元旦の『相棒』の結末の腰の引け方に失望と怒りを覚えて投稿したのですが、
昨日今日と2日にわたってノーカットで放映されたNHKBSプレミアムの新作歌舞伎『風の谷のナウシカ』で元日の不満が一気に解消されました。
大満足。圧倒されました。
以前、宮崎駿『風立ちぬ』についての投稿でも触れたことですが。
アニメ『ナウシカ』はもちろん名作ですが宮崎駿の原作漫画の一部でしかありません。
アニメは、ともすれば「自然とともに生きなければならない」というエコロジカルなドラマとして受け取られてしまいかねない。
でも漫画はその先まで進んでいった。
「美しい自然とともに生きる」ということがそもそも可能なのか?
「汚れのない純粋な命」なんて存在しうるのか?
その上でなおかつ人間が人間たるべき道はどこにあるのか?
そこまで漫画は突き詰めていった。
わたしはアニメ『ナウシカ』の続編を見たかった。
宮崎駿にそのパワーは残されていないので、作るとしたら庵野秀明しかいないんじゃないか。
そう書きました。
『ナウシカ』が歌舞伎になる。あろうことか、漫画原作の全部を舞台化する。
それを聞いたときにはたまげました。
腐界の虫たちやオームの進撃をどうやって舞台化するのかとまず思いましたし、
そして原作後半の、壮大で複雑で深刻なテーマをどうまとめられるのだろうか見当もつきませんでした。
見事にやってのけました。
原作に表向きに忠実であることが原作を生かすとは限りません。
たとえば演劇史上おそらく最高傑作のひとつだと思われるソポクレス『オイディプス王』。
2019年秋にシアターコクーンで上演された市川海老蔵主演の『オイディプス』の脚本・演出をしたマシュー・ダンスターは、海老蔵演じるオイディプス王をスーツにネクタイ姿で登場させました。コリントスからの使者は屋上に着陸したヘリコプターからヘルメット姿で降りてくる。
大胆な脚色です。
でもわたしはダンスターが、有名な蜷川幸雄の『オイディプス王』よりもソポクレスの原作の神髄をつかんでいると思いました。
何よりも疫病の恐怖におびえるテーバイの民と、それに応えねばならない為政者オイディプス王、そういう原作の緊張関係がくっきりと表現されていました。
(コロナ渦を予言するように。ソポクレスは歴史を超える洞察を作品化しているんですね)
そして黒木瞳演じる、妃にして母であるイオカステの揺れ動きもみごと。
これに較べると蜷川の『オイディプス王』は、ソポクレスの原作に表向きの演出ではより忠実であるけれど、大仰なケレン味だけの舞台に思えてきます。
歌舞伎『ナウシカ』は、ダンスターに共通する大胆な脚色と演出です。「忠実」とは言えない。
でも宮崎駿の原作の読み込みが半端じゃない。だから説得力がある。
そしてちゃんと歌舞伎になっている。
腐界の虫たちも、オームの進撃も、歌舞伎の様式に従って迫力満点に表現されていた。
水が轟き落ちる中での立ちまわりは、これぞ歌舞伎という圧巻のシーン。
ずぶ濡れの衣装で斬り合う役者たちの修練と身体能力のすさまじさ。
クシャナを演じる中村七之助の立ち姿 (間近で見た海老蔵のオイディプス王の立ち姿の迫力を思い出しました) 。
そして謠 (うたい) のすばらしさ。
歌詞 (と言うんでしょうか?) が、ストーリーへの距離を持ったコメントになっていて、
観客の理解をみごとに助ける。
「これはギリシア悲劇のコロス (合唱隊) じゃないか」と思いました。
社会のさまざまな問題を真っ向から全部引き受け、なおかつ高度な芸術表現たり得ていたギリシア悲劇。おそらく木下順二はそれに匹敵するだけの演劇を作り上げようと苦闘しました。
木下順二の悲願、それが歌舞伎『風の谷のナウシカ』でかなりの程度かなえられた。
それがわたしの評価です。歌舞伎界の底力に脱帽。
コロナ渦で困難ではあるのでしょうが後生に残すべき舞台だと思いました。
ぜひとも再演されて欲しい。
最後の墓所の場面で、わたしは宮崎駿の原作の末尾を新たな目で見直すことができました。
墓の主 (あるじ) は、先の時代の叡智を集結したスーパーコンピュータだということです。
集結された叡智が自ら「賢明な」判断を下す。
そういう事態は現代ではもはや夢物語ではない。
しかしそういうスーパーコンピュータの「賢明な」判断は本当に正しいのか?
宮崎駿は時代をうんと先回りしていたのだということが改めてわかりました。
それは宮崎駿個人の力量だけではたぶんない。
例えば映画『未来惑星ザルドス』もそういう問題にいちはやく注目していました。
淵源はたどり切れていませんが、アイザック・アシモフくらいまではたどれそうです。
要するに、文化の、そして思考の、伝統の中でしか培われない洞察力があるんだ、ということでしょうか。
宮崎駿という天才の洞察は、そういう伝統への学びと敬意から生まれてきたものなんだと思います。