に共有されている地方では、そういう努力はまあ必要ないと言っていい。裏を返せば、そういう地方の価値観を共有していない人間は、地方では排斥される。地方出身のわたしが田舎が苦手な理由はそこです。 

テレビでやってる 
「田舎はあったかくて人情深くて、隣の人が野菜持ってきてくれたりしていいですね」 (それはそのとおりです)
みたいな番組の嘘くささは、地方のそういう闇を見ていないところにあると思います。 


わたしたち人間はみな生まれた地域や家の環境に規定されていて、その価値観に規定されている。都市はいろんな地方から人が集まる場所だから、たがいにローカルな価値観を持ち出したらたちゆかない。程度の差はあれ、それぞれが地方の価値観を超えなければならない。


で、自分が生まれた環境の規定から自由になるバネみたいなものが何かを考えるとですね、 
それは文化以外にはありえない。「教育」と言ってもいいです。 

わたしが文化を職業にしようと思った理由はそれしかありません。 
過激な言い方をするなら、文化のない人間は都市に住んではいけない。 
大学が都市にあるのは当然なのです(地方にあったっていいけど)。 





だから、帽子や服やお酒などの
「自分とまったく価値観の違う赤の他人が、遠慮深くお近づきになっていくための文化の産物」
を大事だと思っています。 

人間は長い年月苦労して、そういう文化とその産物を作り上げてきました。 
帽子や靴はただの商品ではないんだと思います。 

『サブリナ』はそんなことを、おしゃれに、軽やかに伝えてくれる映画でした。 





そうは言ってもむずかしいのはね、
文化の産物はそれ自体でとても魅力的なものだから、ほんとは赤の他人と親しい友人になっていくためのものであるはずなのに、それを忘れちゃって「モノさえあれば友人になれる」と思わせてしまうことなんだと思います。 

いちばん大事なのは「この人に近づきたい」という気持ちですよね。そのために努力して、苦労して、誤解されたりしてもめげずに近づこうとする。 
帽子やお酒や靴や絵や映画をとおして相手との距離を測りながら。




電車の中なんかで、殺伐とした会話を耳にすることが結構ある。 
仲良しそうなんだけどモノの話しかしていない。服だとか、ゲームだとか。 
いや、話題自体が悪いんじゃなくて、話題になっている「モノ」に対する理解がえらく紋切り型で、紋切り型のモノの呪文みたいなことばで会話が進んでいってる。 


微妙な感覚なんで伝わりにくいと思いますが、 
口調ができあいのものをなぞっている感じ、そういうものに何の違和感も感じていない感じ、とでも言うんでしょうか。 
そういう会話は両者ともかならず口調も声もずーっと単調で同じです。それがよどみなく続いていく。 


ほんとに仲良しなんかい、と突っ込みたくなります。 
同じモノを好きでも、共有するものと同時に、違和感や、ためらいや、ゆらぎがあるでしょうに。 

そういう感覚をずばりと言い当てられなくても相手に示すことで、「わたしってこういう感覚なんだけど。つまり、あなたと共通するところもあるが、ずれてるところもあって、でもあなたともっと仲良くなりたいから、そういうずれみたいなのをあなただけに言ってるんだけど」という、そういう気配がまったくない。 

たぶん、相手を好きだ、という自分の気持ちをそれ自体では肯定できない。 
モノを媒介にすることによってかろうじて肯定するしかない。 
(悪い意味での)オタクって、そういう肯定が脆弱な人なんだろうな、と思います。 

「友人や恋人というはつきつめれば裸一貫の勝負だ」という腹がくくれていない、と言えばいいんでしょうか。 





文化的産物は、ときにそういう弱い自分を自分に対して隠してくれる隠れ蓑になってしまいますね。 

そういう隠れ蓑を身にまとっている人を「文化的俗物」と言うんじゃないでしょうか。 


一生懸命ワインを勉強して(それ自体はいいことです)、金がある場合はヴィンタージを買い集め(いいことか悪いことかわからないが羨ましいことです)、うんちくを語るが、ワインがほんとうは好きでない人。 

あの画家の絵はすごいよ、と言うが、それは社会的にその画家が評価されているからで、自分ではすごいかどうかよくわからない人。 

そういう人は、アニメやゲームに関する紋切り型の語りを通じて「しか」友人を作れないオタク(あ、もちろんすてきなオタクもいます)と変わりません。 



『麗しのサブリナ』に戻ると 


この映画にもそういう人がけっこう出てきます。俗物ですね。文化的産物に呪縛された人々です。なんてったって上流階級が舞台ですから。 


でも、この映画がすばらしいのは、 

文化的産物は、人を好きになるためのものになったときだけその真価を発揮する 

というメッセージを送っていることです。 



ライナスがかぶっているホンブルグ帽は上流階級のまじめな帽子です。でも、サブリナはそれをちょっと細工することでライナスを色っぽい男に変身させる。ホンブルグ帽がチャラ男デイヴィッドのいかしたおしゃれ帽子に勝利をおさめる。 


