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2016年12月26日月曜日

ジョージ・マイケル追悼

ジョージ・マイケルが亡くなった。

わたしより10歳年下だからリアルタイムで「熱狂した」わけじゃない。
でもワム Wham! として登場してきたときに、
すごい歌唱力と、同時に、歌唱力がある歌手にありがちな下品な歌い回しがまったくないことに感嘆しました。


「ラストクリスマス」をあらためて聴き直しました。
当たり前だけど、舌を巻くくらい歌がうまい。
「This Year...」と歌うときの声の質の変え方なんかとてもいい。
これはサビの一部なのですが、
サビじゃない部分の声のコントロールは半端じゃない。
そして上品。


ソロアルバム「フェイス」はもちろん大好きです。

でもライブ盤の「僕の瞳に小さな太陽 Don't Let the Sun Going down on me」
もとてもいい。
最初にジョージが歌って、後半、本家のエルトン・ジョンが登場するのですが、
客席に向かって
「Mr. Elton John!」
と紹介する。
「ミスター」をつけたところにいかにもジョージらしい上品さが出ています。
デュエットになって、二人とも相手の技量への信頼があるのだと思う、
決して「対抗」せずにハーモニーをつくっていく。


今年、イギリスの美しい男性歌手が二人ともいなくなってしまった。
北方ヨーロッパ系の美形であるデヴィッド・ボウイ。
そして地中海ギリシア系の美形ジョージ・マイケル。

音楽は音が本質なのだけれど、
それでも
美しい姿の歌手が上手に歌っている絵は見ている人を幸せにする。
少なくともわたしは二人の姿に幸せを味わいました。


奇しくもクリスマスに、伝えられるところではベッドで安らかに息を引き取ったようです。
「ラストクリスマス」ではなく「ザ・ラストクリスマス」になってしまった。


「ジョージ」ではなくギリシア風に「ヨルゴ」と呼びかけるべき気がします。
(英語名「ジョージ George」の語源は古代ギリシア語名の「ゲオールゴス」、現代ギリシア語では「ヨルゴス」。呼びかけの形が「ヨルゴ」。ゲオールゴス=ジョージは「農夫」という意味です。ジョージ・マイケルの風貌、大学出だけどなんとなく上品な農夫のイメージがありませんか?)

ヨルゴ、安らかに眠りたまえ。

2016年12月20日火曜日

日曜日に家にいるお父さん——2016秋冬物 その2


ニットはあまり着ません。
でした。

寒いときに家の中で着ることはありますが、セーターで街に出ることはほとんどなかった。

デブではないが決して細身ではない体なので、
「セーターはモコモコ太く見える」
という先入観がありました。

着る服のヴァリエーションを広げたくてジャケットの下にセーターを着てみるかな、
と思いはじめた今シーズン、
ポールスミスの何度か書いたことのあるなじみの店員Tさん(今は結婚してKさん)が
これがジャケットの下に着るぎりぎりの厚さです。いいと思います」と
紫のセーターを勧めてくれました。

ニットは苦手だ、と言うと
「うん。うちのお客様でもニットは絶対着ないという方がいますよ」。
あ、わたしと同じような人がいるんだなと思いました。

わたしは今まであまりやったことがない
「Tシャツの上にセーター、寒いから首にストールを巻く」
で行こうと思ってました。

Kさんは、
「いや、シャツ着てもファッショナブルにできるんですよ」と言って、
濃い色のシャツを合わせました。

そしてわたしには目から鱗の名言を吐きました。

「こういうセーターって明るい色のシャツを合わせたがる方が多いんですけど、
そうすると『日曜日に家にいるお父さん』みたいになっちゃうんですよね。濃い色のシャツにするとそうならないんです」


あ、わたしのニットへの抵抗感をみごとに言い当てていると思いました。
そーなんだ。
わたしがセーターを着て街に出ないのは「日曜日に家にいるお父さん」の感じが嫌だったんだ、と腑に落ちました。

写真はその「日曜日に家にいるお父さん」風に白いシャツを合わせたものです。
もちろんこの合わせはしません。でも「日曜日に家にいるお父さん」の感じわかるでしょ?

