毎日新聞はミャンマーのアウンサンスーチー女史の手記「ビルマからの手紙」を不定期に連載している。 昨日4/13の朝刊に「四半世紀ぶりの日本 茎の細いバラはありますか?」というタイトルで来日直前の手紙が掲載された。
アウンサンスーチーは
「私が幼い頃は、花飾りは葬儀などの悲しい場面を除けば、女性の身だしなみに欠かせないものだとされていた。今では 〈中略〉 花飾りの習慣はすっかりすたれてしまった。それでも私はただ好きだからという理由で、伝統を守っている。」
と書いたあとで
秘書のティンマーアウン博士が、スーチー女史の花飾りを結い上げる際に「普通のヘアピンでは歯が立たないほど茎の太いバラの扱い」に苦労しており、「4月の日本に、茎の細いバラはあるのでしょうか」と結んでいる。
美しい文章だが、残念ながら4月の日本には茎の細いバラどころか、そもそもバラが咲いていない。少なくとも関東ではモッコウバラくらいしか咲いていないし、花屋の温室栽培のバラは切り花用の茎が太い奴だ。スーチー女史には美しい花飾りはあきらめていただくしかない。
でもスーチー女史の手紙は、当人の意図ではないだろうが、バラにとどまらない日本の園芸植物全体の問題を鋭く突いていると思う。
わたしたちが思い浮かべるバラは、花屋で売っている花束用のバラだと思う。
日持ちのする厚い花弁、花束やアレンジメントに向いた太い茎。
しかしバラの本当の魅力は庭園の中にあると思う。オールド・ローズやモダン・シュラブはそういう魅力を追求したバラだ。切り花用のバラの対極にあるバラだ。
大まかな傾向として背が高く、花首が細く、香りが強い。
この三つの特徴は密接不可分だと思う。
庭を歩く人の目の高さ辺りにしなだれて咲くから香りが引き立つ。
また花色に濃淡がある。ばらつきと言ってもいい。
花束にするにはくっきり一様の色の方が便利だ。実際、そのように品種改良されている。
でもそんなバラが庭に咲き誇っていては息がつまる。
オールド・ローズやモダン・シュラブの色の曖昧さは庭に奥行きと風情をもたらす。
バラに限った話じゃない。
ずいぶん昔、学生を自宅に招待してパーティーをした。
広い庭のある大学の教員住宅だった(それが「パイエーケス人の園」)。
そのとき、庭に大好きなフクシャのある品種が咲いていて、
学生たちが「きれいですね」と感心してくれたので、
すばらしさをもっとわかって欲しくて
迷惑を顧みず、そのフクシャの由来を説明した。
すると生物学を専攻している学生がフンとせせら笑いながら、
「先生、今では花の形・色・香り、すべての要素が分析されていて、思うように花の品種改良が可能なんですよ」
と言った。
パーティーなので「ああ、そうなんですか」と答えただけだったが、
「お前は花をわかってないな」
と言いたかった。
そういう高度な技術を駆使して品種改良された園芸植物がホームセンターに並んでいる。
古い品種と較べると、圧倒的に花数が多く、花期も長い。
わたしはそういう品種の苗を買う気にならない。
「庭の風景」にならないからだ。
専門家じゃないので確かではないが、
おそらく品種改良の技術だけで言うとイギリスは日本に負けるんじゃないかと思う。
でもイギリスの園芸植物のレベルに日本は及ばない。
イングリッシュ・ガーデンのすばらしさは奥行きと陰影だ。
サントリーやキリンが開発したきれいだけど揺れ動きがない花色ではその奥行きと陰影は絶対に出ない。
結局は花を創る人間の想像力の問題だ。
花色・花型・香りを完全に分析できても、その分析をもとにどんな花を作るかのヴィジョンが決定的だ。
少なくとも今の日本の「美しい」園芸植物は、
「植物単体の美しさ」にしか想像力が行っていなくて、
「庭の風景の中でその花が持つ美しさ」というところまで及んでいない。
デヴィッド・オースティン作出のイングリッシュ・ローズのすばらしさは揺らぎと陰影。
イギリス庭園の伝統に培われた想像力は桁が違う。
庭に植えたときのイングリッシュ・ローズの迫力ったらない。
「いやお前、日本の狭い家でそんな庭を持てるかよ」
と思ったあなた。
そうだけどもっと考えて欲しい。
英国貴族の庭は無理だとしても、小さくて美しい庭を持つことは人間として当然あってもいいものじゃないでしょうか。イギリスにだって小さな庭はたくさんある。
動物は庭を持たない。
庭は人間が人間であることの証(あかし)のひとつだと思う。
だとすれば
「庭」というものが人間にとって不可欠なもので、
それがない生活は人間的生活とは言えない、
という発想だってしていいんじゃないだろうか。
まっとうに働いた人間ならだれでもそういう庭を持てる。
日本国憲法がうたう「健康で文化的な最低限度の生活」にそれが含まれるべきじゃないか。
金持ちだけが庭を持てるって変だ。
「庭を持てないなんておかしいんだ」
と要求していいんじゃないかと思うのです(今のわたしは庭をもってないし)。