2018年8月20日月曜日

赤ワインとローストビーフ

まだ大学院生だった頃、フランス文学を研究していた仲間の話がいまだに強く印象に残っています。

彼女はいいところのお嬢様でそれなりに立派なワインも飲んできていた。
そんな彼女がパリに留学した時、下宿の管理人のおばさんとワインの話になって、「私は○○の××年物が好きだ」というようなことを言ったらおばさんが激怒したという話です。

おばさん曰く。
「それはあんたみたいな若造が飲むワインではない。ワインの味というのは何本も何本も飲んで、ほっぺたに酒焼けの赤ぎれができるくらい飲んでようやくわかるものだ。知ったかぶりをするんじゃない」

院生仲間の女性はそれを聞いて反省した。
そして安ワインをしこたま飲むことにした。
(立派だと思う。ただのお嬢様ではなかったということです)

要するに、ワインにかぎらず何事につけても、体で量をこなさなければいくら情報を集めたって正しい判断はできないということです。



わたしのワインについての基本姿勢はすでに「日本酒の話」に書きました。
ワインの全体像をつかむことは無理そうだからワイン通になることはきっぱり諦めたということなのですが。


それでもワインについては結構投稿している。

なぜなのだろう。
そう自問してみると二つ理由が思い当たります。

ひとつは。
それなりに量をこなしてきてしまったこと。年間150本くらい飲んでる。
(日本酒やシングルモルト・ウィスキーや焼酎やラムも飲んでるからあらためて酒飲みなんだなあと思います)
上の自問をしたときに院生仲間の話を思い出したのはそれだと思う。
量をこなしただけのことは言えるんじゃないか。


もうひとつの理由は。
料理や酒やファッションは個人の「好み」だと言えば言えるのだけれど同時に「文化」でもある。

文化の基盤は「言葉による共有」です。
もちろん「おれはこれが好きだ。文句あっか」と言ってもかまわない。
かまわないけれどそれは個人の身体的反応=感想であって文化ではない。

ブログは基本的には個人的な媒体だと思うのだけれど、
「おれはこれが好きだ」という個人的な身体的反応をそのまま書き散らしたいとは思わない。
「好きだ」という個人的な事実がどれだけ共有可能なものなのか。
どれだけ文化として妥当性があるものなのか。
それを言葉によって確認する意味もブログにはあると思う。
確認の仕方が何なのかはまだよくわからないけど(「イイネ」の数ではないだろうということだけは確信しているのですが)。

自分の「好きだ」を読む人の批評に対してオープンにしておく。
そういう姿勢は保持していきたいと思っています。

ワインに話を戻せば。

それなりに量をこなした人間として、
同時にワインの全体像をつかめていない人間として、
飲んだワインについて言葉にすること。
それはソムリエやワイン通とは違う種類の言葉で「文化」にちょっとは貢献できるんじゃないか。

そんな理由でワインについて投稿してきたんじゃないか。
と思いつきました。
以下はそういう立ち位置の「歩きのオス」の最近のワイン体験です。



「ドゥーカ・ディ・サラパルータ・ラヴィコ 2013」

最近流行っているのではないかと思われるシチリア島エトナ山麓の赤「エトナ・ロッソ」。
上品ではあるのだけれどそれほど好みではなかった。
酸味が強いと思う。
コーヒーと日本酒は酸味が強いものが好きなのだけれどワインの酸味は好きではない。
この「ラヴィコ」を開けたてのときの印象もそれ。


知人から高級なローストビーフをいただいた。
山梨県の湊輿 Minayo の「牛肉のロースト鮑醤油仕立てモモ」。
山梨県に昔からある、駿河湾で採れた鮑を醤油漬けにした「煮貝」をローストビーフのソースにしたものです。

うまい。
これに鮑のソースをかけて食べる
西洋風ローストビーフが霞むくらいに。

それに上の「ラヴィコ」を合わせた。
印象がガラリと変わりました。
この酸味がなければローストビーフと合わない。
そして「ラヴィコ」自体の味も引き立ってくる。
重層的でエレガントな味が。

単品で飲むワインと料理とともに飲むワインとは評価基準が違う(ワイン通の方に取っては常識なのかもしれません)。
とりわけ肉料理についてはワインの酸味が必須なのではないか。

遅ればせにそういうことがわかりました。
素人ですみません。



ボデガス・ブレカ2014
もうひとつの体験は「ボデガス・ブレカ」
スペインはアラゴン州カラタユドの赤のひとつ。
エトナと同じように最近評価が高い地域だと思います。


これ、数年前に飲んで衝撃を受けました。
ワインの苦みをはじめていいなと思った。
ワイン評論家のロバート・パーカーの「液体の岩のような」(liquid rock-like) と言う形容はこれを指しているのだと思った。同時に、体の感覚を言葉で言い当てようとするパーカーの膂力 (りょりょく) にも衝撃を受けました。


それ以来、わたしの定番のひとつだったのだけれど。
去年の夏、穂高の山小屋に来客を迎えたとき、
ぜひともこれを飲ませようと思って2本準備していたのにおいしくなかった。
酸味がきついし、「液体の岩のような」硬質なボディーが感じられない。
「ブレカよ、どうしたんだ!?」

年度の違いだろうか(「ボデガス・ブレカ 2014」)。
いやいや、山小屋での保存状態が良くなかったのでは、と思って、
今さらしょうがないけどというつもりで冷蔵庫に入れて1年置きました。
それを今日開けた。

うまい。

醸造酒は生き物なんだなとあらためて思い知りました。

量は飲んだけどたいした舌ではないわたしの体験。
だけどこうして言葉にすることで文化としてのワインの奥行きと複雑さを伝えられたらな。
そう思います。