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2013年1月19日土曜日

里谷多英の帽子:追記

里谷多英がオリンピックの表彰台で帽子をとらなかったことは礼儀知らずな行為ではない。
と書いたことに補足します。


大宮エリーが『週刊文春』に連載していたエッセーにこういうのがありました(現在は『生きるコント』文春文庫に所収)。

エリーさん、リオのカーニヴァルを見に行った。
もう、リオの町は大盛り上がり。
「あこがれのカーニヴァルにあたしも参加するぞ」。
で、中心街から少し離れたホテルから、裸に近い黄色のビキニスタイルで意気揚々とバスに乗り込んだ。

ところが。

満員のバスにそんな格好の客は一人もいない。街はとんでもない格好をした人であふれているのに。

どうやら、カーニヴァルの最中であろうとバスにはきちんとした格好で乗らなければならないらしい。

エリーさん、遅ればせながらそれに気づき、かといって今さら引くに引けず、心の中で脂汗をかきながらただ一人、半裸の姿で堂々とつり革につかまり続けた。
まわりの乗客も「これだから外国人は困るよ」と思ったのでしょうが、そこは紳士・淑女。
なんとか見て見ぬふりをしている様子。

それを描く大宮エリーの文章が絶妙にうまくて、わたしは大笑いしてしまった。
大宮エリーという人物も好きになった。



里谷多英の帽子のことを書いたのは、
「マナーを知らないと恥をかく」という当たり前のことを言いたかったこともあります。
もちろんその場合の「マナー」とは、国旗の前で帽子をとることではなく、
国旗の前で脱帽しないご婦人を非難したりしない、ということです(なぜ女性が帽子をとらなくてよいかは前回の投稿に書いたので繰り返しません)。

しかし恥をかくだけならまだいい。
大宮エリーさんはそういう自分の体験を異国でのスリリングな思い出として面白がっていて、そこが素敵なところだとも言える。

だが、洋装のマナーを知らずにご婦人に対して「脱帽せよ!」というのは恥だけではすまない。自分勝手な思い込みからそのご婦人を傷つけることになる。里谷多英の「帽子事件」はその典型的な例です。

「国際人であれ」ということに反論をする人はあまりいないと思う(いてもいいと思いますけど)。

国際人であろうとするなら、「女性に脱帽を要求するのは田夫野人である」という国際的なマナーを知っておくべきではありませんか?
それはもちろん自国の文化を蔑ろにすることにはなりません。




わたしもえらそうなことは言えません。
知らないマナーがいっぱいあるし、大宮エリーさんみたいな失敗もしてきました(あそこまで極端じゃないか)。

このブログでいくつかファッションに関する投稿も載せてきましたが、格別ファッションにこだわりのある人間ではない。

料理と同じように、服や帽子も人間としての生活の一部、文化的な生活の一部として
きちんと知っておく方がいいだろうと考えているわけです。勝手な思い込みから人を傷つけないためにも。




帽子ついでに書いておくと。


「きちんとしたスーツ」が黒になったのはいつからなのだろうか?

入学式に黒いスーツを着てくる新入生がわんさかいる。
少なくともわたしが若いときにはそんな頓痴気な奴はいなかった。
そもそも入学式にスーツを着てこない人間もめずらしくなかったし。

いや、マナーは時代によって変わる、というのはある程度わかります。
わたしだってしょうがなく「黒の略礼服」という奴を一着持っている。


でも国際的には正式なスーツは黒ではなく無地のネイビー・ブルーでしょう。
葬式にだってネイビー・ブルーで行くのがふつう。
黒は親族だけ。

これ、実は日本でもそうだったようです。
近江の旗屋のご老人のことばなので間違いないと思いますが、その人は
「最近(といっても20年以上前の話です)、葬式に皆さん黒服でいらっしゃいますが、あれ、ほんとはご親族に失礼なんです。黒を着るのは親族だけなんですから。」
とおっしゃってました。

着物でも葬式には本来、紫で行くのが正式ですよね。


繰り返しますが、時代が変わればマナーも変化する。
その事態に異を唱えるつもりはありません(葬式にはネイビー・ブルーで行きますが)。


しかし、黒い略礼服が正式であるのは欧米では通用しないと思います。
入学式に黒スーツの一団が集合しているのは異様で不気味に見えると思います。
あるいは、滑稽に見えると思います。

そう見えることを知っておくことは大事ではないでしょうか。

もちろん「略」礼服の黒の話をしているのです。言うまでもなく、フォーマルなタキシードやガウンなどは黒が正式でしょう。

わたしは欧米に留学する学生には
「黒ではなくネイビー・ブルーのスーツを一着持っていくように」
とアドバイスしています。

















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