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2016年3月9日水曜日

まっとうなことば

まっとうなことばというものがマスコミに大々的に伝えられるのを久しぶりに経験した気がします。

「保育園落ちた日本死ね!!!」と
ジャイアンツ高木京介選手の野球賭博謝罪会見。



言語は不自由で厄介なものです。
わたしたちは、もうすでに存在してしまっている「日本語」ということばの世界にあとから参加するかたちで生まれます。
自分で選んだわけじゃない。
日本語に限らず、どんな言語だって、「わたしの思い」を表現しきれない。
言語とは本質的にそういうものです。
だから、ある言語を「自由自在に使いこなす」ということはあり得ません。

だけれども、フェルディナン・ド・ソシュールが言うように、言語なしにわたしたちは「考える」ことすらできません。
「こんな思い、ことばになんかできない」
と紋切り型のロックは歌いますが、
「こんな思い、ことばになんかできない」って、ことばじゃないですか。

ことばの不自由さや厄介さは承知の上で、
なんとかして「こんな思い」を表現し、伝え、
逆に人の(不十分な)ことばの向こうに「あんな思い」を読み取ろうとする。

それがまっとうなことばのやりとりだと思います。
そういうまっとうなことばのやりとりを実践して見せること。
それが大人の大事な役割のひとつです。


安倍首相をはじめとする自民党の政治家たちはそういう役割をはたしていない。
彼らの発言内容はとりあえず置いておきます。
内容よりももっと深刻なのは、彼らの話しぶりが
「ことばは空疎で無力な使い方をするべきなのだ」
ということを若者たちに教育している点だと思います。

質問にまともに答えない。
まっとうなことばの「やりとり」をしない。
「そっか、それがことばの使い方なんだ」と若い人は思うと思う。



「保育園落ちた日本死ね!!!」は、
伝えようとし、相手にことばを受け取ることを要求するストレートなことばでした。
それを「まっとうなことば」だと感じる感受性を阿倍は失っていた。
いや、「まっとうなことば」が存在するのだ、という感受性すらなくしていた。
(まっとうなことばをひたすら避けてきたのだから感受性がなくなるのは当たり前、とも言えるでしょうが)
誰が書いたかわからない、相手にするべきではないことば。
そう受け取り、そう公言した。

「保育園落ちた日本死ね!!!」を誰が書いたっていいと思います。
あれは多くの母親たちが政治家に受け取って欲しいと思っていたことばだから。
幼子を抱える母親たちと会見せざるを得なくなった大臣のことばのなんと貧相でみじめなこと。そして母親たちのことばが、それとは対照的になんと知性的で強い力を持っていたこと。


そして高木京介選手の謝罪会見。
まともな「謝罪」を聞くのは何年ぶりでしょうか。

事件が起きると会社や関係機関のお偉方が頭を下げる。
判を押したように「ご迷惑をおかけして」申し訳ありませんでした、と言う。

問題は「迷惑をかけた」ことじゃないでしょ。
「悪を行った」ことが問題でしょ。

高木京介選手は、何も背負わず、「自分ひとり」で立って、正面を向いて、自分なりのせいいっぱいのことばを使ってしゃべっていた。
裸一貫のことばです。

「迷惑をかけて」と言わなかった。
多くの人を「裏切って」すみませんでした。
「野球賭博をしてすみませんでした」。
そう言った。
「わたしは悪をしました」という、当たり前だけど昨今なかなか聞けないまっとうな謝罪でした。

自分のことばで責任を取る。
そういう覚悟に満ちあふれていました。
同時に、ことばだけで責任を取れない、その重さを感じていることもひしひしと伝わってきました。
それでも社会に対しては「ことば」で伝えるのだ、
高木京介はそういう「ことばへの覚悟」を体中で表現していました。

おそらくひたすら野球だけをやってきたであろう26歳の若者の
乏しい語彙と何のレトリックもないことばが、
高等教育を受けて「効果的な話し方」の訓練などを受けてきたであろう会社や役所のお偉方の形だけの謝罪をはるかに超える力を持っていました。

