2011年9月28日水曜日

history は his story か!?

 いつぞや、いわゆる「政治的に正しい politically correct」表現が話題になったとき、居あわせた英語の先生が「ほんとに神経使うのよ。history は his story だからよくないとかね」と言った。

 わたしはてっきりジョークだと思ったのだがそうではないらしい雰囲気だった。それきりあまり気にしていなかったのだが、学生の一人からひょんな折に「わたし、高校の英語の先生から history は his story だから男性上位の単語なんだって教わりました」と言われてはじめて、これが少なくとも一部で流布している考えなのだと思いいたった。

 これは由々しき(あるいは喜劇的な)事態だ。

ヘロドロス(松平千秋訳)
『歴史』全3冊、岩波文庫
 history の語源は英語ではなくギリシア語の「ヒストリエー」である。
 ヘロドトスは前5世紀のペルシア戦争の歴史を記述した『歴史(ヒストリエー)』の作者だ。この書名は、ヘロドトスが冒頭で、この本は過去に起きたペルシア戦争という大きな事績の「探求(ヒストリエー)」である、と述べているのに由来する。だからふつう訳されているように『歴史』と訳してもいいし、もともとの意味に忠実に『探求』と訳したっていい。

 ともかく、ヘロドトスの『歴史』によってヨーロッパの歴史記述は始まった。
 
 世界史の教科書には、ヘロドトスが「歴史の父」であると書いてある。その意味は、彼の『歴史』という書物がヨーロッパで最古の歴史叙述であるというだけでなく、ヘロドトスが欧米語の「歴史」(英語だと history)という単語そのものを生み出した「父」でもあるということだ。




 再度言っておくと英語の history の語源はギリシア語の「ヒストリエー」であって、his は「彼の」ではなくギリシア語「探求」の一部分でしかない。

 だから「history は his story だから男性上位の単語だ」と言うのは
「カレーライスは『彼ライス』だから男性上位のイデオロギーを表す単語だ」というのと同じレベルのだじゃれでしかない。語源学的にまったく根拠のない妄言である。


 英和中辞典の history を見れば語源がギリシア語の「探求」だということはちゃんと書いてある。妄言を授業で教える英語教師は辞書を見ることさえしていないのだろう。




(2015/2/9付記)
アクセス数が多い投稿なので、文を少しわかりやすく編集しました。内容の変更はまったくありません。

 

 

2011年9月27日火曜日

回想のギリシア旅行その6(オリンピア、アルカディア)

2010年12月30日 オリンピア→アルカディア高原→夕刻スパルタ着


 オリンピア遺跡見学ののち、オリンピア考古学博物館へ。

門をくぐって競技場へ
競技場入口の門
(ローマ時代のもの)
 近代オリンピックを創始したクーベルタン男爵がそのひな型として仰いだ古代オリンピア競技祭は、大神ゼウスに捧げる宗教祭儀でした。というより、古代の運動競技会は基本的に宗教祭儀でした。ギリシア人の宗教的想像力のなかで視覚は重要です。大英博物館にあるパルテノン神殿の神々の像は、本来見上げる位置にあったので、おそらく参拝する人間より神々に見てもらうためのものだったと思われます。運動競技会も「躍動する美しい肉体を神々もご覧になって楽しまれる」という「神々の視線」を意識したものでした。競技祭はすでに前8世紀から有名で、4年ごとにギリシア各地から名だたる運動選手が集まり技を競いました。
競技場全景


ゼウス神殿
ラピタイ人とケンタウロスの乱闘
中央のアポロン
 前5世紀に建てられたゼウス神殿は力強いドーリス式の典型。6世紀の大地震で倒壊したままの姿ですが倒れた石柱が迫力を感じさせます。神殿内陣にはペイディアス作の巨大な座像があり、その台座にはオリンポスの十二神の像が並んでいました。これらはすべて失われてしまいましたが、神殿東西の破風を飾っていた彫刻と、メトープのヘラクレス十二の難行を描いた浮彫彫刻はオリンピア考古学博物館に保存されています。ゼウス神殿の西破風の主題は「ラピタイ人とケンタウロスの乱闘」。ラピタイ人の王の婚礼に招かれた半人半獣のケンタウロスたちが酔ったあげくに乱暴狼藉におよび、それに対抗する人間たちとの乱闘シーンが描かれています。ケンタウロスと人間の激しい動き、両端に恐怖でうずくまる侍女たち。その中央に、静かな表情と体勢で屹立しているのが神アポロン。動と静のコントラストと調和がみごとな彫刻です。