Kさんにはいつも学ばされます。


備忘録を兼ねて今シーズンのそのほかの買い物を紹介します。


実を言うと買ったのは夏の終わりだったのですが、
桃のプリントのブルゾン。
ブルゾンはラグラン袖が多いと思うのですが、
これはそうじゃないからシルエットがとてもかっこいい。
オリーブグリーンとかネイビーブルーのパンツとかは無難ですが、
Kさんお勧めの青紫のパンツもいいです。
ブルゾンもパンツもポールスミス。ベルトは思いきって緑に(ユニクロです)。
Tシャツは「トランスコンチネンツ」。ブルゾンを脱ぐと「PARIS」のロゴとフランス国旗の色のポケットがあらわれます。




それから古着屋「Ragtag」で見つけたタオル地のジャケット。
シルエットはやや大きめですが、写真みたいに袖をまくって細身のパンツをはく。
このジャケットにはオレンジのタイしかないでしょうと思いました。






同じく「Ragtag」で見つけた青紫のカーディガン。とにかく色が美しい。そして写真ではわかりにくいですが肩のラインがすばらしい。
バラ色のタイがぴったりだと思いましたが、
ひとひねりして写真の「コムサメン Comme ça men」の凝ったタイを買いました。
黒に緑のリボンのハットはポールスミス。ブリムが適度にあって気に入っています。











緑の靴と青い靴。
どちらも珍しい色で気に入っています。







茶色のチェックのスーツはポールスミス。
紫ストライプのシャツはポールスチュワート。
この組み合わせは気に入っていて、あとはタイをどう合わせるか。

ポップな路線だと左写真のオレンジのタイ。
これはわたしではなくポールスミスのKさんのアイデア。
向かいのポールスチュワートからシャツを持ち込んでタイのアイデアを求めたら、大きな紫ドットのタイをまず選んだ。
それはわたしも最初に選んだもの。
そう言うと、
「そーだよねー。これはいかにも歩きのオスさんのテイストだよねー。
うーーん、クレリックのシャツって何でも合うからかえって難しいんですよねーー」
と悩みながらさっと写真のタイを選んだ。
「かわいいでしょ」
ちなみにスーツは前に買ったものなので現場にはありません。
でもそのスーツをイメージした短時間の判断力に脱帽です。

シックあるいは「いやらしい」感じだと右の写真。
これはわたしのアイデア。
けっこう行けてるんじゃないかと思う。
迫力ある厚手の生地のタイはポールスチュワートです。
そして「トゥモローランド」の赤いストライプのシャツ。
イタリア製の柔らかい生地。
買ったときは何にでも合うかなと思ったのですが意外に強敵です。
写真の合わせは我ながらひどいと思う。
ここはKさんのアイデアを借りるべきか。


今シーズンはこれで打ち止めにするつもり。
でも冬の最終セールで決意がぐらつくかもしれません。

2016年12月19日月曜日

重い服の意味——2016秋冬物 その1


しばらく前に卒業生が研究室にふらりと現れました。
雑談の中で、彼女が高校の時の制服について興味深い話をしてくれた。

彼女の出身高校は彼女に言わせると「イギリスかぶれ」で、
制服もイギリスの立派な生地をつかったものだった。
彼女は制服のスカートを短くしようと思った。
制服は某有名デパート(だったと思います)で作っていたので、
そこに持って行って「短くしてください」と言った。

すると店員さんが、
「どうしても短くしたいのならします。
でも、このスカートは生地の重さで形が決まるように作られています。
短くしたらその形が崩れますし、プリーツもきれいに出ません。
それでもよろしいのでしたら短くします」
と言ったそうです。

彼女はうーーんと考えて短くするのをやめにしました。


その話がとても印象に残りました。
彼女の選択も大人の選択だと思いましたし、
彼女を諭した店員さんの教育的配慮も立派だと思いました。



そしたらひと月ちょっと前、
立ち寄った「トゥモローランド」で、
倉庫に眠っている服をセールにする企画をやっていて、
そこに一着の見事なコートがありました。

定価40数万円が10万円!!

なんでこんなに安いんですか?」と訪ねると
「今の好みは軽さですからこんなに重いコートは売れないんですよ」。

試着するとサイズがぴったり。
卒業生が言ったことを思い出しました。

「でも重い生地って形がビシッと決まってしわが出ないんですよね」
と卒業生の話の受け売り。
実際、鏡に映ったコートはしわ一つありません。

店員さんはうれしそうに
「そうなんですよ。
それにこのコート、仕立屋泣かせのパターナーのデザインなんです。フランスのブランドなのに『ミスター・スミス』っていう名前は変なんですけど」。

悩みました。
でも40数万円のコートを定価で買える身分ではない。
これはチャンスとしか言いようがない。

買ってしまった!!