伝えようとすることば。
そういうことばを苦労しながら使い続けることによってしかことばの希望はないと思います。


「保育園落ちた日本死ね!!!」と高木京介選手の謝罪会見は、
多くの人にそういう希望を与えてくれたと思います。



2016年3月3日木曜日

虚実あい乱れる快作『ちかえもん』——NHK時代劇をめぐる断想

NHK大河ドラマは第2作『赤穂浪士』からリアルタイムで見ています。
とは言ってもこの20年くらいは暇じゃないのでちらちら見る程度。
暇じゃないだけが理由じゃない。
伝統の縛りが重くなっている感じがして、解放感がない。

わたしは1978年の『黄金の日々』と2013年の『八重の桜』が好きです。

『八重の桜』は大河ドラマの枠から外れず、しかし敗者の視点から描かれた傑作だと思う。これは例外的にほとんど全部を観ました。会津城攻防戦の綾瀬はるかはほんとに輝いていた。
前年の『平清盛』はさんざんの評判でしたが、大河ドラマの縛りに全力で抵抗した怪作ぶりは評価すべきだと思っています。

それにしても「大河ドラマ」という伝統の縛りは重い。




これに較べて同じNHKの日曜日以外に放映される時代劇は、伝統の縛りがないせいか、見ていて解放感があります。
のびのびと作っている感じが伝わってくる。

『妻は、くノ一』は新しさと伝統がないまぜになった名作だったと思います。


新しさは。

市川染五郎演じる主人公が武術がまったくだめで、(元)妻の織江(瀧本美織)が非情すご腕のくノ一だというところが新しさの要素。
というより日曜以外の時代劇の「新しさという伝統」と言った方がいいかもしれません。
すでに『浪速の華〜緒方洪庵事件帳』の医者・緒方洪庵(窪田正孝)と男装の剣客左近(栗山千明)のカップルにも見られた組み合わせです。
両作とも最後が切ない。
瀧本美織、栗山千明がかっこよく魅力的です。

『妻は、くノ一』の「伝統」の方は「大河ドラマの伝統」ではありません。

もっと広い意味での時代劇の伝統。

昨今の時代劇の剣戟の凄みのなさには目を覆うばかりです。

俳優と剣戟グループに身体能力はあると思う。
だけれども「侍のたたずまい」がない。
だから斬り合いの場面が「剣戟」ではなく「アクション」になってしまう。

いずれ本腰を入れて書きたいと思っていますが、

たとえば『剣鬼』(1965年) の市川雷蔵のような、
剣を抜かずとも、立って歩くだけで立ちのぼってくるような静かな殺気。
そういう姿勢と身のこなしをできる役者が数少なくなっていると思います。

『妻は、くノ一』でひさしぶりにそういう身のこなしに出会いました。

松浦静山を演じる田中泯。
舞踏家です。
わたしは学生の頃、彼のワークショップに一度参加したことがあります。

それきり縁がなかったのですが、

映画『黄昏清兵衛』の川縁での迫力ある斬り合いをする人物を演じたのが田中泯だと知って、ああなるほどと合点がいきました。

『妻は、くノ一』の瀧本美織はがんばっているけれど、侍の動きではない。
でもそれはそれでいい。だってくノ一なんだもん。
(『浪速の華』の栗山千明はけっこうすごかったのかも)

そういう中で、田中泯は座って歩くだけで殺気があった。
彼の体によって『妻は、くノ一』はちゃんと「時代劇」になっていたと思います。
今や滅びつつあるほんとの「時代劇」の伝統を体現していた。


で、今日最終回を迎えた『ちかえもん』。
これは『妻は、くノ一』とは対照的なハチャメチャな快作でした。

『曽根崎心中』を書く前の、鳴かず飛ばずの浄瑠璃作家近松門左衛門が主人公。

うだつの上がらない彼が郭(くるわ)で巻き込まれる複雑な事件が、「時代劇」の枠をこともなげに打ち壊して自由奔放に描かれます。近松を演じる松尾スズキが昭和歌謡まで歌う。

松尾スズキが毎日新聞に書いているように、
かつてのNHK時代劇『平賀源内』(1971-72年)を髣髴させるハチャメチャぶりです。
(『平賀源内』好きでした)