ヘラ神殿
 ゼウス神殿の隣にヘラ神殿があります。ゼウス神殿より古く、もともとは夫ゼウスとの合同の神殿だったようです。おもしろいのは柱のデザインが統一されていないこと。元来木造だった柱を、古くなるたびに石の柱に取り替えていったからこうなりました。このヘラ神殿の前には犠牲の式が行われた祭壇跡が残っています。ギリシア風の衣装を着た女性たちによるオリンピックの聖火の採火式はここで行われます。その映像をニュースなどでご覧になった方も多いと思いますが、聖火リレーは古代ギリシアの競技会にはありませんでした。


ヘルメス像
 オリンピア考古学博物館は見どころたくさんあり。
 前4世紀の彫刻家プラクシテレスの「ヘルメス像」。ローマ時代の模刻かとも言われていますが、ギリシアの身体美の理想を具現した作品のひとつであることはまちがいないでしょう。わたしは脚が少しだけ長すぎると思いますが。
 (↓) 美少年ガニュメデをさらうゼウス。もちろんホモセクシュアルです(妻ヘラもいるんですが)。のんきな雰囲気が好きです。

ニケ像
ガニュメデを
さらうゼウス
















(→) 勝利の女神「ニケ」。スポーツ用品メーカー「ナイキ」がニケの英語読みで、ナイキのマークがニケの翼をデザインしたものであることはご存じかと思います。

奥がミルティアデスの兜
手前はペルシア軍から奪った兜
楯の飾りの怪物ゴルゴンの顔
 前490年のマラトンの戦いでアテネ・プラタイア連合軍を率いてペルシア軍に勝利を収めた将軍ミルティアデスは、戦闘で用いた自分の兜と戦利品のペルシア軍の兜をゼウス神殿に奉納しました。


 オリンピアを後にしてアルカディアを通り、ペロポネソス半島の北を横断、ナウプリオンに向かいます。

 アルカディアは、葦笛を吹く羊飼いたちの世界、「牧歌」の地として有名です。17世紀フランスの画家ニコラ・プッサンの絵に描かれているのでも有名な「われアルカディアにもあり Et in Arcadia ego」ということばは「わたしはかつてアルカディアのような桃源郷にいたこともあるのだ」という意味に理解されることもありますが、「われ」は「死」を指していて「アルカディアのような美しい場所にも死はあるのだ」というのが本来の意味でしょう。
 実はアルカディアが牧歌と結びつけられたのは後代のローマの詩人ウェルギリウスからなのですが、古代ギリシアでもアルカディアは牧神パンと結びつきが強い神さびた土地でした。バスはアルカディアの山のカーブを進んでいきます。ギリシアらしい美しいが冷酷な自然。でも「Et in Arcadia ego」を念頭に置いているからか、アルカディアはことに「死」を背景にした美しさをたたえているように思えてなりませんでした。


ハーブティーを飲んだ
茶店入り口
 途中、アルカディアの谷間の村でトイレ休憩をかねて趣ある茶店でハーブティーを。再びバスに乗ったときには宵闇で、村のあかりが谷間に揺れながら遠ざかっていきました。


2011年9月22日木曜日

回想のギリシア旅行その5(アテネ、デルフィー、オシオス・ルカス修道院)