「トランスコンチネンツ」のストールを合わせました。
メンズのストールは色がつまらないので基本的には女性ものの店で買います。
でもこれは女性の職人さんが作ったものだそうで、
ふわりとした肌触りと色が気に入りました。

はじめて袖を通して職場に行ったら、
なんとその日、
くだんの卒業生が訪ねてきました!!

運命のコートとしか言いようがない。
もちろん、重さの意味を教えてくれたおかげでこのコートを買ったこと、
受け売りの話で店員さんが喜んでくれたことを伝えました。


「トゥモローランド」のセールではもう一着、半額になっていたジャケットを買いました。
ごらんのとおりのカーディガンみたいな一着。
ヘチマ襟のカジュアルなデザインと、何にでも合わせられる色が気に入っています。



あとは衝動買いで、「ノーリーズ Nolley's」の黄色いダッフルコート。
以前書いたことがあるのですが、
ダッフルコートは、イギリス海軍発祥のコートですから、
北海の軍艦の上でもオーケーな防寒性能と、
かじかんだ手でも留められるようにボタンではなくトグルになっています。


フォーマルなパーティーにも着ていけるネイビーブルーのダッフルではなく、
裏地に遊び心があふれるカジュアルなものです。
それでもこれは本場のイギリス製。
どっしり重い本格的なメルトン生地で、防寒性能はものすごいです。

写真のインディゴ染めのセーターなんかを合わせています。
この「SHIPS」のセーターはZOZOTOWNのセールで買いました。


2016年12月3日土曜日

日本の職人技——オーレ! フラメンコ1


フラメンコを習いはじめて2年半になります。


若い頃、踊るのは好きだった、と思う。
ディスコ (!!) にときどき行ってたし、
大学の寮の「ボール」(と呼んでいたダンスパーティー)でも踊る方だった。
自己流のいい加減な踊りでした。
でもリズムに乗るのは好きだった。


それ以後ずっと踊りにはご無沙汰していたのですが。
還暦が近づいた頃にむしょうに踊りたくなった。

というか。

それまで体の衰えを深刻に感じたことがなかったのですが、
感じはじめたときに、とても逆説的なのですが、
「人間は結局体だ」
という感覚を強くおぼえ始めました。

「健康でなければだめだ」ということではありません。
そうではなくて、
「美しい体こそが人間の本質かもしれない」
と感じはじめたのです。


20年以上前の話ですが、
夏の青山の裏通りで前から美しい女性が歩いてきた。
顔も美しかったのですが、
何よりも度肝を抜かれるような体でした。
ただただ感嘆するしかないような鍛え上げられた美しい体。

その女性が脇の建物に入っていった。
「Beatrium」というビューティーサロンでした(今も健在のようです)。
なるほど、と腑に落ちました。
そこの店員さんだったようです。
美しい体が途方もない説得力を持つものなんだ、
ということをはじめて合点した体験でした。


そういう体験が還暦を間近に控えてよみがえってきました。


体が滅び始めたからこそ、逆説的ですが
「美しい体を持ちたい」
と無性に思い始めました。

それで踊りたくなった。
踊り手の体ほど美しい体はないから。



やるからにはカルチャースクールのレベルではいやだ。
きちんと踊りたい。

クラシックバレエは無理です(奥さんがやってるし、バレエは好きなので時々見てるからそのバーレッスンの激しさは知っている)。
30代なら始めたかもしれませんがこの年では不可能。

ソーシャルダンスとフラメンコ、どちらにするか迷いました。

パーティーなんかでしゃしゃっと女性をリードして踊るのはかっこいいし、
社交の素養としても必要だと思いました。

が。
ソーシャルダンスは相手がいないとできない。
わたしはずっと武道をやっていたので1人練習が好きです。
東大ソーシャルダンス部は女性が少なくて、男子部員はふだんほうきを相手に練習しているという話をどこからか聞いて、
「何が悲しゅうてほうきを相手に練習せにゃならんのか」
と思い、ソーシャルダンスは消去されました。

フラメンコは個人の表現ができる。
それでフラメンコにしました。

2、3のスタジオの体験レッスンを受けて、
今通っているスタジオに決めました。

素人目で見ても先生の踊りのレベルが高かった。
そして教え方がすばらしかった。
(わたしは予備校教師だったし現在は大学の教員なので、教え方の優劣の判断力には自信があります)
その選択は正しかったと思っています。
まじめで厳しいスタジオです。

