2011年10月19日水曜日

回想のギリシア旅行その9(完結編: アルゴス、コリントス、エレウテライ、アテネ)

2011年1月3日 アルゴス→コリントス→エレウテライ→アテネ泊


アルゴス・ヘラ神殿上層と中層の石組み
アルゴス・ヘラ神殿全景。神殿の右側に
犠牲式が行われたと思われる祭壇跡がある。
アルゴス・ヘラ神殿
アルゴス・ヘラ神殿ストアの鳩の浮彫
 朝、ナウプリオンのホテルから北のアルゴス・ヘラ神殿へ。ここはその大祭で「百頭牛の犠牲」(ヘカトンベー)が行われた大規模な神殿で、アルゴスを見下ろす斜面に三層からなる石組みが残っている。最上層にあった旧神殿は前5世紀後半に焼け落ちてしまい、その後に建設された新しい神殿と祭壇の跡が中層に残されている。
 大神ゼウスの妻ヘラは近くにあるカナトスの泉で毎年水浴をして乙女に戻ったと言われている。ヘラ神殿の上の丘に聖なる泉があって、そこから来ている泉の口がヘラ神殿にもあるが、その「聖なる泉」が神話の「カナトスの泉」かどうかはまだ確認していない。
アルゴス・ヘラ神殿の泉(中央の穴)。背後の
なだらかな丘に「聖なる泉」があった。


 アルゴス・ヘラ神殿からコリントスへ。
 ギリシア本土とペロポネソス半島をつなぐコリントス地峡の近くに位置するコリントスは、交通の要所として栄え、アテネ、スパルタと肩を並べる大都市国家だった。ローマ時代の歴史家ポリュビオスは、コリントスのアプロディテ神殿に1000人の神殿娼婦がいたと伝えるが、実際の話かどうか怪しいと言う説もある。港町には古今東西ありがちなことだがコリントスに(宗教的な売春ではない)花街が栄えていたのは確かだと思う。


 そのアプロディテ神殿があったとされるアクロコリントスがコリントス遺跡の背後にそびえている。迫力ある岩山で、ビザンツ時代には要塞が築かれた。
 コリントスのアポロン神殿は、ドーリス式神殿を代表するもの。アクロコリントスを背景にした雄渾な太い柱が見事。
 コリントス考古学博物館で興味深かったのは、コリントスのアスクレピエイオンで治癒した人々が感謝のしるしとして奉納したテラコッタ。足や手など治癒した体の部分を奉納したらしい。男性生殖器もかなりあったのだが写真を取り損ねた!
 頭部の奉納物の中に、髪の一部が欠如したものがあった。ハゲが直ったのかもしれないが、何らかの外科的処置が行われた可能性もあるのではないか。ギリシアの民間医療を詳しく考察した馬場恵二『癒しの民間信仰』(東洋書林 2006)もコリントスの奉納物に触れているが、この頭部のことは書いていなかったように思う。いずれ調べてみたい。


海中の橋
 昼食をコリントス地峡下のタベルナ(今回2度目)で取る。コリントス地峡は国道の橋から見下ろす写真が多い(わたしたちはその場所でも写真を撮った)が、このタベルナの目の前にも小さな橋があって、ふだんは船を通すために海中にあるが、車が渡るときには上がってくる。わたしたちは上がってくる橋を目撃することができた。
だんだん上がってくる


完了
こちらはコリントス
地峡の上から
 コリントス地峡を渡り、ペロポネソス半島に別れを告げる。向かったのは古代のアテネとテーバイの国境地帯にある前4世紀の城壁とディオニュソス・エレウテレウス神殿跡。










前4世紀の城壁



 この旅行で初めての本格的な雨と寒さに遭った。志願者だけが城壁と神殿を見学することにして残りは下の茶店の暖炉の前で待機。
 テーバイとの国境警備のために築かれた城壁はかなりいい状態で保存されている。テーバイ側には、伝説のオイディプスが赤子の時に捨てられたキタイロンの山々が霧の中に霞んで見える。
城壁から雨に煙るキタイロン山系を見る
ディオニュソス・エレウテレウス神殿跡
城壁のちょっと下に小さな神殿跡が見下ろせる。「その2」で書いたディオニュソス・エレウテレウスの神殿だと言われている。ギリシア悲劇・喜劇が上演されたアテネの大ディオニュシア祭は、このエレウテライから来訪したディオニュソス神を祀る大祭だった。雨中行軍のような過酷な見学だったが、雨に煙るギリシア悲劇ゆかりの神殿跡はこの旅行の中でいちばん印象に残るものとなった。


