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2015年3月6日金曜日

市民のロジックと軍隊のロジック——後藤健二さん殺害をあらためて考える

I. 市民のロジックと軍隊のロジック


民主主義の基礎を築いたのが古代ギリシア人であることは言うまでもありません。

民主政治に参加できたのは男性市民だけだったという制約はあるものの、

賛否両論の演説を聞いた市民の多数決で政策が決定されたこと、
その決定をする市民のあいだで家柄や財産による差はあってはならないし、好き嫌いという好悪の感情を一時的に脇に置いておいてその決定をしなければならない、というたてまえを確立したこと(「たてまえ」だとしても画期的なことです)、
官職に原則一年の任期を定めて輪番制にしたこと、
素人の市民が判決を下す陪審員制度をほぼ完全に実施したこと、

これらはギリシア人がなしとげたとてつもない達成だったと思います。


カリスマ的指導者の上意下達ではなく、効率は良くないけれど長々と議論をしてものごとを決める「市民のロジック(論理)」を優先しなくちゃいけない、それがギリシア人の選択でした。民主主義とは市民のロジックです。



しかし同時に、古代ギリシアの市民団は「戦士共同体」でもありました。
市民皆兵です。
市民は戦時には武器をとって前線に立った。
だからふだんからレスリングや槍投げで体を鍛え、
戦列の集散をすばやくおこなえるように音楽とダンスでリズム感を鍛えていた。
哲学者の「プラトン」は「肩幅広男(かたはばひろお)」君というあだ名です。
プラトンはそういうガタイをしてた。市民戦士の体です。

「戦士共同体」というのは要するに軍隊です。
戦争では指揮官の命令に部下が躊躇なく従う、それがいちばん能率的だし効果的。
そうじゃないと勝てないし国家は存続できない。
そのことをギリシア人はとてもよくわかっていたし、戦闘ではそのように行動した。
そこには民主政治とは正反対の「軍隊のロジック」があります。


ギリシア人は「市民のロジック」と「軍隊のロジック」の両方を生きていた。

哲学の議論をながながとやっていたソクラテスは、戦時には重装備を帯びて行軍し、負傷した戦友をかついで帰ってきた。

よく考えるととても不思議なことです。
「その不思議がとても大事なんだ」とギリシア史を研究する後輩のM君は言いました。


民主政治というのは、効率的な軍隊のロジックの正反対です。
あれやこれやとくだくだと議論をしてようやく多数決という形で決定をする。
民主主義は本質的に時間がかかって非効率的なシステムです(そのことはいろんな人が言っている)


M君が言った重要なポイントは、
「軍隊のロジックと市民のロジックという、二つの相反するロジックがあることをギリシア人が意識していて、その二つのロジックをどう交渉させ、妥協させるか、ということに知恵を働かせていた。その知恵をわたしたちが解明できないと、現代の民主主義が抱える問題も説明できなんじゃないか」
ということなんです。


その見取り図はすごいと思いました。

民主主義の市民の立場から見ると、軍隊というのは民主主義に相反するもののように思える。「よそ者」に見える。

でも、
民主主義が「国家」であるかぎりは、国家を存続させるための合法的暴力(軍隊)をどう認めるか認めないかは避けて通ることはできない問題です。

立場はさまざまであっていいのだけれど、
二つのロジックがちゃんと存在していてその二つをどう交渉させ妥協させるか、その問題を抜きにしては民主主義はなりたたない、そういう風に腹をくくらないとだめなんだ。
M君の見取り図はそういうことだとわたしは受け取りました。


二つのロジックの関係がどうあるべきかはとても難しい。
しかし、近代の歴史を経験した民主主義国家がたどりついたとりあえずの結論のひとつが「文民統制」civilian control です。

効率的なロジックに従って冷徹に動く軍隊は、「そもそも戦闘を行うべきか否か」に関しては市民のロジックに絶対的に従わなくてはならない。
それが文民統制です。
文民統制がなくて、軍隊自身が「戦争するぞ」という決定をするのがファシズムです。


ファシズムは魅力的なものだと思います。
なぜなら軍隊のロジックは明快でわかりやすいから。
でもそのロジックを突き詰めると独裁です。
独裁政治ほど効率的で効果的な政治制度はありません。