役者たちはもちろんいい。

商人平野屋忠衛門を演じる岸部一徳。そのダメ息子徳兵衛を演じる小池徹平。
ま、岸部一徳は何やったって存在感あるから改めてコメントする必要もないのだけれど、
小池徹平が回を追うごとに良くなっていった。
最後の2回は泣かせる。
優香も地味にいい。

そして今日の最終回のどんでん返しのみごとさ。

親不孝になる「不孝糖」というけったいな飴を売る万吉(まんきち)
彼は狂言回しの近松を上回るトリックスターなのですが。

その万吉の正体が最終回で明かされる。
胸を打ちます。

人情ドラマ的な胸の打ち方ではない。
ネタバレ恐れずのわたしですが、
今日ばかりはネタバレしたくない。

人情ドラマは言ってみれば「実(じつ)」です。
ほんとのところは「実」じゃなくて虚構にすぎないのですが、
「これこそが人生の実なんですよ。泣けるでしょう」
とつけ込んでくる「実」。

万吉の正体は「実」ではなく「虚」だ、とだけ書いておきます。
「虚」だからこそわたしは胸を打たれました。

わたしたちは「虚」によって救われることがあるんだ、
としみじみ思いました。

文化は「虚」です。
「虚」だからこそ人を救う。

制作者たちのそういう思いが、おもしろおかしく、しかしひしひしと伝わってきた最終回でした。

掛け値なしの快作。おすすめです。



2016年2月23日火曜日

ミーカとモントリオール交響楽団



このところ「ミーカとモントリオール交響楽団」というアルバムを車中で聴いています。
FMで最近このアルバムの曲がときどきかかっているので買いました。

ミーカ(Mika) については「MikaとA.E.ハウスマン」という投稿をしたことがあります。
レバノン生まれのイギリスのシンガーソングライター。

知的な詞と音がクイーンを思い起こさせる。
声と歌唱法もフレディ・マーキュリーを髣髴させる(フレディより線が細いけど)。
デビューしてから「第2のフレディ・マーキュリー」みたいな役割を期待されたらしいこと、そのことに当人がうんざりしてたことは「グレース・ケリー」という曲を聴くとよくわかります。
「僕はフレディ・マーキュリーじゃないんだ。僕は僕なんだ」
それを皮肉に満ちた詞にしてしまう才覚がすてきです。

一方で、レバノンという複雑な政治事情を抱える国の出自ならではの「文化を越える歌」への並々ならぬ熱情があります。
「ヒーローズ」はそういう平和への希求の祈りの歌。

詞と曲と音が好きでずーーーっと聴いてきました。



だけれど、この人は歌い手としてほんとうにすごいのだろうか、という思いも頭の片隅にありました。

若い頃イギリスに留学してたときに、日本で聴いていた若手のシンガーたちのライブに行って「ああ、この人の曲は録音の加工でつくられたものだったんだ。へただ」と思ったことが何度かあります。
そして悲惨だと思ったのは、
歌っている歌手自身が「自分のヒット曲は加工された産物なんで、自分は本当の実力がないんだ」ということをうすうす気づいていること。
気づいているからパフォーマンスに余裕がない。脂汗を垂らしながら歌っている歌手もいた。

ミーカもその類の歌手じゃないだろうかというかすかな危惧を抱いていました。


が、杞憂でした。
「ミーカとモントリオール交響楽団」は 2015年のライブ盤です。
「ちゃんと歌ってるよ」と思いました。録音技術で作られた声ではない。

オーケストラの編曲もいい。
「グレースケリー」みたいな皮肉を交響楽の音でどう表現するんだろうと想像していましたがみごとな音にしています。上で触れた「ヒーローズ」も、私の好きな「アンダーウォーター」もいい音です。



