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2012年12月14日金曜日

澁澤龍彦・伊丹十三・東海林さだお

♩♫ スタイル スタイル スタイルがす・べ・て ♪


「ものを考える」というとき、何を考えるかという内容が大事にされるように思う。
何を考えるかも大事なんだが、
どう考えるかというスタイルはかなり大事だと思う。

スタイルとは要するに文体です。「口調」だと乱暴に言い換えてもいい。
ブログを始めたのも、研究者としての自分の文体を一度壊してみて、そこから研究者の文体を作り直してみようかと思ったのがきっかけです。


文体は歴史の産物です。
反発するにしろ、守ろうとするにしろ、
伝統の上に今の文体は成立している。


わたしは 1954 年生まれ。
ごらんのとおり情けないスタイルでしか書けない物書きですが、それでも自分の年代が受けてきたスタイルの歴史を負っています。



今日はその歴史をちょっと振り返ってみたい。
世代に縛られている点は当然あります。
わたしより年配で、ネットを使える先達にはぜひ勘違いを正して欲しいと思います。



どの世代でもそうだと思うのですが、わたしは一世代前のスタイルに反発・違和感を感じていました。
「一世代前」というより「一世代前の世代がモデルとしていたようなスタイル」と言った方が正確かもしれません。

小林秀雄のスタイルだと思います。
小林秀雄、洞察力のある人です。
その気合いのあらわれみたいなスタイルが苦手でした。

重いよ。

その重さもまた、小林秀雄より前の世代の歴史を背負ってたんだと思います。
だから小林秀雄を責める気はない。

そういう「重さの伝統」から解放してくれた人たちがいたと思う。


澁澤龍彦と伊丹十三と東海林さだお。


他にもいたんだと思いますが、3人ともそこそこ「売れていた」ことが大事です。
影響力があった。



澁澤龍彦についてはいつか詳しく書かなくてはと思っていますが、とりあえずスタイルの点で言えば、
「かわいらしい文体」
があり得るのだ、ということを示してくれた点が澁澤の意義だと思います。

「えっ、澁澤龍彦の文体がかわいらしい?」とおっしゃる方はいると思う。
でも、小林秀雄や同世代の三島由紀夫の重さからの遠さはあきらかにあるでしょ?
ほんとに不思議な文体。
受験英語の弊害の典型として言われることが多い、関係代名詞を「〜するところの」という訳し方、それを澁澤龍彦は平気で使う。にもかかわらず堅苦しくなくちゃんと読める。

スタイルがそうだということは生き方もそうだったということです。
わたしの澁澤龍彦評価は、男にもかわいらしい生き方が可能だということを示してくれたことです。



伊丹十三。
『女たちよ』は本人は否定したい著書だったようです。「こだわり」の本ですからね。
伊丹十三はこだわりから自由になろうとしていた人でした。
しかしわたしは伊丹十三から「明るい知識人」というのがあるんだということを学びました(林達夫も明るい知識人でしたが、スタイルでその明るさを爆発させることはありませんでした)。その功績は大。



そして東海林さだお。
この人、戦後文体史の上でもっと評価されるべき人だと思います。


わたしはこの人の漫画は好きではない。でも椎名誠の文体の先達だと思います。そして椎名誠の男臭さがない。「おばさんの文体」です。

おばさんがおばさん的話題を書くのは別に目新しくない。
男がおばさんになったっていいんだ、ということを東海林さだおは示してくれたと思います。これにつけ加えるなら橋本治でしょうが。



三人に共通する点は何かと言えば「男らしさからの遠さ」ということだと思います。



わたしの見るところ、人文系で最先端を突っ走っている鹿島茂と内田樹も、
その文体の軽やかさはこういう人たちの伝統を引き継いでいるんじゃなかろうかと思います。










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