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2016年1月27日水曜日

「伊丹刑事の失職」——『相棒』Season14

(ネタバレあり。注意)

今日の『相棒』、殺人事件の謎解きとして凝ったつくりになっていたと思います。

伊丹刑事が自殺だと判断した女性の死が、独占スクープされた殺人犯の告白手記によって殺人事件だと覆される。
自殺の判断をした責任を問われて失職の危機に瀕した伊丹。
右京は、伊丹のために事件の複雑な背景を明らかにしていく。その過程がなかなかみごとです。

けっこう満足したのですが。


二つ小さな不満があります。

ひとつ目は「伊丹刑事の失職」というタイトル。
『相棒』のファンなら「ついに伊丹が失職するのか。すわ一大事」と思ってしまう。
思ってしまうから見る。
それを狙ったあざとさがあります。

前回の「陣川という名の犬」も、センセーショナルなタイトルでしたが、
それにはきちんとした理由があったと思います。
そのことは前回の投稿で書きました。

でも今日のタイトルは、脚本から肯定できる要素が少ない。
実際には伊丹刑事は失職しないのですから。



ふたつ目は、
脚本の問題というより、監督・演出の問題なのかもしれません。

詐欺事件の被害者の息子、大庭(おおば)が、
犯人をかばい、彼に協力する。

殺された女性は詐欺グループの一員なのですが、
犯人から彼女の写真を見せられた大庭が「この女です」と言ったことによって、
犯人は詐欺の決定的証拠をつかむ。

だけれど。

そのあとに、右京たちから聞き込み調査を受けたとき、
写真を見せられた大庭は同じように「この女です」と証言する。

大庭と女がすれ違うシーンが回想で流れる。
「この女です」ということに大庭がはじめて気づいたかのように。

でも上に書いたように、大庭はすでに女が詐欺グループの一員であることを知っています。(ただし、知っていることが視聴者にわかるのは後半になってから)

だとすれば。
大庭は右京たちに対して、
はじめて気づいたかのように演技をしたことになりますね。

最後まで見終わってようやくそのことがわかったわたしは、腑に落ちなくてしばらく考えました。
なぜ大庭は演技をしたのだろうか?

大庭は犯人(新聞記者)に詐欺を暴いて欲しかった。
それが自殺した母親の復讐になるから。
大庭本人がそう言っています。

そしてたぶん大庭は警察にも詐欺を暴いて欲しかった。
しかし、自分が、女=詐欺グループの一員であると知っていたことが警察にわかると、
警察が犯人にたどりつく可能性がある。
犯人を守りたい大庭は、
だから「はじめて気づいたかのように」演技をした。

わたしはそう考えました。
そして脚本の意図もそうだと想像します。

しかし、
女とすれ違う回想シーンの撮り方は、
ほんとうにはじめて気づいたかのような印象を与えます。
大庭の目から見たアングルの女の顔のアップがありますから。
時系列(ストーリー)は、犯人との場面が先、右京との場面があとですが、
描かれる順序(プロット)は、右京との場面の方が先だからなおさらです。

つまりは、
わたしがいろいろ考えたようなことを封じるようなシーンだと思います。
あえて強い言い方をすれば、視聴者を欺いている。

もちろん、推理ドラマに視聴者を欺くシーンはあっていい。
あっていいけれども、最後に「あ、あのシーンはそういうことだったのか」と納得できるような
ヒントを潜ませておくのがフェアプレイだと思います。
今回はそういうヒントがないだけでなく、
勘のいい視聴者の「勘」が働くのを邪魔するような欺き方(大庭が演技していることを想像させない演出)でした。欺き方がフェアではない。

回想シーン抜きに大庭が右京に「この女です」と言うべきだったと思うのですが。
(あるいは、回想シーンを大庭の視点からではなく別の視点で撮るとか)


以上2点は些細なことかもしれませんが、
ファンだからこそどうしても指摘しておきたくなりました。
あしからず。

2016年1月20日水曜日

「陣川という名の犬」——『相棒』Season14

(ネタバレあり。注意)

陣川警部補が出る『相棒』は感心しない
と投稿したことがあります「ステレオタイプの弊害」)。

陣川君が登場すると、脚本家は「善意のお調子者」というキャラクターの呪縛にかかったようになってしまっていた。顔を覆いたくなるくらいの紋切り型のストーリーになる。
陣川君の魔力恐るべし。魔力に抗する脚本家あらわれよ!