パリでおしゃれな女性に変貌したサブリナが、いちばん魅力的なのは、パーティーで男性たちを惹きつけたジバンシーのドレス姿ではなく、簡素な「サブリナパンツ」と「サブリナシューズ」を悲しみの表情で身につけた姿です。 

紋切り型がくずれるときに、モノを通して愛が不意にその姿をあらわします。


そしてスフレも忘れちゃいけない。


ライナスとの恋の終わりを思い知らされたそのときのサブリナは、スフレを作り始めます。 
パリで通った一流料理学校で習ったとおり、ライナスの目の前で「手首のスナップがポイントなのよ」 と片手で卵を割って見せます。が、結局サブリナはスフレを作り終わらずにライナスに別れを告げます。 


しかし、パリの料理学校でのエピソードを記憶している観客は、この別れがほんとうの別れでないことがわかります。 


料理学校でスフレを作ったとき、サブリナは先生から「話にならん」と怒られます。 

先生からスフレを絶賛された隣の生徒は、なんと男爵のお爺さん。 
わかがわからないサブリナに「あなたはオーブンのスイッチを入れ忘れたんですよ」と教えてくれます。それから、 

「あなたは恋をしているね。そして、その恋は失恋じゃない。なぜなら、失恋するとスフレを焦がす。スイッチを入れ忘れるのは失恋じゃない」 

と言うんですね。 


サブリナパンツをはいたサブリナはスフレを作り終えずに別れを告げます。 
失恋じゃないんだよ、という男爵の声が聞こえるみたいです。 

それがラストシーンの予告になっている。 



「わたしが好きな人は手が届かない月みたいな人」とサブリナは男爵に言います。 
男爵は「今は月にロケットが行く時代だよ」とサブリナを励ます。 


社会階級の差を乗り越える力を持っているのは、皮肉なことに文化を愛してやまないかつての支配階級(男爵)の人物。ほんとうの文化は人を出自から自由にするんです。 


そういう文化の複雑さが描かれています。 
文化の虚実とでも言うんでしょうか。 


そのバランスはほんとうにむずかしいですよね。 


わたしは「実」に賭けています。 
ビリー・ワイルダー監督にはもちろんおよびませんが、サブリナがホンブルグ帽をくずしたように、着ているモノを下品に崩して愛を伝えたい(おお恥ずかしい)と思っています。エウリピデスのとんでもない解釈をして愛を伝えたいと思っています。わたしにとってはどちらも同じことです。 

2011年12月29日木曜日

悪徳の栄え

 「笑ってコラえて」でダーツの旅総集編を見る。田舎の愛すべき人々の言動を所ジョージとさんまが茶化しながらコメントしていくんだけど、東北の元ドラマーのおっさん(爺さん)が写ったときの所ジョージのコメントにはドキリとした。 
 ひとしきり茶化したあとで所ジョージはさんまに「でも俺らも気を抜くとあの人とたいして変わらないかもしんないよ」と言った。 

 おそろしい自己批評力です。 
 わたしは所ジョージやさんまとほぼ同世代だから、その感覚はものすごくわかる。 
迫り来る老いと格闘している世代です。まだ老いをほんとうには受け入れられない。 

 人によっていろんな格闘の仕方があると思う。 

 所ジョージは「遊び」という文化の虚構を武器に「楽しげなわたし」を演出し続けることで、老いと格闘している(あるいは老いを無視しようとしている)人だとわたしは思っていた。それはそれで大変なエネルギーがいるし、ほんとうの意味での教養と知性が要求される。もちろん所ジョージはそれだけの力量を備えた人だ。 

 でも、所ジョージはそういう自己像の構築の努力が、老いを前にした「勝ち目のない戦い」であることをちゃんと自覚している。そのことが今日のコメントではじめてわかった。わたしが思っていた以上にしなやかで強靱な知性の人なんだな、と感服しました。 


 うふふ、今日の話は若い人にはわからないよ。 




 「気を抜くと」というひとことが重い。所ジョージは気を抜いていない。現役の芸人だから。自分と同じすぐれた芸人のさんまも気を抜いていないことを所ジョージは承知していて、その上で自分たちが老いの崖っぷちに立って格闘していることを確認したかったんだと思う。とっさに出た戦友への連帯のことばだ。 

 でも、さんまは所ジョージほどすなおじゃないし、自分の芸風に会わないと判断したのか、「そーよなー」と同意したりせず、所ジョージのコメントを無視した。さんまはしかし内心ドキっとしたと思う。所ジョージが指摘した内容そのものと、それを平気で口にする所ジョージの懐の深さに。 