2010年12月28日 アクロポリス、アゴラ、ピレウス博物館。夕刻デルフィー(デルポイ)へ。



 今日はよく歩いた。万歩計持参のF氏によると1万5000歩を超えたらしい。
 
 アテネのアクロポリスへ。


アクロポリスから見下ろした劇場
 南麓にある古代のディオニュソス劇場では、紀元前5世紀の春3月、ディオニュソス神を祭る大ディオニュシア祭で、アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスらの悲劇が上演されました。この祭りは国家をあげての大演劇祭であると同時に、前年に仕込んだ葡萄酒をはじめて開ける時期でもありました。古代のボージョレ・ヌーヴォー解禁日です。春の訪れと新酒の酔いで華やぐアテネの市民たちが、劇場に参集して悲劇を見ながら、人間の業(ごう)や、ままならぬ運命についてさまざまな思いを巡らせたのでしょう。
 現在残っているディオニュソス劇場はローマ時代のもの。オルケストラ(舞台)が半円形です。紀元前5世紀の古典期のオルケストラは完全な円形でした。オルケストラの形からおおまかな時代がわかります。また、もとの劇場は観客席が木造でした。


 ギリシア悲劇は暗く悲惨なストーリーが多い。知らずに父親を殺し母親と結婚したオイディプスが、ある日自分の素性を知ってしまうソポクレス『オイディプス王』のように。しかし、悲劇は春の明るい空の下で上演されました。舞台の奥には自分たちの生活の場である街並みが見下ろせます。鳥のさえずりも聞こえていたでしょう。野外劇場は、深刻になりすぎずに人間の闇を見つめることを可能にしてくれます。


 劇場の近くに医神アスクレピオスを祀るアスクレピオンの跡が残されています。アスクレピオンの本家はエピダウロスですが、紀元前5世紀、悲劇詩人のソポクレスによってアテネに導入されました。
アスクレピオン


 アクロポリスのプロピュライア(前門)の石段を登りきるとパルテノン神殿がそびえています。アテネの守護神である「乙女神(パルテノス)」アテナを祀るこの神殿はもともと木造でしたが、紀元前480年、侵攻してきたペルシア軍の手によって焼け落ちます。アクロポリスに立てこもっていた少数のアテナイ市民兵は、ペルシアの奴隷になるよりは、とアクロポリスの高い崖から飛び降りて全滅しました。このペルシア戦争から数十年後、将軍ペリクレスの指導下で繁栄をきわめたアテネの黄金時代に再建されたのが現在残っているパルテノンです。
 当時は内陣の中に、彫刻家ペイディアス作の巨大なアテナ女神像がありました。肌の部分は象牙が貼られ、薄暗がりの内陣にそびえるアテナ女神像はまさに「人間を超えるもの」の偉容をたたえていたと思いますがもちろん現存しません。内陣そのものも、19世紀に火薬庫として使用されていた際の爆発で吹き飛んでしまいました。屋根の東西の三角部分(ペディメント)に飾られていたオリュンポスの神々の像は、現在大英博物館にあります。屋根下に巡らされていた浮き彫り彫刻(「パルテノン・フリーズ」)の一部は大英博物館で、一部はアクロポリスの麓にあるアクロポリス美術館で見ることができます。
アテネ・ポリアス神殿跡
 パルテノン神殿の傍らにはアテネの始祖エレクテウスを祀る「エレクテイオン」があります。屋根を支える柱は乙女像(現在はアクロポリス美術館に移設されています)。
 パルテノン神殿とエレクテイオンのあいだに、パルテノンより古いアテナ・ポリアス神殿がありました。現在は礎石だけが残されています。
アゴラのほぼ全景。左はローマ時代のストアを
利用したアゴラ美術館。右奥にアクロポリスが見える。


裁判で弁論の時間を計った水時計。
上の壺に穴が開いていて水が下の
壺にたまる。
毒杯
 アクロポリスを下ってアゴラへ。市場や公共施設や神殿があった大きな広場です。哲学者ソクラテスが死刑を宣告された裁判所もここにありました。アゴラ脇にあるアゴラ博物館には、ソクラテスがあおいだ毒杯(と同じもの)が展示されています。
アゴラの裁判所跡付近


















クーロス像


アルテミス女神像
 ピレウス美術館は数は多くないが見事なブロンズ像があります。
 紀元前4世紀の2体のアルテミス女神像と、紀元前4世紀のオリジナルをヘレニズム時代に模刻したアテナ女神像。

