2015年2月18日水曜日

「鮎川教授最後の授業」——『相棒』Season13

(ネタバレあり。注意)

オープン・エンドのカタルシス
今日の『相棒』で感じたのはそれです。


説明しますと。
「オープン・エンド」というのははっきりした結論がないまま物語が終わることです。


ふつう、物語は紆余曲折の末になんらかの結末もしくは解決にいたる。
紆余曲折の発端はなんらかの「紛糾」です。
説明・解決できなさそうな困った状況、くらいに理解するとよい。

「紛糾」は登場人物をなんらかの行為に駆り立てます。
人間は、困った状況のままには耐えられないから。
だから「紛糾」は筋(プロット)を推進していく大きな力です。

紛糾が解決されて結末にいたったとき、一応筋は完結します。
解決されたとき、登場人物には何らかの変化が生じている。
どんな変化かはさまざまです。
でもかならず変化が起きる。



そしてその変化はなぜか受け手にある種の解放感をもたらす。


アリストテレス『詩学』
松本仁助・岡道夫訳
岩波文庫
ギリシアの哲学者アリストテレスは、ギリシア悲劇を論じた『詩学』で、その解放感を「カタルシス(浄化)」と呼んでいます。

わたしたちが物語に惹かれ、自分で物語を語りたくなる秘密はそういうカタルシスにあるのかもしれません。

ふつうわたしたちはカタルシスをもたらすような物語を「物語」だと思っています。そしてテレビドラマや映画のほとんどはそういう物語を紡ぎ出しています。
そういう物語にわたしたちは「感動する」。



それに対して、オープン・エンドはカタルシスをもたらさない。
紆余曲折の果てにたどりついた終わりがどういう意味を持つのか、それを明確にしない。
受け手はいわば宙吊りにされる。着地点が見つからない。

あえてそういう終わり方をする小説やドラマや映画があります。

「感動なんかさせないんだもんねーー、
受け手を宙吊りにしたまま困らせてやるんだもんねーー」
というスタンスの表現。
だからオープン・エンドの作品がカタルシスをもたらすことはふつうではあり得ない。

そういうのがつまらない作品なのかというとそうでもありません。
「なんなんだ、この終わり方は?」と感じながら宙吊りにされることで、受け手はいろんなことを考えてしまう。
(考えないで「つまらん作品だ。ポイッ」と片づけるのも受け取り方のひとつではあります)
ともかくそれを目指している作品もあるんだということです。


以上で「オープン・エンド」と「カタルシス」の説明はおしまいっ。




で、今日の『相棒』なんですが。


いつもの『相棒』はカタルシスを目指して筋が進みます。

殺人などの事件が起きる。
でもそこに説明のつかない不審な点がある。
杉下右京だけがその不審な点に気づく。
右京が上で述べた「紛糾」を生じさせるわけです。

右京は事件の「真実」を明らかにするという行動を取る。
右京の卓越した推理力によって真実が明らかにされ「解決」にいたる。
受け手はそこにカタルシスを感じる。

そういう点では『相棒』は推理ドラマの「物語の定型」に忠実に従っています。
筋の推進力のパワーが凡百の推理ドラマとはけた外れに大きいですが。


2回にわたる「鮎川教授最後の授業」もとりあえずその定型に従っています。

東大法学部の鮎川元教授の別荘に門下生たちが集まる。
右京も、内閣情報調査室の社美彌子(やしろみやこ)も、鮎川教授の門下生だった。

鮎川教授は門下生たちを地下室に閉じ込め、
「なぜ人間は殺人を犯してはいけないのか」
という課題を与える。

納得できる解答が出なかった場合、門下生たち全員を猟銃で射殺する。
鮎川はそう宣言します。


最初の犠牲者、家政婦の御堂黎子(みどうれいこ)に鮎川が猟銃を向けたとき、
彼女は拳銃で鮎川を射殺する。


なぜ鮎川教授はこの監禁事件を起こしたのか?
なぜ御堂黎子は鮎川を射殺したのか?

この「紛糾」に右京はみごとに解決をつけて事件の真相を明らかにする。

推理ドラマの「カタルシス」があります。



でもほんとうにそうだろうか?