 夕刻アテネに到着。ギリシアでの最後の晩餐となった。





2011年1月4日 アテネ考古学博物館見学→帰国の途に


 ツアーの締めくくりにアテネ考古学博物館を午前中じっくりと見学。
顔が美しいクーロス


花を持つコレー
 紹介しきれないくらいの逸品ぞろい。アルカイック期のコレー(乙女)、クーロス(若者)像や、ブロンズのポセイドン(ゼウスだという説もある)像はやはりすばらしい。


ポセイドン像
 ビザンツ帝国時代から現代まで含めてギリシアの奥深さを再確認できるプログラムの構成もすばらしかったが、参加者一同の旺盛な好奇心と柔軟な思考にも感銘を受けた。実り多い14日間でした。


2011年10月17日月曜日

ムサカの作り方

ムサカはギリシアの伝統料理のひとつ。挽肉を使ったグラタン。イタリア料理のラザニアの平麺の代わりにナスが入ったものだと想像すれば当たらずとも遠からずでしょう。
「なーんだ」と思った方もいるでしょうが、そこは伝統料理、上に乗った ベシャメルソースが独特 です。フワフワ、もっちりして軽い。

昔、クレタ島の港町イラクリオンの小さなアゴラ(広場)のタベルナで食べたムサカの味が忘れられない。「今まで食べたムサカは何だったんだ」というくらいフワフワもっちりのベシャメルソース、香り高いミートソース。その味に近づけるようけっこう工夫しました。

わたしはこだわりの料理人ではないし、それなりに忙しいので手を抜けるところはどんどん手を抜きます。でも ムサカは本質的にスローフード です。どうしても手を抜けない行程がいくつかある。ネットを検索すれば「ムサカの簡単レシピ」の類はかなりヒットしますが、それはあくまで「ムサカ風」挽肉グラタンにすぎません。

以下はわたしなりの「ムサカ風」ではない「ムサカ」です。これは違うぞ、というギリシア人もいるかもしれません(特にミートソースの作り方)が、まあしょうがありません。スローフードだとは言っても、手の遅いわたしでもオーブンに入れるまで1時間ちょっとというところでしょうか。

ムサカの作り方(4人分)

《材料》
牛挽肉 300g
ナス  5~6本(大きさによります。少ないと困るので加減してください)
玉ネギ 1 個
セロリ 少々
パセリ 少々
トマトの缶詰 1 缶
薄力粉 80cc
牛乳  480cc
卵   1 個
チーズ 1 カップ弱(約半分がクリームチーズ。後述)
赤ワインor白ワイン 適量
オリーブオイル、オレガノ、ミント
塩胡椒


【1 材料を切る】
  • ナスを薄切りにして軽く塩をふっておく。しばらく置いたら水洗いしてペーパータオルなどで水気を取る。(めんどくさい人は切るだけ)
  • タマネギ、セロリ、パセリ、ミントの葉(多すぎたらくどい)をみじん切りにする。これらは一緒くたにしていいが、タマネギのごく一部をみじん切りせずに長いまま残して別にしておく。
  • チーズを刻む

【2 ミートソースを作る】
  • 鍋に牛挽肉を油をしかずに放り込む。出てくる水分を飛ばすようにしばらく炒め、肉をパラパラにする(これは省略できない)。焦がさないように。
  • 肉がパラパラになったら少量のオリーブオイルを入れてタマネギ・セロリ・パセリ・ミントの葉を入れて炒める。適量のワインを加える(わたしは質のいい純米酒を使うことが多い)。オレガノをふる。オレガノの代わりにディルを刻んで入れることもあります。料理本にはナツメグとかシナモンを入れろと書いてあるのもありますがわたしは最近入れてません。好みじゃないからです。
  • タマネギが半透明になったらトマトの缶詰を入れて塩胡椒で味つけ(ベシャメルソースに塩を入れないので気持ち強めに)。水気を飛ばし、肉にしっかり味をまとわりつかせる(大事です)。