そういうことを書いたのですが。


今日の真野勝成、陣川君の呪縛を解いたと思う。



喫茶店の店主さゆみに片想いをしてしまう陣川警部補。

そういう大枠はあいかわらずのステレオタイプです。

しかし。


陣川君のただならぬ形相から始まる冒頭が、

「陣川君の魔力を打ち破るぞ」
という宣言になっていました。

「陣川君という名の犬」というタイトルも尋常ではない。


回想形式で展開するストーリーの主要部分は、

「思い込みが激しい陣川君」
というステレオタイプをとりあえず踏襲しています。

でも終わりに近づくに連れ、

陣川君がこれまでの陣川君を超えはじめる。


さゆみは陣川君を「捨て犬」みたいだと思って傘を差し掛けた。

そう言われた陣川君は、
さゆみにとって自分は「犬」=「哀れむべきその他大勢」だと理解します。
それでも勇気をふるって彼女にプロポーズする。

そのプロポーズのことばがいい。

「犬がいつまでも主人につくすようにつくしたいと思います」
(正確な台詞ではありませんが)。

「犬」ということばの意味を逆転した陣川君。

『相棒』史上はじめて陣川君は自分のことばを持った。
タイトルの「陣川君という名の犬」のほんとうの意味がこのことばで明らかになる。
もっと正確に言うと、
冒頭場面から視聴者が想像してきた「陣川君という名の犬」の「犬」の意味を、
陣川君自身がみごとに逆転する。


ドラマ全体が
さゆみを美化しないのもいい。

陣川君にとって魅力的な、

そして多くの視聴者にとっても「魅力的な女性」だと思える彼女が、
同時に、犯人の男の足の匂いを悪意なく指摘することで傷つける。
さゆみのそういう「無意識の残酷」をきちんと描いている。
そうすると視聴者は、陣川君もさゆみの「無意識の残酷」の犠牲者になる(=いつものようにふられる)と予測する(少なくともわたしはそう予測しました)。


だけれども、事件が決着したあとがいい。



さゆみの「その他大勢」の一人だと思っていた陣川君が、

冠城亘に救われる。

冠城亘は陣川君がその他大勢ではないことを見抜いていた。


プロポーズの返事をする日にさゆみは殺されるのですが、

右京と冠城は、さゆみがするはずだった返事をみごとに解き明かします。

その最大の鍵が、さゆみの荷物の中にあったコーヒー・セレモニーの道具。

中東で婚礼などを祝福するために飲むコーヒーのセットです。


さゆみの喫茶店で、冠城はそのセレモニーのセットでコーヒーを入れる。

右京、陣川と三人でテーブルを囲む。
なんと、これまでコーヒーを断り続けてきた右京も飲む!!

コーヒーを飲む右京の微笑みに陣川君への思いがにじみ出る。


バックに流れるナット・キング・コールの「アンフォーゲッタブル」。

「忘れられぬ人」を陣川君は思い続けることでしょう。

静かだけどすてきなラストでした。


星三つ。

2016年1月11日月曜日

デヴィッド・ボウイ追悼

デヴィッド・ボウイ死去!

悲しい。

このブログで「デヴィッド・ボウイとブライアン・フェリー」という長い投稿をしたこともあります。

曲も声も好きですが、

わたしにとっては何よりも、もっとも美しい顔と体の男でした。
若い頃から、美形と老いが溶け合った不思議な顔。


「スターマン」(1972), 「チャイナ・ガール」, 「モダン・ラブ」(1983) が大好きです。
坂上忍がインタビューで
「チャイナ・ガール」の「シーーーッ」という吐息 (?) と、
「モダン・ラブ」のイントロの魅力を語っていたのですが同感。

上の3曲は名曲中の名曲だから、

いろんな人がいろんなことを熱く語っています。
だからあえて書くことはやめます。


その代わりに。

わたしなりのささやかな手向け[たむけ]の花として、
目立たない「スペース・オディティ」(1983)という曲のことを書きます。

管見のかぎりでは鹿乃介さんの訳がとてもいい。

その鹿乃介さんは、

「広い宇宙の中では宇宙船もブリキ缶。トム少佐は自らを無力だと零[こぼ]す。アポロの月面着陸に沸く時代に、こんな詩を書いちゃうボウイはかなりシニカルな若者だったみたいですね。」
と書いている。

とりあえずそういう詩だと解釈できます。

できるけど、
宇宙にいるトム少佐と地上管制塔のやりとりからなるこの詩全体は、
別のことの隠喩(メタファー)とも読めます。

わたしはずばりセックスのメタファーだと思っています。

地上管制塔が「頭脳」。
トム少佐が「体」。

そう読むと。

この曲、男性のセックスをキュートに描く、という点で希有な詩だと思う。
男の性は、ムキムキ濃厚マッチョ(同語反復すいません)に描かれることがほとんどなのだけど、
この詩は「キュート」です。

「ドアを抜けて一歩踏み出したところだ

とても奇妙な格好で浮かんでいる
今日は星々が違って見えるよ」(鹿乃介訳による。以下も同じ)

とてもエロチックでキュートだと思いませんか?