そして「ラストパーティー」「ヒーローズ」という「理不尽な現実にあえて対抗する平和の祈りの歌」のティンパニーの音がとても印象に残りました。

祈りにはリズムが不可欠です。
ティンパニーが祈りにふさわしいリズムを刻んでます。

そしたらふと、
「SEKAI NO OWARI」が思い浮かんだ。

「SEKAI NO OWARI」は基本的に祈りの歌だと思っています。
彼らの曲にも古式豊かな打楽器の音が鳴り響く。

モントリオール交響楽団という伝統の音によって、ミーカの歌は「祈り」の度合いをうんと高めている。いいアルバムだなと思います。

2016年2月21日日曜日

ひと区切り

「パイエーケス人の園」を始めて4年半。
昨日、アクセスが 10万 を超えました。

特に根拠があるわけじゃないのですが、
始めるときに「とりあえず 10万アクセスを目指そう」と決めました。
右肩上がりにアクセス数が増えて、予想より少し早くたどり着きました。
現在は月6千前後のアクセスかな。

投稿がたまってきて、ジャンル別にブログをわけようかと思ったりもします。
しかし、
料理と政治とファッションと音楽と文学と哲学を同じスタイルで書く、
というのが大事な気がしていて、しばらくはこのままの寄せ鍋状態でいくつもりです。
ブログ内で検索できることだし。


最初の2年は「ムサカの作り方」がアクセス数 No.1 でした。
その後、「古屋兎丸論その1〜その3」がかなりのアクセスを集めて、通算で3万アクセスを超えています。
『ライチ光クラブ』についてかなり長く書いたものです。

そしたら。
年末に雑誌『ユリイカ』の編集者から、古屋兎丸特集号に論考を書いてくれないかとの依頼のメールが届きました。

ブログを読んでくださったようです。
「どこかで誰かに読まれてるんだな」という当たり前の事実がうれしい驚きでした。

もちろん引き受けました。
『ライチ光クラブ』ではなく『インノサン少年十字軍』についてなんですが。
27日発売予定の『ユリイカ』3月号に掲載予定です。
専門以外の分野の仕事がこんな形でやってきました。

仕事目的でやっているわけではありません。
でも、どこかで読んでいる誰かのために、これからも更新し続けようと思います。


2016年2月20日土曜日

ウンベルト・エーコ追悼

ウンベルト・エーコが亡くなった。
イタリアの記号論学者、哲学者、文化史家、小説家。
たくさんの顔を持つ魅力的な書き手でした。


エーコの記号論についてさっさか紹介するわけにはいきません。
世の中にはひとことで言ってしまってはいけないことがあります。
(ひとことで言ってしまってよいことももちろんあります)
大学とか研究とかは、そういう「ひとことで言ってしまってはいけないこと」を扱うのが仕事です(だから大学の授業の1コマは長いのです)。
エーコは「ひとことで言ってしまってはいけないこと」に、ねばり強い論理でとり組み続けた人でした。
彼の記号論は、言語≒記号とは何かというやっかいな難問にねばり強く取り組んだ成果です。


だからそれをここで簡単に紹介しようとは思いません。
でもエーコの記号論を紹介するのではなく、あえてひとことコメントをすれば。
彼の議論はエネルギッシュで、冒険的で、緻密で、知的な読者をわくわくさせるんだけれど、どの著作にも共通して「笑い」「ユーモア」があります。

たとえば、記号学の大先達、フェルディナン・ド・ソシュールは、人文系の人間なら必読なんだけれど、読んでてきつくなるときがあります。
論理のドラマチックな展開にわくわくしはします。でも頭をフル稼働させないとわからない。
当然と言えば当然。
『一般言語学講義』はジュネーヴ大学での講義を学生のノートから再構成したものだ、
というなり立ちもあるし(ソシュールが読み手を想定して書いた書物ではないということです)、なにより記号論はずばぬけて頭がいい人間にしかできないものだから。

エーコも超弩級に頭がいいと思う。難しいです。
でもときどきニッコリ笑っているエーコが垣間見える。
だから難しいけれど読むのが楽しい。
スイスのソシュールはフランス語圏の人、エーコと並ぶ記号論学者のジュリア・クリステヴァもフランス語で書いている。

わたしのフランス語とフランス思想の理解はたいしたことないのですが、
フランス思想には、部外者から見ると息が詰まるようなきまじめさがある。
特にクリステヴァの息苦しさにはまいる。

