2011年9月22日木曜日

回想のギリシア旅行その5(アテネ、デルフィー、オシオス・ルカス修道院)

2010年12月28日 アクロポリス、アゴラ、ピレウス博物館。夕刻デルフィー(デルポイ)へ。



 今日はよく歩いた。万歩計持参のF氏によると1万5000歩を超えたらしい。
 
 アテネのアクロポリスへ。


アクロポリスから見下ろした劇場
 南麓にある古代のディオニュソス劇場では、紀元前5世紀の春3月、ディオニュソス神を祭る大ディオニュシア祭で、アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスらの悲劇が上演されました。この祭りは国家をあげての大演劇祭であると同時に、前年に仕込んだ葡萄酒をはじめて開ける時期でもありました。古代のボージョレ・ヌーヴォー解禁日です。春の訪れと新酒の酔いで華やぐアテネの市民たちが、劇場に参集して悲劇を見ながら、人間の業(ごう)や、ままならぬ運命についてさまざまな思いを巡らせたのでしょう。
 現在残っているディオニュソス劇場はローマ時代のもの。オルケストラ(舞台)が半円形です。紀元前5世紀の古典期のオルケストラは完全な円形でした。オルケストラの形からおおまかな時代がわかります。また、もとの劇場は観客席が木造でした。


 ギリシア悲劇は暗く悲惨なストーリーが多い。知らずに父親を殺し母親と結婚したオイディプスが、ある日自分の素性を知ってしまうソポクレス『オイディプス王』のように。しかし、悲劇は春の明るい空の下で上演されました。舞台の奥には自分たちの生活の場である街並みが見下ろせます。鳥のさえずりも聞こえていたでしょう。野外劇場は、深刻になりすぎずに人間の闇を見つめることを可能にしてくれます。


 劇場の近くに医神アスクレピオスを祀るアスクレピオンの跡が残されています。アスクレピオンの本家はエピダウロスですが、紀元前5世紀、悲劇詩人のソポクレスによってアテネに導入されました。
アスクレピオン


 アクロポリスのプロピュライア(前門)の石段を登りきるとパルテノン神殿がそびえています。アテネの守護神である「乙女神(パルテノス)」アテナを祀るこの神殿はもともと木造でしたが、紀元前480年、侵攻してきたペルシア軍の手によって焼け落ちます。アクロポリスに立てこもっていた少数のアテナイ市民兵は、ペルシアの奴隷になるよりは、とアクロポリスの高い崖から飛び降りて全滅しました。このペルシア戦争から数十年後、将軍ペリクレスの指導下で繁栄をきわめたアテネの黄金時代に再建されたのが現在残っているパルテノンです。
 当時は内陣の中に、彫刻家ペイディアス作の巨大なアテナ女神像がありました。肌の部分は象牙が貼られ、薄暗がりの内陣にそびえるアテナ女神像はまさに「人間を超えるもの」の偉容をたたえていたと思いますがもちろん現存しません。内陣そのものも、19世紀に火薬庫として使用されていた際の爆発で吹き飛んでしまいました。屋根の東西の三角部分(ペディメント)に飾られていたオリュンポスの神々の像は、現在大英博物館にあります。屋根下に巡らされていた浮き彫り彫刻(「パルテノン・フリーズ」)の一部は大英博物館で、一部はアクロポリスの麓にあるアクロポリス美術館で見ることができます。
アテネ・ポリアス神殿跡
 パルテノン神殿の傍らにはアテネの始祖エレクテウスを祀る「エレクテイオン」があります。屋根を支える柱は乙女像(現在はアクロポリス美術館に移設されています)。
 パルテノン神殿とエレクテイオンのあいだに、パルテノンより古いアテナ・ポリアス神殿がありました。現在は礎石だけが残されています。
アゴラのほぼ全景。左はローマ時代のストアを
利用したアゴラ美術館。右奥にアクロポリスが見える。


裁判で弁論の時間を計った水時計。
上の壺に穴が開いていて水が下の
壺にたまる。
毒杯
 アクロポリスを下ってアゴラへ。市場や公共施設や神殿があった大きな広場です。哲学者ソクラテスが死刑を宣告された裁判所もここにありました。アゴラ脇にあるアゴラ博物館には、ソクラテスがあおいだ毒杯(と同じもの)が展示されています。
アゴラの裁判所跡付近


















クーロス像


アルテミス女神像
 ピレウス美術館は数は多くないが見事なブロンズ像があります。
 紀元前4世紀の2体のアルテミス女神像と、紀元前4世紀のオリジナルをヘレニズム時代に模刻したアテナ女神像。

アルテミス女神像

アテナ女神像
 そしてクーロス(若者)像。背中が美しい。
クーロス像の背中
港のタベルナらしい船の絵や
船具が飾られた店内

白身魚のマリネ

 歴史と美に堪能したあとはおいしい食事。ピレウスのタベルナは旅行中いちばんレベルが高いシーフードレストランでした。


ズッキーニのフリット。
サワークリームで食べる
イワシのオリーブ油焼きとトマト


















 夕刻、アポロンの神託で有名なデルフィー(デルポイ)に向かいます。


12月29日 デルフィー(デルポイ)、オシオス・ルカス修道院


アテナイ人の宝庫
 神アポロンの神託所があったデルフィー(古代ギリシア語ではデルポイ)は「世界の臍」と呼ばれ、ギリシア各地だけでなく外国からも神託を求める人々が訪れました。ギリシアの都市国家(ポリス)も国難に際してデルポイの神託をあおぎました。神託の成就に感謝する奉納物を収めた各国の宝庫がアポロン神殿の下に建てられています。