御堂黎子の殺人は状況としては正当防衛だ。
しかしその背景には御堂黎子の鮎川教授への殺意があった。


右京は御堂黎子に問いかけます。
引き金を引いたとき、あなたにほんとうに殺意はありませんでしたか?

殺意がなければ正当防衛。あれば殺人。
その真実を明らかにしなければなりません。

そう右京は問います。

御堂黎子は殺意を認める。



事件の「真相」は明らかになった。
ように見える。


でも。
ほんとうにそうでしょうか。

御堂黎子の殺意の認知でドラマはカタルシスをもたらしたかに思える。


しかし最後の1分ほどでそのカタルシスがくつがえされます。
くつがえすのは右京ではなく社美彌子。


引き金を引いたときの御堂黎子の心は空白だったのではないか。
それまで殺意を培っていたのは事実だとしても、
「あのときあなたに殺意はほんとうにありませんでしたか?」
という右京の問いによって、
御堂黎子は
「殺意があったのだ」と思い込んだのではないか。

それが社美彌子の大きな問いです。
右京のみごとな真相解明がまちがっているのかもしれないという問い。
「でもあなたの推理が当たっているのかもしれません」
とも社は言ってドラマは終わる。
オープン・エンドです。



矛盾しているように思われるかもしれませんが、
わたしはこの終わりにカタルシスを感じました。



御堂黎子を演じる石野真子はほんとに地味で、なんでこんなキャストを選んだんだとずっと思ってました。石野真子をぜんぜん活かしていないじゃないか!

でもその地味ではっきりしない人物像が最後に活きてくる。
母の復讐のために鮎川教授を殺そうと思いながらもあいまいな人間なんです、御堂黎子は。鮎川教授が見抜いたとおり「優しすぎる人間」です。

拳銃を構えた彼女には復讐の実現を勝ち誇るようすがいっさいありません。


少なくともわたしは殺意を認めたときの御堂黎子に、殺意への確信を見てとることはできませんでした。揺れ動きながら殺意を認めている感じ。

それはほんとうに事件の真相なんだろうか?

そういう疑問を社美彌子はみごとに表現してくれた気がします。
そこにわたしはカタルシスを感じてしまいました。

このカタルシスはいつもの『相棒』のカタルシスとはちがいます。
いつものカタルシスは「謎に見えた事件の真相がみごとに解明されたカタルシス」です。
でも今回のカタルシスは、美しくまとまった杉下右京の「鮎川教授殺人事件の物語」を相対化してしまうような社美彌子の問いからもたらされています。

なんと言えばいいのでしょう。

右京のみごとな「真相の解明」をさらに包み込むような大きな視点が『相棒』にあるんだという発見のカタルシス、と言えばいいのでしょうか。

いつもの右京の「真相の解明」はそれ自体で質の高いものです。
『相棒』の魅力はもちろんそこにある。

でも、その美しい箱をさらに包んでいるもっと大きな箱がある。
それが『相棒』なんだよ。

それを受け取れたことがいつものカタルシスよりもっと大きなカタルシスだった。

「オープンエンドのカタルシス」と書いたのはそういうことです。
伝わるでしょうか?




そして「鮎川教授の最後の授業」にはもうひとつのオープンエンドがあります。
このオープンエンドにはカタルシスがない。

鮎川教授の
「人間はなぜ殺人を犯してはならないのか。その理由を述べよ」
という問題への右京の答案はなんだったのかです。


終わり近くで右京は「人がなぜ殺人を犯してはならないかを説明することはできませんが・・・」とさらりと言っていますが。

鮎川教授は右京の答案を「みごとな答案だ。力作だ」と言いました。
社美彌子の答案も「力作だ」だが「及第点は与えられない」とも。

しかし、
右京の答案に「及第点を与えられない」とは言っていません。
及第点だったのではないでしょうか。

右京は「人間がなぜ殺人を犯してはならないのか」に正しい解答を出していたのではないでしょうか。


ああ。
右京の答案の上半分が画面に一瞬映っていた。

そこに何が書いてあったのかを知りたい。
でもその答えを右京は言わないし、視聴者にも伝えられない。

これこそカタルシスのないオープンエンドです。
いつか明かされるかもしれないその答案を見たくてわたしは『相棒』を見続けることでしょう。

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