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2013年1月19日土曜日

里谷多英の帽子

モーグルの里谷多英が引退を発表した。

言うまでもなく、1997年、長野オリンピックで日本人として初めて冬期五輪で金メダルを獲得した偉大なスポーツ選手だ。


里谷多英は、その表彰式で帽子をとらなかった。

そのことが無礼な行為であるという抗議が日本オリンピック委員会に殺到し、マスコミも彼女を責めた(もちろん全部を把握していませんが、わたしが目にした範囲ではそうでした)。

その後もそのことを批判する人はあとを絶たないし、この引退会見を機にブログやツイッターなどでも「帽子事件」に触れる発言がきっとたくさんあると思う。


あのとき里谷多英の帽子について思ったことを遅ればせながら書いてみたいと思います。




里谷多英が表彰式で帽子をとらなかったことは、礼儀知らずで無礼な行為でしょうか?

わたしはそうではないと思う。
それどころか、帽子をとらなかったことを責める人の方が礼儀知らずだと思う。

スポーツウェアは洋装ですから、洋装のエチケットが適応される。

エチケットに従えば、室内や敬意を表すべき場面では、少なくともツバのある帽子はとらなければならない。
男性は、です。

女性の帽子は体の一部と見なされるので取る必要はない

国旗の前でもです。
どころか、女性に脱帽を要求する人間は
「裸になれ」と言っているのと同じくらい無礼な人間だと見なされます。

これは洋装の常識です。


妃殿下や女王陛下が国旗の前で脱帽するのを見た人がいますか?


こころみに里谷多英の帽子事件に触れている英語のブログやサイトをざっと見てみましたが、

「里谷多英は表彰式で脱帽しなかったことを日本で非難された」
という内容のものはありましたが、
「脱帽しなかったことが礼儀知らずである」
という内容のものは見つけることができませんでした。

どなたか見つけた方は教えてください。

わたしが見た限りでは、英語圏では里谷多英の帽子事件は無礼な行為だと見なされていません。当然だと思います。




帽子事件に対する全国的な反応は、おそらく里谷多英さんに大きな傷を与えたと思う。
ほかの要素ももちろんあるだろうが、
週刊誌に報道された私生活での「乱行」の背景にも(それが事実だとすればの話だが)、帽子事件以後の世間の理不尽な反応の傷があったのだと想像する。




わたしは当時、マスコミの帽子事件の報道の仕方はおかしいと思いました。

何よりもファッションを仕事にしている人間がなぜ里谷多英を擁護しないのか不思議でした。日本オリンピック委員会が抗議に対して謝罪したのも解せませんでした。
「女性に脱帽を求めるのは礼儀知らずの人間だ」と言うべきなのに。

ブログやホームページはわたしには縁遠い時代でしたから、新聞の投書くらいしか発信手段を思いつけませんでした。あまりに遅ればせながら里谷多英さんの擁護をしてみた次第です。


里谷多英さん、遅れてすまなかった。





4 件のコメント:

  1. この問題を(と、いうほどでもないが)洋装マナーにまで矮小化して論じるとは思ってもみなかった。

    ゴールドメダルを取った直後、表彰式で帽子をかぶったままであることを批判された里谷。わたしは彼女の非常識を問う前に、彼女に自然な国家への感謝の情を生み出せなかった日本という国のあり方を問うてみたい。
     かつて黒人のメダリストが黒い手袋をかかげ人種差別に抗議したオリンピックがあった。そこには世界に訴えるべき直接的な意図があった。しかし、里谷の帽子事件で彼女にそうした意図はまったく存在していない。それにもかかわらず、彼女の行為は日本教育システムへの警告となっているのではないだろうか。なぜなら、日本には社会常識を教える場が、存在していないのだから。

     人間関係や社会での生き方を、両親からも学校からも学ばずに成人する子どもたち。そこには未来の日本を危うくする種がないだろうか。加えて、すでに危うい現状が多く見うけられていると言えないだろうか。
     現在、世界のさまざまなスキー場で、日本人のマナーの悪さが訴えられている。そして、ロスアンジェルスの日本人会では、マナーの悪い日本からの若者が問題視されている。
     里谷の帽子事件を、起こした側の問題ではなく、起こされた側の問題として、謙虚にとらえ、そこから学ばないかぎり、これからの日本が里谷以上の選手を生むことはむずかしいだろう。権威や縦型の規則でルールを強制するのでなく、心に自然にあふれてくる国や社会への敬愛の情を育てることが必要であろう。それなくして、日本人による国際的活動や国家的規模での活動に、多くを期待するのはむずかしいだろう。
     国家に対する精神的基盤を作ることなく、個人を批判する姿勢。それが、現代のさまざまな青少年問題を生んでいると、わたしには思えてならない。

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  2.  わたしは里谷多英の「脱帽しなかった事件」がそもそも「事件」ですらない、「事件だ」と考えるほうがおかしいというつもりで書きました。
     繰り返しですが、妃殿下も女王陛下も脱帽しないことからも明らかなように、「女性が国旗の前で帽子をとるべきだ」という国際的なマナーは存在しないのではないでしょうか。ですから里谷多英が「非常識」だとは思いません。それを非難することの方が、少なくとも国際的には「非常識」です。里谷多英の脱帽しなかった行為のどこが「非常識」なのかをお教えいただければ幸いです。

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  3. 附記:洋装マナーに即して里谷多英の帽子について書いたことが「矮小化」であるという意味がわかりません。里谷多英が非難されたのは「帽子」という「服装のマナー」についてのものであったのですから、洋装のマナーに則して論じるしかないのではないのでしょうか?

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  4. 附記その2:脱帽しなかった里谷多英を「非常識でマナーに反する」と非難するなら、国旗の前で、そして常に脱帽しない美智子妃殿下とエリザベス女王も非難すべきです。その覚悟と根拠を示すべきではないでしょうか。わたしにはその根拠がわかりません。女性の帽子は体の一部なのですから脱ぐことはできないのです。里谷多英を非難する人々はそういう洋装のマナーの常識を教育されていない。その意味でだけ「日本には社会常識を教える場が、存在していない」という匿名氏の指摘にわたしは賛同いたします。匿名氏が意図する意味とはまったく反対の意味ですが。

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