アルテミス女神像

アテナ女神像
 そしてクーロス(若者)像。背中が美しい。
クーロス像の背中
港のタベルナらしい船の絵や
船具が飾られた店内

白身魚のマリネ

 歴史と美に堪能したあとはおいしい食事。ピレウスのタベルナは旅行中いちばんレベルが高いシーフードレストランでした。


ズッキーニのフリット。
サワークリームで食べる
イワシのオリーブ油焼きとトマト


















 夕刻、アポロンの神託で有名なデルフィー(デルポイ)に向かいます。


12月29日 デルフィー(デルポイ)、オシオス・ルカス修道院


アテナイ人の宝庫
 神アポロンの神託所があったデルフィー(古代ギリシア語ではデルポイ)は「世界の臍」と呼ばれ、ギリシア各地だけでなく外国からも神託を求める人々が訪れました。ギリシアの都市国家(ポリス)も国難に際してデルポイの神託をあおぎました。神託の成就に感謝する奉納物を収めた各国の宝庫がアポロン神殿の下に建てられています。


 デルポイの神域はコリントス湾を望む険しい崖の中腹に広がっています。(←) ホテルからコリントス湾に面するイテアの港が見下ろせます。神域を訪れる巡礼者はこの港に上陸して、谷間の街道を写真の左にむかってたどります。
神域入口から見上げる
パイドリアデス


 デルポイの神域の背後にはパイドリアデス(「光る岩」)と呼ばれる崖がそびえています。朝日、夕日を受けるとオレンジ色に輝くことからこの名がつきました。


 20年前にパイドリアデスの上に登ったことがあります。崖の上に立つとデルポイの荘厳な聖域が見下ろせる。そこから山道を登り始めました。人っ子一人いない道を、ところどころ木につけられた赤い目印をたよりに(これは日本の登山道と同じですね。万国共通なんでしょうか)登るうちに、霧が立ちこめてきました。山の中腹のやや開けた草原(くさはら)で立ち止まり、もう戻った方がいいかと思い始めたころに、霧の向こうからカラカラという金属音が近づいてきます。カラカラの音がわたしを取り巻きました。やがて少し霧が晴れると、わたしは鈴をつけた山羊の群れに取り囲まれていました。山羊飼いの姿は見えません。霧の岩と緑のなかで静かにわたしを見つめる大山羊たち。怖さより、何か不思議の世界に迷い込んだような思いでしばし立ちつくしていました。神さびたデルポイにふさわしい体験だったと思います。


 閑話休題(あだしごとはさておき)。


ピュティアの神託が下されたアポロン神殿
 神託を告げるのはピュティアの巫女でした。彼女は火山性ガスが立ちこめるほこらに入ってアポロンの神に取り憑かれてお告げを叫び、それを神官が書き留めて相談者に告げます。オイディプスはここで「お前は父を殺し母と交わるであろう」という恐ろしい神託を受けました(もちろんこれは神話上の話です)。


巫女がこもった洞窟
内側から(学生撮影)
 アポロン神殿にピュティアの巫女がこもったほこら跡がありますが、これが神殿の基礎の外まで通じている。K先生がそんな解説をしていると、ツアー仲間の勇敢な女子大生がその穴にずんずん入っていきました。やがて少し離れた穴から彼女があらわれました。抜け道みたいになっているようです。長年ツアーを案内しているK先生もこの地下道に入ったことはなかったそうです。わたしは中に入らなかったので、内部の写真は勇敢な女子大生が撮ったものです。


デルポイの劇場
競技場
 アポロン神殿の上には劇場が、さらに最上部、崖の直下には運動競技場があります。ギリシアの運動競技会といえば、近代オリンピックのひな型となったオリンピア競技祭が有名ですが、オリンピア以外にも競技会はあり、デルポイの「ピュティア競技祭」はギリシア四大競技祭のひとつでした。