 郷ひろみも崖っぷちで戦っている人だ。あの鍛え上げた体と声には、老いの崖を背にした人間のすごみがある。若いときの郷ひろみにはあんなすごみはなかった。 



 今日も8km走ってトレーニングをしました。郷ひろみの足もとにもおよびませんが。気を抜くと坂道を転がり落ちるように体の線が崩れていく。 

 老い(の第一歩)とはそういうものです。
 


 最終的には老いを受け入れざるを得ないのでしょうが、勝ち目のない戦いを続けていく力はどこにあるのだろうか。

 そういうことをよく考えます。




 わたしより下の世代の、でも中年のある女性と最近飲んだおりに、彼女がしみじみと 

「この年になると悪徳ってとてもだいじなことですよね」 

と言った。 



 彼女は尊敬すべき人格の持ち主で、結婚していて夫を愛している。 

 でもね、夫ではない男にエロい気持ちになることをとてもいいことだと考えるようになった。 

そう彼女は言いました。 

 あー、誤解のないように言っておきますが、二人きりで飲んでいたのではなくて、私を含めたジジイ、ババアの集まりの席での話です。彼女はわたしを口説いていたわけではありません。人生哲学を語っておったのです。 


 老いが迫る中で、エロい気持ちは純粋に自分が生きているという感覚を与えてくれる。若いときはいけないこと、してはならないこととして否定したきたそういう意味での「悪徳」が、今ではとてもすなおに肯定できる。 


 彼女のお話しは、一同の深い賛同を得ました。 

「でもねー、それで家庭を壊しちゃったらだめだしねー。そのバランスがほんとにむずかしいよねー」 

というまっとうなコメントは当然出ましたが。 


 考えてみれば「エロい気持ち」って、すなおな子供になることなんではないか。「あのアイスクリーム欲しいよー」みたいに。 


 子供は老いの対極にあるものです。 
自分の中に子供の気持ちがわきおこるとほっとします。 


 みんな老いと格闘しているんだなー、としみじみ感じた飲み会でありました。 






 

2011年11月16日水曜日

ツマミをつまむな!

忙しくて1月近く投稿していませんでした。
埋め草として昨年別のところで書いたものを再録します。




ツマミをつまむな!


今日の日記は、今までこれを知らなかった人には絶対に役に立ちます。 

わたしは帽子が好きで帽子屋によく入ります。 

が、いたたまれない思いをすることが多い。 


先日もある帽子屋で帽子を選んでました。 
イタリアのボルサリーノの帽子が棚に並んでいます。 
わたしの隣で若いカップルが帽子を選んでいました。どうやら女の子が男の子にプレゼントするらしい。 

感じの良いカップルでした。 



しかーーーーーし!!!!!!!!!!! 



ふたりとも帽子のツマミを持って試着している。写真の左上部のちょっと凹んだところがツマミです。 

これは(帽子店の中では)絶対にしてはならないことです。かなりの人がそうしていますが。 

見ている店員がハラハラしているのがわかりました。 
高級なボルサリーノですから。 



帽子の山(クラウン)はたいへん微妙な細工が施されている。ツマミを持つと型が崩れやすいのです。 

帽子を着脱する時には両手でツバを持つ。ツマミに触るのは、挨拶をする際にちょっと持ち上げる時だけ。 

荷物を持っていて両手が空いていない時はどうするか。 

荷物を置けばいいのです。コートと帽子をクロークに預ける時もそう。二ついっぺんに渡そうとすると片手でツマミを持たなくてはなりません。順番にテーブルに置けばよい。 

買った自分の帽子ならもちろん何をしようと自由。ツマミを持つと長持ちしませんが。 



棚にはちゃんと「ツマミを持たないように」という注意書きの小さな札(ふだ)が置いてあるにもかかわらず、カップルはほとんど鷲づかみのような持ち方をしていました。 

わたしは耐えきれなくなり、ニッコリ笑いながらできるだけ柔らかいことばで上のことを説明して注意しました。本当は「おれが買おうとしている帽子をつぶすんじゃねーよ」と凄みたいところでしたが、そこは大人ですから。 

二人はムッとして店を出て行きました。 

感じの良いカップルだったので注意などしたくなかった。でも帽子屋に入るなら知っておくべきことだと思い、教育的配慮から嫌われ者を演じました。美しいボルサリーノを作った職人を冒涜してはいけません。 

「ほんとに困るんですけど、わたしたちからはなかなか言えないんですよ」 
店員さんからはお礼を言われました。 

あなたが帽子のツマミを持って被る時、帽子屋の店員さんたちと帽子を愛するお客さんたちは心を痛めているのです。