スタジオとその先生たちについてはいずれ書くとして。



今日の話題は、フラメンコシューズ

ご存じのように、フラメンコは靴で床を激しく打ち鳴らします。
音を出すために、フラメンコシューズの靴底のつま先とかかとには釘がたくさん打ち込んであります。

新品の時のメンケス
靴底の釘に注目してください
習い始めたときにスペインのメンケスというメーカーのフラメンコブーツを買いました。

フラメンコをやる男性は少ない。
100人近くいるわたしのスタジオでも男性はわたしを含めて二人だけです。

そういうこともあって、男性用のフラメンコシューズの選択肢は少ない。
黒かスエードの茶。
ほぼそれしかないと言っていい。

つまらない。

で、
自分好みの靴を持ちたくなりました。

偶然なのですが、
なじみの「ポールスミス」に、フラメンコをやっていた女性の店員さんがいて、
「普通の靴をフラメンコシューズに加工したいと思ってるんですがどうでしょうか」
と質問してみた。
ポールスミスのかっこいい靴で踊れたらいいと思ったので。

そしたらその店員さん、しばらく考えて、
「うちの靴はコバが出ているからだめだと思います」
と言った。

コバってわかりますでしょうか。
靴底の外にはみ出ている部分です。
メンズの革靴は程度の差はあれたいていコバが出ています。

自分のフラメンコシューズをあらためて眺めてみると、
たしかにコバは出ていない。
貴重な情報でした。

ふつうの革靴をフラメンコシューズに加工するのは無理なのかな、
と思いましたが、
つまらない黒靴で踊り続けるのは嫌気がさしていたので、
冒険してみることにしました。

ネットで調べたら、フラメンコシューズの釘打ちをしてくれる店が我が家からそれほど遠くない東中野にありました(「Basement」)。

コバが出ていない柔らかい革靴をさがしてその店に持って行きました。
ネイビーブルーのきれいな形の靴です(はじめての試みなので合成皮革の安い靴にしました)。
「フラメンコシューズに加工? できますよ」
ええーーーっ!!

美しいヒール
ヒールを木でつけ足し、靴底を補強して釘を打ち込む。
3週間以上かかって今日完成してきました。


受け取りに行ったら、店員さんがうれしそうな顔で
「いい仕上がりになりましたよ。見てください」
と差し出す。

度肝を抜かれました。
見事な細工。

ヒールの美しさもさることながら、
釘打ちの見事さ。
スペイン製のフラメンコシューズの釘打ちが小学生の工作に思えるほどの、
それはそれは緻密で美しい打ち込み方。
上のメンケスの靴底と較べてください。
見事な釘打ち

3週間以上かかるはずです。

びっくりしているわたしを見て店員さんは、
「この職人さん、たぶん日本で有数の釘打ち技術を持ってる人です」
と言ったあと、
「細工としては申し分ない。あと問題があるとしたら音だけですね」。

日本の職人技のすごさをあらためて認識しました。



そのままスタジオで個人練習。
靴はブーツより圧倒的に軽い。

鳴らしてみました。

力が全然要らない。

足全体で打つ「ゴルペ」は、切れがあるがちょっとシャープすぎる気がします。
しかし踵で打つ「タコン」は床に触っただけでコンときれいな音が出る。
感動したのは爪先で打つ「プンタ」。
鼓のような澄んだ音がする。

参りました。


ゴルペは明日スタジオのレッスンで打ってみて最終評価をすることにしますが、
全体的には大満足。
何より自分の好きなデザインの靴を選べるし、ブーツより軽い。
サパテアード(ステップ)が軽々と打てる。
前の靴が鉄下駄のように思えてきました。


自分好みの靴を作れることがわかったのはうれしい。


冬のボーナスが入ったらあと2足作るつもりです。
赤い靴と、コンビの靴。

楽しみ。



2016年11月2日水曜日

詐欺師の魅力——『相棒』Season15「出来心」

(ネタバレあり。注意!!)