馭者の像
 デルポイ美術館には「馭者の像」があります。ピュティア競技祭で優勝した戦車競争の馭者を記念したブロンズ像です。その静かな表情は、現代のスポーツ競技会の優勝者にありがちな勝ち誇ったガッツポーズの対極にあります。競技会で輝く肉体はつかの間のもの。やがて滅びゆく肉体の美のはかなさを認識しているかのような静けさです。参加者の女子大生が「歩きのオスさん、この像でいちばんすごいのは足首なんですよ。こんなセクシーな足首はありません」と。言われて見ると確かに美しい。
足首

 クレオビスとビトンの像はアルゴスの兄弟を記念したもの。ヘロドトス『歴史』第1巻によれば、二人はアルゴスのヘラ祭に母親を連れて行こうと思ったが、車を引く牛が畑に出ていて間に合いそうもない。やむなく兄弟は母親を牛車に乗せてヘラ神殿まで引いて登っていった。母親に祭りを見せた直後に兄弟は絶命した。『歴史』には「アルゴス人は二人を世にも優れた人物だとしてその立像を作らせ、デルポイに奉納いたしたのでございます」(岩波文庫、松平千秋訳)とあります。

オイディプスの三叉路
 デルポイを離れ、パルナッソス山麓のさびれた場所でバスは止まります。この旅行記で何度か触れたオイディプスが、「お前は父親を殺し、母親と交わるだろう」というデルポイの神託に心乱れてとある三叉路にさしかかったとき、テーバイの方角からやってくる馬車の一行と出会う。オイディプスと馬車の一行はささいなことから諍いになり、オイディプスは馬車に乗っていた男を殺してしまいます。その男こそオイディプスの実の父親ライオス王にほかなりませんでした。
 ソポクレス『オイディプス王』のテキストに見事に符合するのが、バスが止まった三叉路なのです。『オイディプス王』のテキストを刻んだ石碑が立てられていて、ここがあの三叉路であることを伝えています。この石碑は新しいもので、立てたのはギリシア精神分析協会。フロイトの「エディプス(オイディプス)コンプレックス」の原点だということなのでしょう。


「人を寄せつけぬパルナッソスの荒々しさと静けさが支配するこの〈三叉路〉以上に、かの悲劇[『オイディプス王』]にふさわしい舞台はないと思えるほどである」と川島重成は書いています(『ギリシア紀行』岩波書店、2001)。




 バスは、11世紀に建てられ、キリストを描いた一連のモザイク画がある美しいオシオス・ルカス修道院へ。修道院の背景には、ギリシアの詩の女神ムーサ(英語でミューズ)が住んだとされるヘリコン山がある。


 夕刻、オリンピアに到着。







2011年9月19日月曜日

回想のギリシア旅行その4(クレタ島2日目)

2010年12月27日 クノッソス、イラクリオン考古学博物館、ザロス


 午前中、ミノア文明を代表する遺跡クノッソスへ。
 1900年イギリスのサー・アーサー・エヴァンズによって発掘されたこの大遺跡は、紀元前1625年頃、火災で焼け落ちたと推定されるそれまでの旧王宮のあとに建てられた。この新王宮も紀元前1375年頃に火災で焼け落ちる。


「ユリの王子」
女王の間のイルカのフレスコ
 遺跡の数カ所にフレスコ画があるが、これらはエヴァンズが復元したもの。フレスコ画に限らず、クノッソスに施したエヴァンズの「復元」のやり方には批判が多い。そのせいか、これだけ重要な遺跡でありながらいまだ世界遺産に登録されていない。





複雑な階層構造
 (→) 南門の建物。赤く塗られた柱はエヴァンズの復元。遠くにユクタス山が見える。ミノア時代の遺跡は中心線が聖なる山に向かっている、というのがK先生の仮説。


 重要な遺構は中央にある広場の西側に集中している。複雑な階層構造をなし、その3で触れたミノス王のラビリントス(迷宮)跡だと言われたことさえある。多くの出土品は現在イラクリオン考古学博物館におさめられている。

