(何歳から年寄りで何歳以下が若いのか、というようなことはめんどくさいのでおおざっぱに理解して下さい)
年寄りと若い人たちとがたがいに「わかってねえなあ」と感じることも当たり前のことです。
その上で、お互いが「自分たちには景色がこう見えているんだ」ということを伝え合うことは必要だと思います。
今日は、年寄りから見えることばの風景を若い人に伝えてみたいと思います。
(「その年で年寄りとは笑わせるぜ」という先輩もおられると思いますが、これもおおざっぱに受け止めて下さい)
学者なので研究発表の場に行くことが当然あります。
(学者じゃない人にもちゃんと関係ある話なのでちょっとだけがまんして聞いてください)
発表のあとで質疑応答の時間があるのですが、発表者が
「貴重なご指摘、ありがとうございます」
などという前置きをする。
これに腹が立ってしょうがない。
質疑応答の時間は10分か20分。限られた時間です。
発表の内容について疑問や批判をし、それに答えることで発表がより豊かになるというのが質疑応答の時間の意味なのに、意味もない前置きで時間を費やしている。
当人は謙虚あるいは礼儀正しいつもりなんでしょうが、
「質疑応答とは何か」
という本質を無視している。そういう意味でわたしは傲慢だと思います。
前置きなしに答えはじめるべきです。
研究発表に限らず、わたしは若い人たちの物言いに
「本質を無視した意味のない謙虚さと礼儀正しさ」
を感じます。
その典型が
「〜させていただく」という言い方。
聞くたびに腹が立つ。
歌手が「こんどコンサートをやらせていただいたときに」
といけしゃーしゃーと言う。
「コンサートをしたときに」となぜ言えない?
すぐれていて脚光を浴びる仕事でも研究でも、それを陰で支えた人たちがいるのは当たり前です。一人だけの仕事なんて実はあるはずがない。
そのことに脚光を浴びた当人が感謝の気持ちを持つのは、人として当然のことだと思います。
思いますが。
それを「〜させていただいた」と第三者に対して言うことはすべきではない。
場合にもよりますが、原則としてそう言うべきではない。
わたしは音楽や俳優やスポーツの「スター」が好きです。
そういう分野じゃなくてもいろんな仕事の「スター」が好きです。
すぐれた人間というのがほんとに存在していて輝いているんだ、という感覚を与えてくれるからです。
そんなスターが「〜させていただいた」と言うとがっかりする。
繰り返しですが、スターの裏には陰で支えた人たちがたくさんいる。
でもほんとうに陰で支えた人たちは「〜させてやる」という気持ちで支えたのではない。
「こいつはスターとなるべきだ。それはいいことだ。だから全力で支える」
という判断の上で「陰で」支えることを選び取ったのだと思います。
「〜させていただいた」ということばは、そういう思いをわかってないんじゃないかと思います。
この年になると、支えて推薦して、ということだって出てくる。
でも、支えて推薦した相手に「〜させていただいた」と言って欲しくは絶対にない。
「俺はできるんだ。できるからやってるんだ」と言って欲しい。
わたしは「させてやった」という気持ちでは絶対に支えたり推薦したりしないからです。
「こいつはスターになるべき人間だ」と自信を持って判断したからそうしただけです。
わたしには、「〜させていただく」といことばはわたしのそういう判断を、あえて言えば踏みにじることばに聞こえます。
若い人たちは「〜させていただく」を使いすぎる。そう思います。
少し前にある俳優が映画祭のパーティーに
「出させていただいた」
とほざいていました。
「パーティーに出させていただいた」だと!?
パーディーは「出る」もんでしょう。
あまりに「〜させていただく」が氾濫していて、「〜する」という言い方ができなくなっているようにさえ感じます。
オリンピックの選手はまさに「スター」です。
オリンピック選手に「オリンピックに出させていただいて」
などと言って欲しくない。昨今の選手たちはそう言うけれど。
才能と実力があるからこそ、スタッフが喜んで陰で支え、選考委員会がみずからの判断で選んだのではないですか。
ああ、ノルディックスキーの荻原健司がメダルを取ったときのインタビューで
「ハロー、エブリボディ」
と言った傍若無人がなつかしい。
メダルを取ったら
「俺のメダルだ!」
と言って欲しい。
それがオリンピックのすばらしさじゃないのか?
若い人たちの、本質を見ない「謙虚さと礼儀正しさ」にうんざりしているのです。
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