自分自身が戦士なので軍隊のロジックの効率と魅力をよく知っていたギリシア人は、
その上であえて効率の悪い民主政治を選択しました。

民主主義の本質とはそれしかないと思います。

効率の悪い政策決定をするということは、
その決定主体である市民が「複雑でめんどくさい議論に耐える」ことを必須とします。
効率よくてわかりやすい「軍隊のロジック」によるのではなくて、うだうだぐじゃぐじゃ考え続けることで民主主義の健全性は維持される。


わかりやすくて効率的で気持ちの良い「軍隊のロジック」。
わかりにくくて非効率でカタルシスが少ない「民主政治のロジック」。

その二つのロジックが「あるのだ」とまず認め、その上でその二つの関係がどうあるべきかを考える。それこそが民主政治の市民のあるべき態度だと思います。


II. 後藤健二さん殺害をあらためて考える


昨日の「報道ステーション」は後藤健二さん殺害にいたる安倍内閣の対応をたんねんに取材したものでした。出てきた事実はわたしが想像していたとおりのものでしたが、それを想像ではなく事実として明らかにしてくれたジャーナリズムのねばり強さに敬意を表します。

わたしは後藤さんが解放されることを文字通り祈っていました。
わたしは後藤さん殺害ほど安倍内閣の無能とひどさがあからさまになった事件はないと思っています。

この事件についてわたしのポイントは二つ。



ひとつめは。

人質解放の「あらゆる可能性」を阿倍は探らなかった。
どころか、「見込みが高い可能性」をまず捨てた。
イスラム国の首脳とコネクションがあるジャーナリストも、すぐれたイスラム学者である中田孝も、後藤さん解放のための交渉に働きかける意志がある、と公式に表明していた。
阿倍はそのルートを採用しなかった。


ふたつめは、ひとつめと密接な関係にあります。
なぜそういう有効な交渉ルートを阿倍がとらなかったか、ということです。

わたしはアメリカの圧力があったからだと推測していました。
そして「報道ステーション」はその推測が当たっていたことを伝えていました。

アメリカは「テロリストとはいっさい交渉しない」という立場です。
わたしはそれはそれでひとつのりっぱな選択だと思います。
交渉することはテロリストの誘拐を強化する。
断固として交渉を拒否することで、人質を取ること自体を無力化する。
そういう選択です。


でもそうじゃない選択肢もある。
フランスは「テロリストとは交渉しない」と建前で言いながら、裏で交渉して人質を解放しようとする。実際、解放してきた。


阿倍は国民に対してフランス的立場をとっているかのようなポーズをとり続けた。
だけれど本気で交渉しなかった(上で書いた、最も有効なルートを採用しなかったことで明らかです)。そこが阿倍の「ひどさ」です。

アメリカが「フランスのやり方をするな」と言ってきてそれに屈したと言うことです。
要するに、ことが公になる前に後藤さんを見殺しにする選択をすでにしていた。
繰り返しますが、それはそれでひとつの選択です。まちがっているとは言えない。

だけれども。
首相として「わたしはそういう選択をした」ということを国民にはっきり説明する義務はある。
「テロリストとは交渉しないことが正しいと思うから安倍政権はそうする」つまり、
「以後後藤さんみたいな人質事件が起きる場合、安倍内閣は交渉せずに見殺しにします」と国民にきちんと表明し説明する責任がある。

説明責任とはそういうことです。
それをせずに後藤さんへの「哀悼の誠」を口にするのはあまりにも不誠実な態度じゃないでしょうか?

阿倍は「軍隊のロジック」を躊躇せず選択して、ジャーナリズムという民主主義に必須の要素を擁護するという「市民のロジック」を捨て、そのことを国民にまともに宣言していない。

そういう軍隊のロジックによって後藤健二さんは文字どおり見殺しにされました。


そしてそういう安倍首相を多くの国民が支持しています。
その理由はとてもよくわかる気がする。

軍隊のロジックは気持ちいいんですよ。わかりやすいから。



でも気持ちよさに抵抗して複雑さに耐え続けること。
それが民主主義国家の市民・知識人・教養人というものじゃないでしょうか。


ワンフレーズ・ポリティクスを語る人間の知性をわたしは断固としてみとめません。
みとめないぞということを授業でも言っていきたいと思っています。
知の共同体としての大学の社会的意義はそこにこそあるのだと考えていますから。



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