2018年2月17日土曜日

断捨離読書日記 その3——大石圭『処刑列車』

大石圭は『呪怨』を書いた人です。

この『処刑列車』(角川書店 2012)、東海道本線の「快速アクティー」が武装集団に乗っ取られ、乗客たちが次々と射殺されるというストーリー。



文章まあうまい。読ませる。



だけれども感心しない点が二つある。

その1。

武装グループの動機。
かなりの人数がいて、みな社会の常識が通用しない価値観を持っている。
殺人にまったく疑問を抱かない。

こういう犯人像はもはや目新しいものではない。
角川ソフィア文庫版
池田清彦『やがて消えゆく我が身なら』(角川書店 2005) は、
1996年にスコットランドで子供16人を殺し、さらに教師を殺したトマス・ハミルトン事件を紹介して、これを「アモク・シンドローム」と呼ばれる殺人のカテゴリーに分類されるものだと言ってます。

アモク・シンドロームにかかった人間の心理は、池田が引用するスティーブン・ピンカーによると、

「私は重要人物ではない。自分なりの自尊心をもっているだけだ。私の人生は耐えがたい侮辱でしかないものになってなってしまった。だからもう、なんの意味もない命のほかに失うものはないので、自分の命を人の命と交換する。交換は私のためにするのだから、1人を殺すのだけではなく、大勢を殺す」(ピンカー『心の仕組み』(中)、池田による引用)

『処刑列車』の武装グループは偏差はあれ、このアモク・シンドローム、あるいはそのバリエーションにかかったものだと思われます。
社会のなかにかならずこういう「異常な」人たちはいる。

トマス・ハリス『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクターも、アモク・シンドロームにぴったり当てはまるかどうかは疑問ですが、社会常識を越えた価値観に基づいて躊躇なく人を殺す。

要するに「社会常識を越えた価値観に基づいて躊躇なく人を殺す」という犯人像に目新しいものはない。でも『処刑列車』はそういう「目新しさの衝撃」によりかかっている部分が大きい気がします。その点が凡庸。

無表情な美少女(犯人グループの1人)も紋切り型だと思いました。



その2。

ストーリーの大きな穴。
武装グループは計画にもとづいて冷静に行動し、見事に銃を操る。
相当に訓練された集団です。
しかしネットで集まったこれだけの人数の人間をどのように訓練したのか。
銃の扱いだけでもかなりの修練を要することは確かです。
そういう点で、武装グループの組織運営にリアリティーがない。


大石圭はたくさん書いている。そのエネルギーはプロ作家の証しです。
でも他の著作の想像はつく。


というわけで『処刑列車』とはお別れすることにしました。


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