インチキ宗教家平井と色っぽい姉さんが組んだ美人局(つつもたせ)
その罠にはまったのが連続殺人犯。

推理ドラマとしてその設定が面白いと思う。

でもいちばん面白かったのは、平井とお姉さんの関係だった。


平井は、詐欺で刑務所に入っていたときに聖書を読んで「これは使える」とひらめく。
えせキリスト教を利用してお悩み相談所みたいなものを開き、相談に乗るお姉さんが客を誘惑して美人局をやってる。
二人とも「悪い奴」です。

なんだけれど。

山形出身の平井は、ひったくりに遭ったおばさんが山形弁で「捕まえてくれ!」と叫んだのに思わず反応して、自転車で逃げるひったくり犯を突き倒す。

悪いやつを捕まえるのは警察の仕事で俺の仕事じゃない。
直前にそう言っていたにもかかわらず、です。

悪人にしてはうかつ。

「美人局みたいな面倒なことはやめて振り込め詐欺みたいなことをやろうよ」
というお姉さんに、
「見ず知らずの年寄りからだまし取るなんてのは単純だ。人間関係の手間暇をかけてだまし取らなくちゃいけない」
と「詐欺の美学」みたいなものを語り、
訪ねてきた右京たちが刑事ではないか、とお姉さんが言えば、
「いや、俺は目を見たら刑事を見分けられる」
と自信たっぷりに否定する(もちろん大間違いなんですが)。

要するに、中途半端に悪人気取りで実はたいしたことない。

でもそこに人間としての魅力がある。
らしい。
「らしい」と書いたのは、そこが『相棒』のいいところなんだけれど、
平井の「人間の魅力」を直接的に描かない。人情ドラマから距離を取っている。

しかし直接的に描かないのだけれど、視聴者の想像力をくすぐるように間接的に描く。

それが色っぽい姉さんとの関係です。

どうやら二人は長年の関係のようです。
そして同居している。
にもかかわらず二人に男女の関係はなさそう。
金が手に入ると姉さんは遊び回る。
お互いに相手と組むことが利益になるのは事実です。

欲深そうなお姉さんは、でもなんだか平井の「おっちゃん」を男としてではなく、人間として好きな気がする。
というか、二人のタッグを解散する気がまるでないような気配がする。

その二人の関係がとても魅力的だとわたしは感じました。

お姉さんにとって平井と組むことは欲得ずくだけではない。
何気ないけれどとても大事な邪気のなさと緩さを平井は持っている。
「愛している」とか「信頼している」とかいう大げさな言葉ではなくって、
「なんだか居心地がいい」。
お姉さんはそう感じているからずっと平井と一緒にいるんじゃないだろうか。

なんで居心地がいいかというと。
平井はお姉さんに対して、ごく自然に、無意識に「清潔な態度」なんですね。
お姉さんにネックレスをかけるという、ふつうだったら結構危うい場面でさえ。
それがさりげなく描かれている。(し、風間杜夫の演技もいい)

そしてけっこう「悪い女」であるはずのお姉さんの方も、そういう平井の良さを、こちらもごく自然に、無意識に感知する能力を持っている。

こういう男女の関係もあっていいのかもしれない。
そう思ってしまいました。

さらに。
右京もそういう平井を好きな気がする。
右京は平井を糾弾する姿勢をまったく見せない。

この詐欺師カップルの関係の魅力はなかなかのものだと思いました。



推理ドラマとしては瑕(きず)がある。

犯人が被害者にプレゼントしたネックレス。

犯人はこのネックレスをお姉さんに巻き上げられ、
それを奪いかえそうと二度の侵入をして結局逮捕されちゃう。

被害者の指紋と自分の指紋がついたネックレスを取り返そうとしたのだ、
と説明されますが。

捜査の中でネックレスはまったく問題になっていない。
どころかその存在すら想定されていない。

「不在のネックレス」をどうして家宅侵入の危険をおかしてまで犯人が取りもどそうとするのか?

そこが推理ドラマとしての瑕(きず)
そういう瑕はあるけれど満足の一篇でした。

2016年6月6日月曜日

ムハマド・アリ追悼

ムハマド・アリが亡くなりました。


追悼は死亡記事とは違う。
故人が残した記憶を、あらためて自分の体とことばで確認して、
故人を死者の国に送り届ける手向けの花とするのが追悼だと思う。

だから追悼は故人の履歴情報ではない(履歴情報が追悼に含まれることはありますが)。そして、自分の記憶にしっかり刻まれていない人について追悼文を書くべきではない。

ムハマド・アリはわたしの記憶にしっかりと刻み込まれている人です。
その記憶を書きます。



アリの「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と評された華麗な動きが、誰の目にも衰えて見え始めた頃、ジョージ・フォアマンが登場しました。