【3 ベシャメルソースをつくる】
わたしはミートソースのトマトを放り込むあたりからベシャメルソースを作り始めます。
  • 鍋にオリーブオイルを熱し、薄力粉に十分熱を通す。このとき、分けておいた少量のタマネギも入れます(ダマになりにくい)。ベシャメルソースにバターは使いません。これが軽さの秘訣。
  • ダマにならないよう少しずつ牛乳を加えてなめらかなソースにしていく(ふつうのベシャメルソースと同じ要領です)。
  • 刻んだチーズを入れてかき混ぜながら溶かし込む。わたしはクリームチーズとハルーミというギリシアのチーズを同量、それに削ったパルミジャーノを少々加えています。ハルーミが手に入らなければ何か固いチーズを使う。要するに、軽やかなクリームチーズにややコクのある固めのチーズを好みで合わせるということです。
  • チーズがあらかた溶けたなと思ったら、溶いた生卵を入れて手早くかき混ぜ、火が通りすぎないうちに火を止める(当たり前か)。卵を1個にするか2個にするか迷うところ。わたしは最近1個にしています。

【4 ナスを焼く】
  • フライパンにオリーブオイルを入れて薄切りにしたナスを焼く。


【5 重ねる】
  • 耐熱容器にペーパータオルなどでオリーブオイルを塗り、底に炒めたナスを敷きつめる。
  • ナスの上にミートソースの半量、その上にナス、その上にミートソース、その上にナスを敷きつめる。いちばん上にベシャメルソースをかける(好みでパルミジャーノをふりかけても良い)。


【6 オーブンで焼く】
180° のオーブンで30~40分、表面にうっすら焦げ目がつく程度まで焼いたら完成。切り分けて食べる。オーブンで焼いているあいだにサラダやパンを準備する。







(2014/1/18 付記。好みが変わってムサカ「コクふわバージョン」を投稿しました。基本は変わりませんがより複雑な味わいです)

回想のギリシア旅行その8(エピダウロス、ミュケナイ)

2011年1月2日 エピダウロス→ミュケナイ→ナウプリオン泊

医神アスクレピオス像。蛇が巻きつく杖は
世界保健機構(WHO)のマークでもあり、
ヨーロッパの救急車のマークでもある。
 エピダウロス観光の目玉は、ほぼ完全な状態で保存されている古典期の劇場ですが、古代のエピダウロスは、なによりも医術の神アスクレピオスの神殿医療が行われる聖域(アスクレピエイオン)として知られていました。アスクレピオスの治療がさかんになるのは紀元前4世紀。症例にもとづいて疾病の本質を「科学的に」探ろうとしたヒポクラテス医師団は、前5世紀後半から前4世紀にかけて活躍したと言われています。時代を見ればわかるように、アスクレピエイオンのような「迷信的な」医療から、ヒポクラテスの「科学的な」医療に「進化」したのではありません。古代ギリシアでは、科学的医療と神殿医療が併存していました。

 まずは目玉の劇場へ。やはりいいです、ここ。
 円形舞台(オルケストラ)の床にピンを落とす音が最上段の観客席まで聞こえるとまで言われる(ためしたことはありません)音響設計のすばらしさ。わたしはギリシア悲劇の一節を日本語とギリシア語で朗読、ガイドのアンナは居あわせたギリシア人観光客と一緒にギリシア国家を歌いました。ちゃんと上段まで聞こえたそうです。

聖域のプロピュライア(表玄関)。
奥の中心部に向かって聖道が続く。
 エピダウロス考古学博物館を見学したあと、聖域に入ります。劇場は、医神アスクレピオスが誕生したと言われるキュノルティオン山の斜面にありますが、神殿医療を受ける参拝者たちは反対側の谷の方から入ってきました。その入口がプロピュライア。建造物は失われています。そこから「聖なる道」が聖域中心部に通じています。



アスクレピオス神殿(左)と
トロス(右奥)
 その中心はアスクレピオス神殿と、夢見の治療がおこなわれたアバトン(馬場恵二氏は「お籠もり堂」と訳しています)。治療を受ける人々がこのアバトンに籠もって眠りにつくと、夢の中に医神アスクレピオスがあらわれる。アスクレピオスではなく、アスクレピオスにかかわりが深い聖なる蛇や犬があらわれることもあります。あらわれたアスクレピオスや聖獣が、患部に触れたり、舐めたり、ときには手術をしたりする。目覚めると病や障害が直っている。
アバトンの上部構造


アバトンの下部。ここに
お籠もりしたらしい。
 信じる信じないはともかく、そうやって治癒した人々がアスクレピオスの神に感謝して奉納した多くの碑文や奉納物が各地のアスクレピエイオンから出土しています。







トロスの全景
トロスの復元図
 アスクレピオス神殿の周辺には、迷路のような地下構造を持っていた円堂(トロス)やアルテミス神殿、アバトンに付随するアスクレピオスの浴場(お籠もりする人たちが身を清めたらしい)などの遺構があります。
トロス柱頭。アンナのライターの火が
石を透かして見える。
   トロスの柱頭のひとつが考古学博物館に展示されています。コリントス式柱頭を代表する見事なもので、アカンサスの葉をかたどった細工は、ライターの火が透けて見えるほど細やかなものでした。

