表現はつまるところ説得だと思います。
論理的な表現は「えーと、君はこれを納得してもらえるだろうか」という控えめな説得。
詩や小説は「こら、納得せい!」という過剰な説得。
で、その過剰な説得である詩を、古代ギリシア人は一方で、詩の女神ムーサの息吹を感じることができる天賦の資質の産物だと考えていたのですが
(あらためて言うまでもなく、ホメーロス『オデュッセイアー』の冒頭は、
「ムーサよわたしに語り給え、かの男(オデュッセウス)のことを」
という詩人の立場表明)
同時に、表現を学習・習得可能な技術(テクネー)だとも考えていました。
技術ならば分類・説明ができるはず。
ギリシア人はそういう表現の技術を徹底的に分析しました。
説得術(レトリック)はそういう分析です。
「言葉の彩」figures はそのレトリックの一部門。
直喩、隠喩、換喩・・・・
さまざまな「凝った」表現は、ギリシアのレトリックでもうたいがい網羅されちゃってる。
「オクシュモーロン」(oxymoron, 撞着語法)もそのひとつです。
オクシュモーロンは「賢い馬鹿」という意味。
もうお分かりでしょうが、
矛盾する二つの概念を並列する技法です。
印象に残る言い方だ、と直感的に思います。
もう少し考えると、この言い方は
「賢い」とか「馬鹿」とかの意味って本当は何なんだろう?
という、ふだんあまり疑問に思わない「言葉の意味」を考え込ませる効果があるんだと思います。
で、秀逸だと思う現代のオクシュモーロンを二つ。
アデル Adelle の "I set fire to the rain"。
「わたしは雨に火をつけた」
切ない歌です。
雨の失恋の歌、といえば何てったって森高千里の『雨』。
でもアデルを聴くと森高千里は「おお、素麺の歌だ」と思います(好きですけど)。
アデルは「ビーフステーキの歌」。ごつい切なさ(オクシュモーロン!)。
二番目は、桑田佳祐の
「マイナス100度の太陽みたいに 体を湿らす恋をして」(「真夏の果実」)。
すごい。
関ジャニ∞の「マイナス100度の恋」よ、恥を知れ。
君は本家に及ばない。
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