ちょっと遅ればせながら
徳大寺有恒氏を追悼します。
「間違いだらけの自動車選び」で知られた自動車評論の重鎮であったことは今さら言うまでもない。
でもわたしにとって徳大寺有恒さんは特別の存在でした。
ひとつはヨーロッパ車の魅力を教えてくれたこと。
「数値化されない自動車の質」
というものが存在していて、数値化される優秀さを誇る日本車にはおよびもつかない別種の質の高さをヨーロッパ車は持っている。
それを徳大寺有恒は教えてくれた。
徳大寺有恒さんがいちばん好きなイギリス車ではないけれど、
わたしは徳大寺有恒さんに導かれるようにしてルノー・メガーヌを買い、
それまで乗っていた日本車とは異次元の「数値化されない自動車の質」を思い知らされて以来ずっとルノー車に乗っています。おそらく運転できなくなるまでルノーに乗り続けると思います。
もうひとつは、西洋文化の研究者としてわたしは徳大寺有恒さんにたくさんのことを学びました。
たぶん徳大寺有恒は成城大学時代たいして勉強してなかったんだと思う。
都会の車好きの遊び人のボンボン。
それがわたしの徳大寺有恒像です。
でも徳大寺有恒さんは
「遊び人侮るべからず」
を具現した人だと思う。
好きな車に夢中になって生きる、そのことを通じて徳大寺有恒さんは、
いろんな魅力的な車を生み出したヨーロッパ文化の本質に触れていったのだと思います。
彼の自動車評論は、車を通じたヨーロッパ文化論、そしてそれと比較した日本文化論の度合いを深めていきました。
アングロサクソン、ゲルマン、ラテンという西ヨーロッパ文化内部の違いを徳大寺有恒さんほど的確につかんでいる人はあまりいないのではないかと思う。
わたしは文化史を通じてその違いを考えていたし、今も考えているんだけど、
徳大寺有恒さんが車を通じて言っていたことの正しさを痛感することが多い。
たとえばフェラーリについて、徳大寺有恒さんは
「日本のメーカーはほんとうのスポーツカーを作ることはできない。フェラーリにはスポーツカーが本質的に持っている死への衝動や退廃がある。それを日本のメーカーはわからない」というようなことを言ってます。
イタリア上流階級の本質を突いていると思う。
だけじゃなくフィアットに見られるイタリア民衆の感性も同時に見抜いていた。
それからなんといっても得体の知れないイギリス文化への洞察。
イタリアとかフランスとかのおしゃれさがまるでなくて、
「趣味がいいんだか悪いんだかわからない」謎がイギリス文化にはあって、
それを時間をかけて眺めているうちにイギリス文化の奥深さがわかってくるんだ、
みたいなことを言ってます。
ああそうだ、とわたしは腑に落ちました。
車だけの話じゃない、イギリスのファッションや家具の本質はそれだと思います。
そういう深い理解を、文化史のテクストを読むんじゃなくて、
車やファッションという自分が大好きな物を通じて獲得している。
学問に縁がなくたって遊びをきわめると文化の本質に到達する。
ときには学問より深い理解に到達する。
「遊び人あなどるべからず」と書いたのはそういう意味です。
好きなことで遊び続けて、深い異文化理解に自然にたどり着いた。
それも楽しそうに。
心から徳大寺有恒さんのご冥福をお祈りします。
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