 遺跡見学のあとで、アンナが正月のケーキとラキ(ギリシア版アクアビットみたいな強いスピリット)をみんなにふるまってくれました。
正月のケーキを切り分ける
アンナ。奥の瓶はラキ。
 ケーキにまず十字に切れ目を入れる(イエスの十字架を模しています)。それから切り分けていくのですが、最初の一切れはイエス、二切れ目は聖母マリア、三切れ目は貧しい人々の取り分になります。ケーキの中には幸運のしるしの金貨が埋めてあります。金貨はイエスの割り当てに入っていました。
 ケーキとともにラキで乾杯して新年を祝いました。運転手のソティリスも乾杯してお代わりまでしていた(ような気がする、と一応書いておきます)。その後の運転にみじんの乱れもなかったので問題ないのでしょう。
ケーキから出てきた金貨
ミュケナイの獅子門
ミュケナイ王家の「墓」と言われる部分
 ミュケナイ時代の遺跡、ミュケナイは、丘を利用して作られた巨大な王宮・城塞です。
 獅子門をくぐって王宮内へ。
ミュケナイ井戸入口

井戸に降りる三千年以上前の石段
 わたしたちは観光客がほとんど行かないいちばん奥の井戸に入りました。数十メートルの深さまで階段が続いている。もちろん途中から真っ暗闇です。この井戸から城壁の外への抜け道が通じていました。


ミュケナイ近くにある
蜂の巣型墳墓の入口
散歩道で見た夕暮れのアルゴス湾
 夕刻、ふたたびナウプリオンのホテルに戻り岬を散歩。
 港には小さな要塞跡があるのですが、わたしたちが埠頭に着いたとき、要塞跡に向かう最後の船が接岸してきました。船頭が「今日最後の便だ。乗っていかないか」と誘います。わたしたちは文字どおり「渡りに船」と飛び乗りました。夕闇迫る要塞の上を鳥が群がり飛ぶ様子は「強者どもが夢のあと」の雰囲気がありました。
ナウプリオン港に浮かぶ城塞跡 Photo by Irie

ポテトとサラダで
ギロスを待つ
ギロスが来た! ソースのザジキが
ほどよい加減でおいしかった

 散歩のあとは学生たちの要望もあって、巨大な串焼き肉をナイフで削ってピタパンにはさんだファーストフード「ギロス」を食べに夜のナウプリオンの町にでかけます。ファーストフードとはいえ、ポテトやサラダもとったので軽めの夕食くらいにはなりました。

2011年10月3日月曜日

回想のギリシア旅行その7(スパルタ、ミストラ、ナウプリオン)

2010年12月31日 スパルタ→ミストラ→アミュクライ→メネライオン→夕刻ナウプリオン着

 ペロポネソス半島南部、パルノン山脈とタユゲトス山脈にはさまれた豊かな平地に位置するスパルタは、厳しい教育と尚武の気風で名高い強国でした。前480年のテルモピュライの戦いで、クセルクセス大王率いるペルシアの大軍に立ち向かったスパルタ精鋭部隊「300人隊」の勇猛果敢な戦いぶりはヘロドトス『歴史』第7巻に詳しく述べられています。映画『300(スリーハンドレッド)』はおおむねヘロドトスの記録をもとにしていますが、300人隊の指揮官レオニーダス王が、「楯を引き渡して降伏せよ」というクセルクセス王の最後通牒に「(楯が欲しいなら)来て取れ」と答えたという逸話はヘロドトスにはなく、後1-2世紀の作家プルタルコスの『モラリア』から採られています。きわめて簡潔でウィットに富んだスタイルを「スパルタ風」(ラコニック laconic)といいますが、「来て取れ」(モローン・ラベ μολῶν λάβε)はラコニックなスタイルの典型でしょう。


スパルタ考古学博物館はスパルタ周辺から出土した彫刻や墓碑等が展示されています。左は前580-570年代の戦士像。「来て取れ」のレオニーダス像だとされることもありますが確定できません。
 スパルタでは男性は戦場で倒れた者のみ、女性は産褥で命を落とした者のみ、墓碑に名前を刻むことが許されていました。右は戦死した男性の墓碑で名前が刻まれています。