フランスをはさんだイギリスとイタリアは、
難しい問題を論理的に語るときにも遊びがあります。
テリー・イーグルトン
『美のイデオロギー』
紀伊国屋書店,1996

記号論ではない文学研究者だけれど、イギリスのテリー・イーグルトンなんかも笑いがある。文体がそもそもべらんめえで生きがいい(わたしはイーグルトンを「イギリスの吉本隆明」だと思っています)。『美のイデオロギー』なんかあちこちで大笑いしてしまいます(残念ながら邦訳はその笑いを伝えてくれてないんですが)。





エーコはイーグルトンとは違うイタリア人の笑い。おしゃれ。
(でも二人とも、難しいけれどやっぱり考えた方がいい問題を、ユーモアを交えながら楽しく考える。エーコもイーグルトンもわたしは好きです。)




エーコの記号論を語るのは大変だから(いつかきちんと語りたいと思ってますが)、

追悼に、小説『薔薇の名前』のことを書きます。
(ここからさきネタバレがあります。注意)
『薔薇の名前』(上下)
東京創元社, 1990

映画『薔薇の名前』

世界的なベストセラーになりました。
川島英昭の邦訳も労作だと思います。

(ショーン・コネリー主演の映画も「よくぞここまでコンパクトに収めた」と感心する名作。ただし映画を見て『薔薇の名前』がわかったと勘違いしないように)



中世イタリアの修道院で起きる連続殺人事件に修道士ウィリアムが挑む。
しかし『相棒』や東野圭吾の加賀恭一郎ものみたいなのを期待してはいけません。

いや、推理小説の本道をはずしてはいない。
サスペンスはあるし殺人事件の謎解きもみごとに遂行されます。
まずはおもしろい(と思う。そうじゃないとベストセラーにならない)。

だけれども事件を構成する細部の構築がただごとではない。
「神は細部に宿る」
を実践するようなストーリー展開です。

カトリック神学の論争や、お手の物の記号論(もちろん小説だから小難しい理論は言わない)まで、壮大な知のページェントが繰り広げられます。
『黒死館殺人事件』
が収録されています

『薔薇の名前』は、そういう知的エンターテインメントとして読まれた面が大きい。
とりわけ日本ではそうだったと思う。
小栗虫太郎『黒死館殺人事件』みたいな推理小説として。




しかし。

わたしは、『薔薇の名前』は、とりあえず知的エンターテインメントではあるけれども、
当時のヨーロッパが抱える問題にエーコがガチンコでぶつかった小説だと思っています。

当人たちがあからさまには言わないから見えにくいのですが、ラテン系の知識人は基本的に左翼です。
ま、それは言い過ぎだとしても、共産「主義」とは一線を画しながらも、マルクスを思想としてどう受け止めるかが20世紀西ヨーロッパ思想の最重要な問題だったのは確かだと思います(マルクスと並んでニーチェとフロイトも最重要な問題だったのですが、とりあえずそれは置いておきます)。

『薔薇の名前』はヨーロッパの左翼思想が行き詰まった時代に書かれている。
イタリアの極左組織「赤い旅団」がアルド・モーロ元首相暗殺事件を起こしたのが1978年。
『薔薇の名前』が出版される2年前です。

エーコは、左翼思想を時代遅れだとあっさり「清算」するのではなく、行き詰まった左翼思想が提示した問題をちゃんと受け止めて乗り越えようとしたのだと思う。

山上の修道院に集まるさまざまな思想背景を持つ修道士たち。
彼らは行き詰まった左翼思想家だと思う。
『薔薇の名前』の神学論争は、1980年という時代背景の中に置いて読むとわかりやすくなる。
それぞれは社会をあるいは教会を「正しい姿」にしようとする善意の人間。
だけれどもそういう「善意の知識人」が陥る悪への隘路。