そして、


「私の妻によろしくと伝えてくれ。いつもと同じように」

「地上管制塔からトム少佐へ。
回線が切れている。故障のようだ。
トム少佐、聞こえるか?・・・」

という終わり。

「地上管制塔」(理性)からの通信が不可能になってしまういけないエロースの世界です。それをヒューモラスに描くところがまたイギリスらしくてすばらしい。

こんなすてきな曲を書いた人なんです、デヴィッド・ボウイは。




デヴィッド・ボウイさん。

癌が死因だったと伝え聞きました。
苦痛から解放されて
宇宙に「とても奇妙な格好で浮かんで」、
いつまでも続く喜びを味わってください。

地上管制塔から連絡することはもうできなくなりましたが、

あなたが送ってきた通信は、
私の胸にずっと残っていますよ。

2016年1月10日日曜日

ゆりあぺむぺる

吉祥寺南口の喫茶店「ゆりあぺむぺる」。


40年ほど昔、大学生の頃ときどき行っていた。
店内の様子はそのころとあまり変わらない。
あらためて観察するとりっぱなテーブルと椅子。
やや暗い店内にそれがしっくり溶け込んでいます。
昭和の香りがする喫茶店。

最近、ふたたび足を向けるようになりました。
気兼ねなく煙草が吸えるのが理由です。
非喫煙者にはおすすめしません

えらく温度の高いコーヒーを出す。
悪くはないが格別おいしいとは思わない。
ふつうです。



昨日、
夕方から盛大に飲み食いする予定があったので、
軽い昼食を取ろうと思って入りました。

食事をするのははじめて。
「鶏肉とトマトのミラノ風シチュー」。
1000円。

喫茶店の軽食の割りに安くないな、と思いました。

しかし。
予想外においしい!

店の人には悪いのだけれど、オリーブオイルを追加でかけてもらって、
いっそうおいしくなった。

脇に添えてあるバタートーストの焼き加減が絶妙。
焼き色にまったくむらがなく中はふわふわ。
(ダイエット中のため断腸の思いで少し残しました。お店の方、申し訳ない。
でもすばらしいトーストでした)

そして小さなデザート。
しっかり甘くて、でもしつこくない。

なめてました。
(だから写真を撮らなかった。食べながら後悔しました)
見直したぞ「ゆりあぺむぺる」。


追記:「ゆりあぺむぺる(続報)その他」に、補足を書きました。

2016年1月2日土曜日

「英雄」——『相棒』Season14

(ネタバレあり。注意)

正月特番の2時間スペシャル。
「ファンタスマゴリ」で酷評した真野勝成を見直しました。

ダレたところがない脚本。

『相棒』についてはいろいろ書いてきました。
わたしとしては「感想」ではなく「批評」をしてきたつもりなのですが、
今回の「英雄」は秀作だからきっと多くの『相棒』ファンが記事を書くと思いますので、屋上屋を架すことは避けたい。
あらためてストーリーを紹介してあれこれ書くのは控えて、初めての「感想」めいた投稿をすることにします。

リアル・ポリティクスのおぞましさを描くという点で『相棒』は傑出していると思う。

木村佳乃演じる片山雛子はそのおぞましさを具現するキャラクター。
今回の片山雛子、なかなかの存在感。

今回は、Season8の「カナリアの娘」、Season9の「亡霊」の後日談。

爆弾魔のテロリスト本多篤人(ほんだあつんど)が三たび登場します。
すばらしい最期。

右京は、殺人犯の動機を理解しつつも、

殺人が不毛の行為であることを全力で犯人に説得する。

「あなたたちにはわからない」と叫んだ犯人の病室から立ち去る右京たちに、

しかし犯人の号泣が聞こえてくる。
右京の説得が通じたことを説明なしに間接的に伝えているところがいい。
お涙ちょうだいにしていない。


それから右京と冠城亘の相棒関係の進展が良い。

今回の重要な鍵となる「願い石」。
石を割り符にして二人がペンダントとして持つ。

奇しくも右京と冠城は願い石を共有することになる。

二人は今回晴れて「相棒」になったわけです。

が、コーヒーに誘う冠城に右京は「いや、わたしは紅茶で」と断る。
そういう二人の距離もまた「飲み物」という物質を通じて描かれているところが、
『相棒』の本道を行っています。

唯一の小さな謎は、

音越議員の秘書がいったいどういう存在だったんだろうかということ。
彼がいたからこそ決定的瞬間に犯人は音越に近づくことが可能になった。
そうなんだけれど。
彼が音越議員にどういう思いを持っているのか。
彼と犯人がどういう思いを共有しているのか、あるいは共有していないのか。
それが曖昧なままだったように思います。

鞘師九一郎、かっこいいぞ。