 アルカイック期の台形の石碑。両面に各一対の男女が描かれていて、左写真の女性はトロイア戦争を引き起こすことになった美女ヘレネ、男性は夫のメネラオスまたはヘレネを奪ったトロイアの王子パリスのどちらかだと言われています。反対面は、母親クリュタイメストラを殺すオレステス。脇の面には蛇が彫られています。


 スパルタのアルテミス・オルティア神殿からいくつかの面が出土しています。右は老婆の面。アルテミスは成人・出産等女性の生涯のおりふしにかかわる女神でしたから、老年を迎えた女性が奉納したものかもしれません。







 スパルタを見下ろすタユゲトス山腹に世界遺産ミストラがあります。東ローマ帝国の要衝であった城塞・教会群が険しい斜面に立ち並んでいます。ミストラはギリシア南部のギリシア正教会の中心地であるとともに、イタリア・ルネサンスに深い関わりがある土地でもあります。新プラトン主義の人文学者プレトンはこの地で活動した人物です。

ミストラの王宮跡
ミストラの城壁からスパルタの平原を見下ろす
城壁背後にはスパルタの
弱い子供が捨てられた
という谷が
アギオス・ディミトリオス教会
コンスタンティヌス十一世が
戴冠した聖堂内部
 ミストラのアギオス・ディミトリオス教会は、最後の東ローマ皇帝コンスタンティヌス十一世が戴冠した場所。彼は1453年にコンスタンティノポリスがオスマン・トルコ軍によって陥落した際に、少数の守備兵とともに敵軍に突入して消息不明となっています。
足もとの双頭の鷲は
東ローマ帝国の紋章
バンダナサ修道院の
コエビソウの鉢植え
バンダナサ修道院
 ミストラの中程にあるバンダナサ修道院。現在も女子修道院として用いられていて、鉢植えの花が咲き、たくさんの猫がくつろいでいます。ミストラの中ではやわらかな雰囲気の空間です。



アミュクライ
 アミュクライ遺跡は、前古典期のアポロンとヒュアキントスの神殿跡がかろうじて残っているだけ。近くにある、ミケナイ時代のトロス型墳墓があるバフィオに向かいます。バフィオからは美しい黄金のカップが二つ出土しています(アテネ考古学博物館蔵)。このあたりはオリーブとオレンジの畑が続くのどかな農村地帯。道を教えてくれた地元のおばさんが、私たちがまちがった角で曲がったのを見ると走ってきて正しい道を教えてくれる。脇の畑からオレンジを山のように摘んで「持って行きなさい」という。午後のやわらかな日差しの中を羊が歩いていきます。
バフィオの墳墓
バフィオ出土の黄金のカップ
(アテネ考古学博物館)

メネライオン
 日没が近づいていたので、パルノン山脈側のメネライオンに向かう坂を早足でのぼります。神格化されていたと思われるメネラオスとヘレネに捧げられたピラミッド状の神域です。脇には前15世紀後半のミケナイ時代の館跡があります。
メネライオン脇の館跡
 メネライオンから、スパルタの平野をはさんで向かいにタユゲトス山脈が連なっています。夕暮れに広がる荘厳なパノラマでした。


メネライオンから
スパルタの平野とタユゲトス山脈
 夕刻ナウプリオン着。
大晦日のタベルナで踊る客
 新年のカウントダウンをタベルナで。地元客ばかりの「バシリス」で中央のテーブルを占拠した東洋人のグループ。店の雰囲気を左右する責任を感じたわたしたちは、まわりの客と乾杯し、踊り、新年のケーキを分けあって新しい年を祝いました。





冥府の花アスフォディル
2011年1月1日 ミケナイ外周→ケンクレアイ→夕刻ナウプリオン着
 

ミュケナイ遠景
 元日はやや緩やかなスケジュール。
 ミケナイの周りを散策。ホメロス『オデュッセイア』第11歌に出てくる冥界の花アスフォディルが咲いています。

ケンクレアイ
 午後はコリントスの外港だったケンクレアイへ。水没しかかった小さな遺跡ですが、この港から使徒パウロがトルコ西岸の大都市エペソスへ船出しました。


ギリシア最古の橋

ギリシア最古の橋を見てナウプリオンにもどり、夕食後、ナウプリオンの岬を一周。街灯もあまりない暗い散歩道でしたが安全です。闇の中をジョギングする若者と「中国人か」「いや日本人だ」「そっか。新年おめでとう」とすれ違いざまの会話。元日の夜はこうして更けていきました。





闇夜に咲くブーゲンビリア
ナウプリオン港の夜