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2016年3月16日水曜日

『相棒』Season14終了

(ネタバレあり。注意)

最終回の『ラストケース』、可もなく不可もなし。

シーズンの最終回は右京と相棒がどうなるかという、事件とは別の興味がドラマの大きな要素になります。その点では「不可もなし」。

ただ、冠城亘が警視庁に天下りしちゃったら、これまでの我が道を行く不遜が消えて、
右京の「弟子」に成り下がってしまう一抹の危惧がありますが。
警察学校にも通うみたいだし。



殺人事件としては「可もなく」の方かな。


政府にテロリスト対策に本腰を入れさせるためにテロを起こす、という倒錯した事件です。



姉をテロで亡くして政治的な倒錯に向かっていった伴野甚一のプロセスは、理屈としてはなりたっている。伴野を演じる瀬川亮の、演技というより顔立ちそのものに一応の説得力があります。


伴野と思想を同じくする玄間農林水産大臣も、ステレオタイプではあるが、まあわかります。


だけれど、伴野に感化されて総理大臣暗殺を実行しようとする警察官金井塚(かないづか)がよくわからん。警察官の彼がどうして伴野に感化されたのかが説明不足。これではただの単純なバカではないか。

ま、単純なバカがテロを起こす、ということを描きたかったのかもしれないが。

それから最後の黒幕の副総理。

彼の位置づけが曖昧だと思いました。

彼は伴野の思想に共鳴して玄間と共謀したのか。

それとも総理を消すことで政治権力を得ることが目的で、
玄間と伴野を利用したにすぎないのか。
そこが曖昧です。

伴野の恋人役の高岡早紀の演技が、かろうじてドラマを絵空事から救っていたと思います。


「ウンベルト・エーコ追悼」で書いたことですが、
悪への錯誤の道につながるのは「悲劇としての思想」だと思います。
伴野も金井塚も、たぶん自己像が「悲劇の主人公」なのです。
玄間も少しだけその気配があると思う。
テロってつまるところ「悲劇としての思想」なんだな、と考えながら観てました。

テロは極端まで行っちゃってるのだけれど、

政治を「悲劇的ではなく」考え、語ることはとても難しい。
立場や意見が異なると、口角泡を飛ばし、まなじりを決した顔つきになりがちです。
思想内容よりも、そういう「語りの場の雰囲気」が、政治を健全に語ることを何よりも阻害します。そういう「悲劇的な」思想や語り口は、潜在的にテロリズムと同根だと思う。
「喜劇として」政治を語る力。
テロの時代だからこそそういう力を鍛えていくべきじゃないかしら。




シーズン14, 「最終回の奇蹟」 「陣川君という名の犬」がベストだった。 「右京の同級生」がそれに次ぐ。
(タイトルをクリックすると投稿に飛びますが、タイトルのフォントの色がなぜかうまく指定できず、統一できませんでした。見栄えが悪くて申し訳ありません)

冠城亘、悪くない相棒です。

シーズン15に期待してるぜ。


あ、書き忘れた。

『ラストケース』というタイトル、最初は変だと思いました。
冠城亘の「最後の事件」なら「ザ・ラストケース」じゃないか、と。
でも「最後の事件」ではなく、冠城は相棒であり続けるという結末で、
「最後の事件 The Last Case」じゃなくて「直近の事件 Last Case」でいいんだとわかりました。

これ、カタカナ表記じゃないとできない技ですよね。
「ラストケース」は和製英語だと「最後の事件」ととれなくもない。
それを逆手にとって最後に視聴者の意表を突く。
冠城亘自身もてっきり「最後の事件」だと思ってて台詞としてもそう言ってたんだけど、結果は「直近の事件」に落ち着く。

そういう二重の意味をわたしはこのタイトルに読み取ったのですが、
脚本家の方、いかがでしょうか。
それともそこまで考えてなくて定冠詞を忘れただけなんですか?
(それでも別にかまわないと思いますが)



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