(←) 出土した「蛇の女神」(イラクリオン考古学博物館)。
 向かって左の女神の両腕に蛇が巻き付いている。右は両手に蛇を持っている。蛇は大地と結びつきが強い。豊かな乳房とともに、大地の豊饒の力をあらわす大地母神的な女神かもしれない。


「王座の間」フレスコは再現。床の水盤は
もともとここにあったものではない。

 20年前は下の倉庫区画まで下りることができたし、「王座の間」ももっと見ることができた。現在は遺跡保護のために入場できる場所が限定されている。

 20年前、イラクリオンで出会ったスペイン人の若者と民宿に同宿した。クノッソス宮殿に誘うと「なんだ、それは」と言う。彼は英語があまりできないので、英語といい加減なフランス語と、ラテン語まで混ぜて説明すると「暇だからつきあう」と。
 クノッソスで王宮の階段を下りていくあたりから彼が「すごいすごい」と興奮し始めた。「何がすごいんだ」と尋ねると、
倉庫区画にある大きな貯蔵用の壺
テラコッタの給水設備
「お前、わからないのか。この階段の脇に溝が掘ってあってところどころ穴が開いているだろう。ここを雨水が通って穴から下の大瓶にたまるようになってるんだ。何千年も前のものとは信じられない」。
雄牛のリュトン。
イラクリオン考古学博物館
 そう、彼の仕事は配管工だったのです。彼を誘わなければクノッソスの給排水施設に注意が向かなかった。なお、彼はホモセクシュアルでしたが、最初に「おれはストレートだ。おれたちはただの友達だ」と納得させたので二晩何事も起きませんでした。いい奴でした。
カマレスの壺


(←) 北の端にある「劇場」。演劇が上演されたわけではなく、何らかの宗教祭儀のための広場だったらしい。奥の道の先に「小王宮」があり、そこから有名な「雄牛のリュトン」が見つかった。





カマレス様式だがフェストス
から出土した壺。美しい。





 午後はイラクリオン考古学博物館へ。イダ山にあるカマレスの洞窟から出た美しい壺など、ミノア文明の遺物は応えがある。
タコを絵柄にした壺









 クリスマスから年末のオフシーズンなので大人数が入れるおいしいタベルナが見つけにくく、山間の小さな村(ザロス)に行くことになった。クレタの郷土料理を食べるためだけに行った村だが予想外に楽しいところだった。


 坂が多い村の景色がたのしい。中年の男が呼び止めて「まだ開設してないが村の民具の博物館にしようと思っている。見ていかないか」と誘い入れられた。今はバーになっている。片隅に古いオリーブ絞り器があってこれが目玉となる民具のようだった。雰囲気のある建物で、バーのままの方が客が入るんじゃないかと思ったがさすがに言えなかった。


クレタ料理フルコースのメインは鶏肉の雑炊。地鶏の茹で汁で米を煮たシンプルなものだったが味わい深くすばらしかった。
 長い食事を終えて外に出ると夕闇。
立派な英語を話す村人(あとで聞いたら引退した元観光ガイド)が話しかけてきて、この村にクレタ島の民族楽器を制作するただ一人の職人の店があるから見に行かないかと言う。喜んで案内してもらう。狭い店内には螺鈿で細工をほどこした美しい楽器が所狭しと並んでいる。店主は若い頃は踊れるミュージシャンとして名を馳せたという。若いときの写真が壁に飾ってあるが、なんと店主は人の頭の上で踊っている! トリック写真ではなさそうだ。
タベルナの入口
葡萄の葉で米を包んだドルマデス。
定番の前菜だが店ごとに味が違う。
山盛りの茹で地鶏

鳥の茹で汁で似た雑炊
店主は「記念に」と言って「ミノア時代から続く最古の笛」を皆にくれた。カミソリで切り込みを入れてリードを作るのだが、わたしたち一人一人の顔を正面から見てリードを切り込んでいく。口の形に合わせて作らないと音が出ないそうだ。帰国して吹いた笛からは古式豊かな音が鳴り響いた。


夕闇の中をイラクリオン空港に向かい、アテネに戻った。

クレタ風デザート。甘い餅に
アイスクリームが載っている。