 デルポイの神域はコリントス湾を望む険しい崖の中腹に広がっています。(←) ホテルからコリントス湾に面するイテアの港が見下ろせます。神域を訪れる巡礼者はこの港に上陸して、谷間の街道を写真の左にむかってたどります。
神域入口から見上げる
パイドリアデス


 デルポイの神域の背後にはパイドリアデス(「光る岩」)と呼ばれる崖がそびえています。朝日、夕日を受けるとオレンジ色に輝くことからこの名がつきました。


 20年前にパイドリアデスの上に登ったことがあります。崖の上に立つとデルポイの荘厳な聖域が見下ろせる。そこから山道を登り始めました。人っ子一人いない道を、ところどころ木につけられた赤い目印をたよりに(これは日本の登山道と同じですね。万国共通なんでしょうか)登るうちに、霧が立ちこめてきました。山の中腹のやや開けた草原(くさはら)で立ち止まり、もう戻った方がいいかと思い始めたころに、霧の向こうからカラカラという金属音が近づいてきます。カラカラの音がわたしを取り巻きました。やがて少し霧が晴れると、わたしは鈴をつけた山羊の群れに取り囲まれていました。山羊飼いの姿は見えません。霧の岩と緑のなかで静かにわたしを見つめる大山羊たち。怖さより、何か不思議の世界に迷い込んだような思いでしばし立ちつくしていました。神さびたデルポイにふさわしい体験だったと思います。


 閑話休題(あだしごとはさておき)。


ピュティアの神託が下されたアポロン神殿
 神託を告げるのはピュティアの巫女でした。彼女は火山性ガスが立ちこめるほこらに入ってアポロンの神に取り憑かれてお告げを叫び、それを神官が書き留めて相談者に告げます。オイディプスはここで「お前は父を殺し母と交わるであろう」という恐ろしい神託を受けました(もちろんこれは神話上の話です)。


巫女がこもった洞窟
内側から(学生撮影)
 アポロン神殿にピュティアの巫女がこもったほこら跡がありますが、これが神殿の基礎の外まで通じている。K先生がそんな解説をしていると、ツアー仲間の勇敢な女子大生がその穴にずんずん入っていきました。やがて少し離れた穴から彼女があらわれました。抜け道みたいになっているようです。長年ツアーを案内しているK先生もこの地下道に入ったことはなかったそうです。わたしは中に入らなかったので、内部の写真は勇敢な女子大生が撮ったものです。


デルポイの劇場
競技場
 アポロン神殿の上には劇場が、さらに最上部、崖の直下には運動競技場があります。ギリシアの運動競技会といえば、近代オリンピックのひな型となったオリンピア競技祭が有名ですが、オリンピア以外にも競技会はあり、デルポイの「ピュティア競技祭」はギリシア四大競技祭のひとつでした。


馭者の像
 デルポイ美術館には「馭者の像」があります。ピュティア競技祭で優勝した戦車競争の馭者を記念したブロンズ像です。その静かな表情は、現代のスポーツ競技会の優勝者にありがちな勝ち誇ったガッツポーズの対極にあります。競技会で輝く肉体はつかの間のもの。やがて滅びゆく肉体の美のはかなさを認識しているかのような静けさです。参加者の女子大生が「歩きのオスさん、この像でいちばんすごいのは足首なんですよ。こんなセクシーな足首はありません」と。言われて見ると確かに美しい。
足首

 クレオビスとビトンの像はアルゴスの兄弟を記念したもの。ヘロドトス『歴史』第1巻によれば、二人はアルゴスのヘラ祭に母親を連れて行こうと思ったが、車を引く牛が畑に出ていて間に合いそうもない。やむなく兄弟は母親を牛車に乗せてヘラ神殿まで引いて登っていった。母親に祭りを見せた直後に兄弟は絶命した。『歴史』には「アルゴス人は二人を世にも優れた人物だとしてその立像を作らせ、デルポイに奉納いたしたのでございます」(岩波文庫、松平千秋訳)とあります。

オイディプスの三叉路
 デルポイを離れ、パルナッソス山麓のさびれた場所でバスは止まります。この旅行記で何度か触れたオイディプスが、「お前は父親を殺し、母親と交わるだろう」というデルポイの神託に心乱れてとある三叉路にさしかかったとき、テーバイの方角からやってくる馬車の一行と出会う。オイディプスと馬車の一行はささいなことから諍いになり、オイディプスは馬車に乗っていた男を殺してしまいます。その男こそオイディプスの実の父親ライオス王にほかなりませんでした。
 ソポクレス『オイディプス王』のテキストに見事に符合するのが、バスが止まった三叉路なのです。『オイディプス王』のテキストを刻んだ石碑が立てられていて、ここがあの三叉路であることを伝えています。この石碑は新しいもので、立てたのはギリシア精神分析協会。フロイトの「エディプス(オイディプス)コンプレックス」の原点だということなのでしょう。


「人を寄せつけぬパルナッソスの荒々しさと静けさが支配するこの〈三叉路〉以上に、かの悲劇[『オイディプス王』]にふさわしい舞台はないと思えるほどである」と川島重成は書いています(『ギリシア紀行』岩波書店、2001)。




 バスは、11世紀に建てられ、キリストを描いた一連のモザイク画がある美しいオシオス・ルカス修道院へ。修道院の背景には、ギリシアの詩の女神ムーサ(英語でミューズ)が住んだとされるヘリコン山がある。


 夕刻、オリンピアに到着。







0 件のコメント:

コメントを投稿