長身で姿勢のよい山中さんは燕尾服がさまになっていて、同じ日本人としてちょっと誇らしい気持ちになる。
今日書きたいのは、ノーベル賞受賞の晩餐の話。
カール・ジェラッシ(中森道夫訳)『ノーベル賞への後ろめたい道』(講談社 2001年)
は、ノーベル賞候補者たちのすったもんだを描く良質の知的エンターテインメント小説だ(残念ながら現在絶版)。
なにしろ著者のジェラッシ自身がノーベル賞候補者だったし、選考委員でもあったらしいから、ノーベル賞の内幕の描写はとてもリアリティがある。
その中で主人公のアメリカ人の青年がノーベル賞を受賞して、スウェーデン王家と同じテーブルで晩餐をいただくシーンがある。
そこで彼は、フォークとナイフのアメリカ流の使い方を、スウェーデン王妃に面白がられる。高貴な王妃はあからさまに冷やかしたりはしない。
でも、王妃は「アメリカ流のフォークとナイフの使い方はヨーロッパ流と較べると合理的ではない」と冗談めかして言う。
わたしはセレブにはほど遠いがさつ者だが、前々から
ナイフとフォークで米を食べるやり方に(というか、日本でのその紹介のされ方に)
疑問を持っていた。
フォークの背に米をナイフで載せて食べる。
これを昨今、
「そんなことをするのは日本人だけだ。ハワイでそうやっていたら『なんでそんなめんどくさいことをするんだ』と笑われた」
というようなことを言う人がかなりいる。
あたかもフォークの背に米を載せて食べることが、日本独自の「奇習」であるかのように。
そーか?
大体マナーの基準をハワイに求めるのが変だと思う(ハワイの人、失礼)。
京料理のマナーの基準を奄美大島に求めるようなものだ(奄美大島の人、失礼)。
言っておくが、わたしは「マナーのためのマナー」はどうでもいいと思っている。
「米はフォークの背に載せて食べなければなりませんことよ」
という言いぐさへの反発はわかるつもりである。
マナーを尊重しなければならないとすれば、
それは上の小説でスウェーデン王妃が言ったように、
「合理的で無駄がない」
からだと思う。
無駄がないから、食事が楽しくなり、会話も弾む。
テーブルマナーとはそういうものだと思う。
洋食は左手にフォークを持ち、右手にナイフを持つ。
いちばんスピーディーに食べられるからだ。
口に入れやすい大きさに切ることもできるし、ソースを伸ばすのも簡単。
わたしは「レストラン」ではない町の「洋食屋」でもかならずフォークとナイフを要求する。箸で食べるより便利だし、早く食事を済ませられるからだ。
米をフォークですくって食べると、フォークを右手に持ち替えると思う。
無駄な動きだ。
慣れればナイフでフォークの背に乗っける方が断然早い。
第一、欧米では米はつけ合わせの野菜の一つとして出てくることが多い。
ニンジンをフォークですくって食べるのはみっともないでしょう。
米だけなぜ食べ方を変えるのか解せない。
実際、わたしが滞在していたイギリスでは、
ディナーの時にはみなフォークの背に米を乗せて食べていた。
「日本だけの奇習」どころではなく、正式の食べ方だ。
フォークですくうカナダやハワイの食べ方はあくまでカジュアルな食べ方だということです。
それが別にいけないとは言わない。食事は楽しいのがいちばんなんだから。
しかし、フォークの背で食べる食べ方を「日本人だけがやっている奇習」としたり顔で言うのは見識を疑われるんじゃないでしょうか。
(J-Wabe「グルーヴライン」のピストン西沢、好きなんですが、これを言っていた点はマイナスだな)
正式で合理的な食べ方ですよ。
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