(ネタバレあり。注意)
今日の『相棒』、殺人事件の謎解きとして凝ったつくりになっていたと思います。
伊丹刑事が自殺だと判断した女性の死が、独占スクープされた殺人犯の告白手記によって殺人事件だと覆される。
自殺の判断をした責任を問われて失職の危機に瀕した伊丹。
右京は、伊丹のために事件の複雑な背景を明らかにしていく。その過程がなかなかみごとです。
けっこう満足したのですが。
二つ小さな不満があります。
ひとつ目は「伊丹刑事の失職」というタイトル。
『相棒』のファンなら「ついに伊丹が失職するのか。すわ一大事」と思ってしまう。
思ってしまうから見る。
それを狙ったあざとさがあります。
前回の「陣川という名の犬」も、センセーショナルなタイトルでしたが、
それにはきちんとした理由があったと思います。
そのことは前回の投稿で書きました。
でも今日のタイトルは、脚本から肯定できる要素が少ない。
実際には伊丹刑事は失職しないのですから。
ふたつ目は、
脚本の問題というより、監督・演出の問題なのかもしれません。
詐欺事件の被害者の息子、大庭(おおば)が、
犯人をかばい、彼に協力する。
殺された女性は詐欺グループの一員なのですが、
犯人から彼女の写真を見せられた大庭が「この女です」と言ったことによって、
犯人は詐欺の決定的証拠をつかむ。
だけれど。
そのあとに、右京たちから聞き込み調査を受けたとき、
写真を見せられた大庭は同じように「この女です」と証言する。
大庭と女がすれ違うシーンが回想で流れる。
「この女です」ということに大庭がはじめて気づいたかのように。
でも上に書いたように、大庭はすでに女が詐欺グループの一員であることを知っています。(ただし、知っていることが視聴者にわかるのは後半になってから)
だとすれば。
大庭は右京たちに対して、
はじめて気づいたかのように演技をしたことになりますね。
最後まで見終わってようやくそのことがわかったわたしは、腑に落ちなくてしばらく考えました。
なぜ大庭は演技をしたのだろうか?
大庭は犯人(新聞記者)に詐欺を暴いて欲しかった。
それが自殺した母親の復讐になるから。
大庭本人がそう言っています。
そしてたぶん大庭は警察にも詐欺を暴いて欲しかった。
しかし、自分が、女=詐欺グループの一員であると知っていたことが警察にわかると、
警察が犯人にたどりつく可能性がある。
犯人を守りたい大庭は、
だから「はじめて気づいたかのように」演技をした。
わたしはそう考えました。
そして脚本の意図もそうだと想像します。
しかし、
女とすれ違う回想シーンの撮り方は、
ほんとうにはじめて気づいたかのような印象を与えます。
大庭の目から見たアングルの女の顔のアップがありますから。
時系列(ストーリー)では、犯人との場面が先、右京との場面があとですが、
描かれる順序(プロット)は、右京との場面の方が先だからなおさらです。
つまりは、
わたしがいろいろ考えたようなことを封じるようなシーンだと思います。
あえて強い言い方をすれば、視聴者を欺いている。
もちろん、推理ドラマに視聴者を欺くシーンはあっていい。
あっていいけれども、最後に「あ、あのシーンはそういうことだったのか」と納得できるような
ヒントを潜ませておくのがフェアプレイだと思います。
今回はそういうヒントがないだけでなく、
勘のいい視聴者の「勘」が働くのを邪魔するような欺き方(大庭が演技していることを想像させない演出)でした。欺き方がフェアではない。
回想シーン抜きに大庭が右京に「この女です」と言うべきだったと思うのですが。
(あるいは、回想シーンを大庭の視点からではなく別の視点で撮るとか)
以上2点は些細なことかもしれませんが、
ファンだからこそどうしても指摘しておきたくなりました。
あしからず。
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