連続殺人事件はそういう隘路の終着点です。
アリストテレス
『詩学』

修道院図書館にある一冊の本が事件を解く鍵となります。
アリストテレスの『詩学』。

『詩学』は悲劇論の部分だけが現存しています。
しかしもともとの『詩学』には、悲劇論のあとに喜劇論が続いていました。その喜劇論は失われています。



『薔薇の名前』の14世紀の修道院図書館には、現存していない「喜劇論」の写本があった(言わずもがなですが、エーコが考え出したフィクションです)。

それが殺人事件を解く鍵であるのと同時に、
当時の西ヨーロッパ政治思想の混迷に対するエーコなりの解答になっています。

思想には「笑い」が必要だ。
それがエーコのひとつの解答です。



そうすると、『薔薇の名前』にとどまらないエーコの著作全体を貫通する大きな視点が見えてきます。

彼が書くものに共通する「笑い」。
それは単なる読者へのサービス=エンターテインメントではない。
エーコの全思想がこめられているのが「笑い」なんだと思います。
思想は「悲劇」であってはならない。「喜劇」としての思想が人間を救う。
エーコの思想をあえて乱暴にひとことで言うとそれだと思います。

しかし。
脳天気に笑うことは簡単ですが、複雑で悲惨な現実をまっこうから受け止めながら笑い続けることはとても困難です。
エーコはその困難な道を歩き続けました。

心から哀悼の意を捧げたいと思います。




2016年2月17日水曜日

右京の同級生——『相棒』Season14

(ネタバレあり。注意!!)

見終わって「人となり」ということばがまず思い浮かびました。
「生まれつきの性質。天性。本性。」と『スーパー大辞林』にあります。

古代ギリシア人はそういうものを「ピュシス」と呼びました。
「自然」と訳されたりもします。
しかし、ピュシスは「生まれついている」ということばと同語源のことばで、日本語の「自然」と違うところは《あらゆるものには何かに向かってゆく必然性・方向性があらかじめ定められている》という感覚ではないかと思います。

どんぐりは姿が樹と似ても似つかないけれどもやがてコナラ属の樹になっていきます。
アボカドの種はアボカドの樹になっていく。
そういう方向性を種にしてすでに定められている。
「ピュシス」は植物をイメージするとわかりやすい。



外国人労働者をめぐる事件が題材でした。
不法滞在をしてでも母国の家族のために働かなければ人たちがいる。
彼らを助けるためには法を犯すこともいとわない女医小峰律子。
彼女は小学校時代、ほんの短い期間だったけれど右京の同級生だった。

一方で、彼らに仕事を斡旋する悪辣な社団法人がある。その社員が殺害される。
小峰律子と彼女に助けられている在留外国人が、殺人事件に関係があるらしい。

犯人は「弱きを助け強きをくじく」正義を選択した人物。
小学校時代、家が貧しいがゆえに盗みの疑いをかけられた少女を疑った教師に異議を唱えた小峰律子もまた「法が弱き者を助けられないのなら正義ではない」という信念のもとに犯人と同じ立場に立つ。
犯人も小峰律子もそういう「人となり」の人間です。

悪辣な社団法人の男はその対極の「人となり」の人間。
異国との架け橋になるという美辞麗句をキャッチフレーズにしながら、
実は私利をむさぼる男です。

二種類の「ピュシス=人となり」のどうしようもないギャップがみごとに描かれていたと思います。



だけれども。
ピュシスが決定的なのでしょうか。

事件解決後の小峰律子と右京の対話がとてもいい。
正義の子だった小峰律子が転校していったとき、ただ一人見送りに来たのが右京だった。
右京は小峰律子に自分と同じピュシスを感じていた。

そういう小峰律子が「法が弱き者を助けられないのなら正義ではない」と言う。
そして右京に「でもあなたが考える正義はそれと違うのね」と言う。
右京は「ええ、違います」ときっぱりと言う。

同質のピュシスをお互いにわかっていながら、
ふたりともお互いの考え・思想の違いを躊躇なく確認しあえる。

思想はピュシス(天性・本性)ではない。
それぞれが練り上げてきた産物です。
それをギリシア人は「ノモス」と呼びました。
「文化」と理解してもいいです。
アボカドの種はアボカドの樹になるべく運命づけられているのだけれど、
どんなアボカドの樹になるのかは文化によって変わってくる。