フォアマンの強さはアリのそれとまったく違うものです。
超弩級のパワー。
相手のステップやジャブやダッキングを「こざかしい」とでも言うように、
文字通り拳を打ちつける。フォアマンのパンチはガードした腕をものともせずに強烈なダメージを与える。
アリの「蝶のように舞い、蜂のように刺す」ボクシングが「文化」だとすれば、
フォアマンのボクシングは「野性」。

フォアマンの野性をわたしたち日本人に(そしておそらく世界に)印象づけたのは、
1973年、東京で行われたホセ・ローマンとの統一世界ヘビー級王座防衛戦でした。

わたしはローマンのことを知らなかったけれど、しっかりした体とそこそこしなやかな動きをするボクサーだということはゴングが鳴って動き始めた彼を見てすぐわかりました。

しかし、フォアマンの最初の打撃を受けたローマンは、恐怖の表情を浮かべた。
自分が積み上げてきたテクニックの何ひとつとしてこのパンチには通用しないことを悟った恐怖。
誰の目にもローマンがすくむのがわかった(と思う)。
脅える獲物を襲う肉食獣のようにフォアマンは強打を繰り出し、わずか1ラウンドでローマンはノックアウトされました。
観客を呆然とさせるような勝利。想像を超えるパワーというものがこの世に存在するのだ、ということをフォアマンは知らしめました。


なんとそのフォアマンに、全盛期を過ぎたと思われるアリが挑戦する。
わたしは(そしてたぶん多くの人も)、あの華麗なボクシングをするアリが、
ローマンと同じように恐怖の表情を浮かべてリングに崩れ落ちる姿を想像しました。

翌1974年、キンシャサで行われたタイトルマッチの中継は昼間だったと思います。
テレビがある大学の学生ラウンジは詰めかけた学生の緊張と熱気に包まれていました。

第1ラウンドのゴングが鳴るやいなや、猛然とラッシュしてあの恐るべきパンチをふるうフォアマン。
ロープを背にガードを堅めるアリの体がフォアマンのパンチで揺れ動きます。
わたしたちは悲鳴に似た嘆声を上げたと記憶しています。
ラウンド終了近くになるとアリは一転、反撃して連打を繰り出す。
わたしたちは歓声を上げましたが、同時に、それが蟷螂の斧であるかのような危うさも感じていました。

第2ラウンド以降もほぼ同じ展開。

そして呆然とした表情でリングに崩れ落ちたのはフォアマンの方でした。
「信じられない!」「すごい!」
学生ラウンジは興奮のるつぼ。
のちに「キンシャサの奇蹟」と呼ばれるノックアウト勝ちです。


あの瞬間、わたしたち学生に共有された感動はなんだったのだろう。
ふり返ると「文化」が「野性」に勝利する感動ではなかったのかと思います。
そしてアリはわたしが想像していた以上に「文化」の人でした。

『自伝』を読むと、わたしたちの予想とは逆にアリが最初から勝利を確信していたことがわかります。

フォアマンは桁外れに強い。だけれども桁外れに強いがゆえにフォアマンは強烈な打撃を受けた経験がない。打撃を受けたときの衝撃と恐怖はなみなみならぬもので、ふつうの人間なら耐えられない。しかし何度もそういう体験をしている自分にとっては未知の恐怖ではない。フォアマンにとって打撃を受けることは未知との遭遇であるはずだ。だから自分の一撃を受けた瞬間、フォアマンは恐怖を感じるはずだ。

アリはそのように考えてあの試合に臨みました。自分のパンチを受けたフォアマンが恐怖に呆然とするのを感じた、とアリは書いています。

でも知恵と技術だけでは勝てない。この桁外れのパンチに耐えられるはずだ、とロープを背にしながら、自分の技術を信じ続ける勇気。それをアリは持っていました。

「知恵と勇気」が野性に勝った。
「文化」って想像以上に強い。でも想像以上の強さを文化が持つためには「勇気」も必要。アリはそのことを身をもって教えてくれました。
(ボクサーとしてはアリ以上のシュガー・レイ・レナードもまた「文化と勇気の人」です。
でもレナードは、思想の発信者・語り手としてのアリには及びもつきません)


あのタイトルマッチは、わたしが文化の力を確信した瞬間だったのだと思います。
学生のわたしは文化を学ぶこと、そして文化として武道の鍛錬をすることに力を注ごうと決意しました。

学者のはしくれとして生きている今のわたしの原点のひとつが「キンシャサの奇蹟」だった気がします。


ムハマド・アリ、ほんとうにありがとう。