2017年1月11日水曜日

追悼文の鑑 (かがみ)


亡くなった新派の女形、英太郎(はなぶさたろう)の追悼文を水谷八重子が書いている(毎日新聞 2017/1/9 の朝刊)。

英太郎は全く知らなかった。
だけれども。
水谷八重子の追悼文は、
わたしのようにまったく知らない人間にも英太郎の人となりを明確に伝えていて、
同時に、多くの時間を共有した仲間の死への切々たる思いを
感情過多になることなくあらわす名文だ。

英太郎の「不思議な」人柄を、東京オリンピックの時に喫茶店でマラソンのアベベ選手と知り合ったエピソードから語り始める。

「[アベベ選手と]仲良くなったと言っていたが、何する人かあんまりよくは知らないようだった。『なんだか雰囲気の良い人だった』と言っていたようにしか覚えていないけれど・・・・・・。」

英太郎の「不思議」を一発でわからせるエピソードの選択。

それだけじゃない。
水谷八重子は「1964年の」東京オリンピックと書いている。
年配の人間にとって東京オリンピックは共有されたイベント。
しかしそれを知らない若い人だっている。
「1964年の」にあらゆる人に情報をきちんと伝えようとする配慮がある。


英太郎の「芸」もきちんと伝える。

「決して器用な人ではなかった。負けん気の強い彼は、その苦労を決して人に見せなかった」と一般的な評をしたあとで、具体的な例をいきいきと描く。


水谷自身が演出をした『海神別荘』で女房役を演じた英太郎が忘れられない、
そう書く。

どうして忘れられないのか。

「喜多郎の音楽に乗ってのせりふが歌舞伎の女形さんのようになる。違う違うこれは、この世の者ではないんだから、夢みたいにしゃべってよ。素人演出家[水谷自身]はうるさく言った」

「違う違うこれは、この世の・・・」の文の描出話法(「」をつけない語り)が効いている。
『海神別荘』がどういう世界のお芝居なのかをこの文だけで伝える。
そして「器用な人ではなかった」英が水谷の注文にどう答えたかも。

「英さんはソフトな夢のようなファルセットのまま全てのせりふをうたった。喜多郎の音楽を従えて」

英太郎の舞台をどうしても見たくなる。

結びは、
「下げ髪で小袿(こうちぎ)の褄(つま)をはしょって市女笠と蓮華灯籠を持って、喜多郎の音とともに旅立って逝く二代目・英太郎、大久保ちゃんの姿が恋しい」

実際に見ていない読者にも、英太郎の美しい姿が目に浮かぶ。
そして水谷八重子の胸を引き裂かれるような悲しみも。

水谷八重子は70代後半。
この年代になると、追悼は思いの表白が強くなりがちだと想像する。

しかし水谷は「亡き人の情報を読者にきちんと伝える」という追悼文のもうひとつの役割をきちんと意識している。年寄りにはなかなかできない技。

追悼文の鑑(かがみ)だと思いました。


英太郎が亡くなったのが去年の11月11日だとわかるといっそう感慨深い。
追悼文にかかりっきりではなかったにせよ、おそらく水谷八重子は、老いの衰えゆく体力を振り絞ってほぼふた月かけてこの文を書いたのだろう。



この日の毎日新聞朝刊はいい文章が多かった。

壇蜜のインタビュー。
高橋源一郎の人生相談。

興味が出た人は読んでみてください。