小峰律子と右京は、それぞれ違う文化を通じて自分の「正義」の思想を築き上げてきました。
二つの正義は、右京が言うように「ええ、違います」。

逆説的で伝わるかどうかわかりませんが。
右京の「ええ、違います」にもかかわらず、
二人の友情にはまったくひびが入らない。
二人ともそのことを確信している。

その確信はどこから来るのでしょう?
同じピュシスを共有している、ということしかないと思う。

悪辣な社団法人の男とは相容れないピュシス。
たがいに違うのだけれど、ともかく「正義」を優先させなければならないというピュシス。
二人のピュシスには品格があります。
品格をたがいにわかるからこそ、思想というノモスがいくら違ったって絆は揺るがない。


友達ってそういうことなんじゃないか。
「人となり」はどうしようもない。
どうしようもないけれども、同じ「人となり」を共有していると確信しあえているかどうか、それが友達であることの根源的な意味だと思いました。


品格のない人間は友達を持つことはできない。
お金で買えないものは確実に存在します。
それは友達ですよ。


そんなピュシスとノモスの複雑な関係を考えさせられた今日の『相棒』でした。

2016年2月13日土曜日

懐かしの書斎

吉祥寺で遅めのランチをとりました。
コピス近くの通称「ペニーレイン」をのぞく。
「コペ」はすばらしい定食屋なんですが、アルコールを飲みたいのでやめにしました。

ふと目にとまったのが「John Henry's Study」!!!

なんでびっくりマークをいっぱいつけたかというと。
40年ほど前、学生時代にときどき来て飲んでいたバーなんだけど、
すっかり記憶から消え去っていたのです。
帽子はわたしのです

古びた階段をのぼって3階がバー、2階がカフェ。

2階でランチを食べることにしました。
懐かしい。

ハンバーグ・ロコモコ風を頼みました。

味はふつうです。
昔はおいしいと思ってた。
味が落ちたわけではないと思います。
学生時代に通っていた東小金井の中華料理屋(いまだ健在)に数十年ぶりに行ったときに、「あ、あのチャーハンの味だ。」と懐かしく思うと同時に、
ご飯の炒め方がいまいちで味も感心しなかった。
こちらの舌が変わってしまったのですね。複雑な気持ちになりました。
「John Henry's Study」もそれと同じ。


グラスワインの赤を頼む。

わたしの好みではないのだけれど、
独特の果実味があって、ハウスワインという感じじゃない。
量はたっぷり。「安くなさそうだな」と思いました。
ら、案の定、お安くなかった。
コーヒーは薄かった。

でもいいんです。

古びて風情があるし、遠慮なくタバコ吸えるし。
今度は夜に3階のバーに来ることにしよう。


そのあとはあちこちウィンドウショッピング。

ふつうそうに見えてふつうじゃないジャケットとスーツが「ポールスミス」と「Takeo Kikuchi」に。すてきなシャツが「ポールスチュアート」に。
でも、こういうのを買ってたらきりがない。

しかし、「トゥモローランド」にすばらしいジャケットがありました。

これは試着してグラリときた。
「トゥモローランド」だからお安くない。迷ってます。


時間は前後しますが、
馬刺しのカルパッチョ
木曜日に友人三人と、何度か投稿したことがある「ザ・パッション」で夕食をとりました。
三人とも「ザ・パッション」ははじめて。
そしていい舌をしてます。
ヨーロッパでいろいろ食べてるし、うち一人はイタリアに一年在住してた。

牛ギアラとほうれん草煮込み

「ザ・パッション」、気に入ってくれるかちょっと不安でした。


気に入ってくれた。


みんな内臓料理が好きで、さいわい「牛ギアラのほうれん草煮込み」があった。

「馬刺しのカルパッチョ」、なんだか正確な中身を忘れたグラタンも好評でした。
ワインのセレクトも当たり。


なんだか忘れたグラタン。おいしかった。
翌日が休日じゃないせいか、店はわたしたちで独占状態。
気兼ねなくおしゃべりして楽しい時を過ごしました。
グラスワイン4杯+ワイン2本、いろいろ食べて1万8千円ちょっと。
リーズナブルです。