2014年2月7日金曜日

佐村河内守の「代作事件」

佐村河内守(さむらごうちまもる)の「代作」事件が話題になっている。

「聴覚を失った被爆二世の作曲家」として有名になった佐村河内守が実は実質的な作曲をしていないことを、ゴーストライターである新垣隆(にいがきたかし)が告白した。新垣は会見で自分は「共犯者」だと言った。

さらに、アイススケートの高橋大輔が佐村河内守の作曲家として生き様に感動してショートプログラムの曲に採用したこともあって、佐村河内の「欺瞞」が問題にされている。

「代作」事件のあらましはそういうことだ。


複雑な要素がからまっていて単純な話ではないのだけれど、
わたしはこれがマスコミが言うほどの「事件」なのだろうかと疑問に思う。

著作権が佐村河内守と新垣隆のどちらに属するのかという点は法律上の問題。
それはとりあえず置いておいて、
新垣隆が言った「共犯者」という表現ははたして正しいだろうか。
「共犯者」というからには二人の行為が「犯罪」であったということになる。



わたしは、佐村河内守と新垣隆がやったことは(法的な論議はあまりよくわからないので)少なくとも「社会的な」犯罪ではないと思っています。


「聴覚を失った被爆二世の作曲家」という物語に感動して曲が売れたことは確かだろう。
しかしわたしはそういう物語に乗っかって音楽を聴くという態度そのものが変だと思う。

人間ドラマとして感動するのは自由。
でも音楽は作品だけが勝負なので、作者がどういう人間なのかはとりあえず関係ないんじゃないか、というのがわたしの立場です。

耳が聞こえなくなっても曲を作り続けたベートーヴェンは壮絶な人だと思う。
だけどそもそも曲がいい(と思う)。
曲が悪ければいくら壮絶な人生を送った人でも作曲家としては通用しない。
『アマデウス』で描かれたモーツァルト像がもし真実に近いとすれば、モーツァルトはどうしようもない軽薄な男。でも彼の音楽は天上の音楽です。

芸術作品は本質的にそういうもんじゃないだろうか。



佐村河内守の「人間ドラマ」に感動してCDを買う行為は、音楽を聴く行為としてそもそもおかしいと思う。



その「人間ドラマ」にしても、半分くらいはマスコミが作っていった面がある。
それに佐村河内守が乗っかってつい演技が進んでしまったんじゃないだろうか。
もちろんほめられた話じゃない。
そうだけれど、そのくらいの見栄やかっこつけに走ってしまうことは人間としておおいにあり得ると思う。みっともないけれど「犯罪」として断罪まですべきことだろうか。


わたしはたいして音楽はわからないが、佐村河内守の曲は美しいと思った。
代作だとわかった今、新垣隆はすぐれた作曲家だと思う。


ものすごい野球選手がいたとして、彼が野球選手として技量を発揮するきっかけとなったのが愛する父親の死だったとします。そういう「物語」はありがちな話です。

その物語が嘘だったとしても彼の野球選手としての価値はまったく傷を受けない。
それがわたしの立場です。
嘘をついたという「人間」としての価値は傷を受けるかもしれないが。



音楽にしろスポーツにしろ、そこに「人間ドラマ」を求めるのは変ではないか。

「人間ドラマ」は、耳に入ってくる音(音楽)や、目の前に繰り広げられる動き(スポーツ)とは関係のない、まあ言ってみれば「余談」みたいなものです。
ソチオリンピックでアナウンサーが「人間ドラマ」を語り出すだろうな、と思うと憂鬱になる(フィギアスケートの実況アナウンサーの人間ドラマ化は特にひどい)。佐村河内守をめぐるマスコミの論調に感じるのと同じ憂鬱です。



新垣隆には堂々と立派な曲を作り続けて欲しい。
がんばれ新垣隆!






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