「ネタばれ注意」という注意喚起は書くことにしています。
Amazon のレビューのガイドラインなどに代表される社会慣行に従っているだけの話で、ほんとうにそうすることが正しいと思っているわけではありません。
「あらすじを明かす」ことを「ネタばれ」としておくなら、少なくとも小説と(ストーリー)マンガについては、ネタばれは読む楽しみにとって致命的ではないと考えています。
ストーリーがすべてなら、長々と小説を書く必要はない。あらすじを読めば終わり。
「あらすじ」はなんらかの解釈が入った要約です。
植物と動物の異種混合体である暴力的な男の子が、わずかな食料と引き替えに、生命の危機をかけた戦いに犬・猿・キジを傭兵として雇い、直接危害を加えられたわけでもないのに、鬼の領土に侵入してその経済資源を略奪する。なんとその男の子はみんなに褒めたたえられましたとさ。
下手な例で恐縮ですが、これも『桃太郎』のあらすじです。
いや、それはあんたの意味づけがずいぶん入ったあらすじじゃないの。
そうです。わざとそうしました。
ここまで極端でなくても、多かれ少なかれ、あらすじにはあらすじを紹介する人の意味づけや解釈が加わっています。ひとつの作品から10通りのあらすじを書くこともできます。
「意味づけが悪い」と言っているのではありません。「意味づけが入ってしまうものなんだ」と言っているだけです。
すぐれた作品は、どんなに要約してもどんなに解釈しても、そこから逸脱する部分をかならず持っています。小説や(ストーリー)マンガの価値(というものがあるとすれば)はそこにある。すぐれた作品はあらすじを屁とも思わない。
わたしはそう考えています。
わたしだけでなく、今から二千年以上前のギリシア人もそう考えていました。
ギリシア悲劇はヨーロッパ文学の「悲劇」の源(みなもと)です。ギリシア悲劇はローマ悲劇に受け継がれ、さらにシェークスピアに引き継がれます。英語の「悲劇」tragedy の語源はトラゴイディアというギリシア語です。「山羊の歌」という意味なんですが、「歌」の方は簡単で、ギリシア悲劇はミュージカルだったからです。「山羊」がなぜ悲劇と関係あるのかは諸説あります。それをくだくだ紹介することはしません。
ギリシア悲劇は基本的に神話から題材を取ります。ですから観客はだいたいのあらすじをあらかじめ知っています。悲劇詩人の(「詩人」と呼ぶのが慣例。悲劇は詩の韻律で書かれていたから)腕の見せどころはまったく新しいストーリーを展開することではなくて、観客が知っているストーリーをいかに解釈し料理するかにあります。悲劇はすでにあった物語の新たな解釈なんですね。ことばを変えると、悲劇はその発生の時点から「批評的」表現だったんです。
このことが作者だけでなく社会全般に了解されていたらしいことは、前4世紀の喜劇詩人アンティパネースの断片189 からうかがい知ることができます。
この台詞(セリフ)の語り手である喜劇詩人は、悲劇は観客が物語を知っているから幸運なジャンルだ、と揶揄しています。
「オイディプースの名を言えば、彼についてのすべてのことを観客たちは知っている。父はラーイオスで、母はイオカステーで、娘たちは誰で、息子たちは誰なのか、彼が何を蒙(こうむ)ることになるのか、彼が何をしたのかを」(『ギリシア喜劇全集 7』岩波書店, 2010年)
それに較べるとおれたち喜劇詩人は登場人物の名前から物語まで一から作らなくちゃいけないんだよー、と笑いをこめて言っています。
ソポクレスの『オイディプス王』は、知らずに父親を殺し、母親と結婚したオイディプスの神話を題材にしています。ご存じのように、フロイトの有名な「エディプス(オイディプス)・コンプレックス」はこれに着想を得たものです。ソポクレスはこの度肝を抜くような物語を創り出したわけではない。物語はすでに神話の中にあったのです。ソポクレスはそれをみごとな悲劇として解釈し直した。
ヨーロッパ文学のそもそもの始まりからあらすじ(のオリジナリティ)は作品の本質ではなかったということです。
繰り返しますが、あらすじを屁とも思わないところに作品の価値はある。
いや、本格的謎解き推理小説の犯人を言っちゃうのはまずいんじゃないの。
と思ったあなた。
気持ちはわかるので、わたしは控えます。
でもそれがほんとうに正しいかどうかはよくわからない。
フランスのある批評家が、アガサ・クリスティー(だったと思う)のある推理小説を精密に読み解いて、実は真犯人は探偵が見抜いた人物ではない、というかなり説得力のある解釈をしています。真犯人、ちがってた!
もちろんその批評家はゲームとしてそれをやってます。
(すみません、書名をちゃんと書くべきなんですが、引っ越し前で本を段ボールに詰めてしまって確認できません。ずいぶん前のうろ覚えの記憶で書いてます。)
あらすじはとりあえずの解釈で、それを超えてしまうものが作品のほんとうの魅力。
作品は恋する相手みたいなもんだと思います。
きっかけは「あらすじ」。紋切り型ということ。
容姿やタイプが好みだったり、世間的な意味でセクシーだったり。
きっかけがそうでも、ほんとうに恋してしまうと紋切り型のことばでは説明できない相手のなにかがどんどん見えてきてしまいます。
このグッと来ちゃうものは何なんだ! 言い当てたい!
このとき「解釈」がはじまっちゃってるんだと思う。
解釈を深めて、前より理解した気はするけれど、それでも相手はその解釈に収まりきらない豊かさを見せてくる。
読むというのはそういうことではないでしょうか。
すぐれた作品は再読をうながします。
だからネタばれはたいしたことじゃないと思っています。映画についてはまだ結論出ていないんですけど、小説とマンガについてはそうですね。小説とマンガは作品自体がそもそも批評的なものだと思いますから。『オイディプス王』見ればわかるように。
以上は原則の話。
とは言ってもネタばれいやな気持ちはわかる。
だから「ネタばれ注意」と書き続けます。
でもわたしの場合「それはたいしたことじゃないんだけどね」というつぶやきが気持ちとしてくっついています。
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